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【大人のファンタジー小説】マッチ売りの女の子(第七話/最終回)

Part7 伝説の女

 ランタンの炎が消えて、あたりを見渡すと、福富町仲通りはすでに明け方でした。真冬の寒さは確かに堪えましたが、あれほど降っていた雪はすでにやみ、結局は積もらずにすんだようです。救急車かパトカーか、あるいは消防車なのかよくわからないけれど、グランピングテントのなかで微かに聞こえたサイレンはけたたましい音に変わり、近くでリアルに鳴り響いています。梨々子はどこかで自分が行き倒れているのではないかという不安に襲われ、動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなりました。今こうして福富町仲通りのビルとビルの隙間にいると思っているのは自分だけで、ほんとうは、映画の『シック・センス』のブルース・ウィルスや、『アザーズ』のニコール・キッドマンのように、自分はもういないのではないかという恐れが頭をもたげました。
 サイレンの音はイセザキ・モールの方から聞こえます。梨々子は真偽を確かめたくて、とりあえずイセザキ・モールに戻ってみることにしました。マッチを使い果たしてしまった今、再び新しいマッチを手に入れたいという気持ちもありました。もう現金は持ち合わせていないけれど、お財布のカード入れにあるクレジットカードを使ってキャッシングすれば、マッチ代くらいはなんとでもなるはずです。
 
 イセザキ・モールまで来ると、まだ早朝だというのに、有林堂のビルの脇に人だかりができているのが見えました。犬の散歩途中の人、出勤前の人、お店が引けて帰る途中の水商売風の人が何かをぐるりと囲んで覗き込んでいます。
 野次馬たちの視線の先にあるのは倒れている自分の姿ではないかと焦って梨々子が駆け寄ると、人垣のなかに梨々子にマッチを売ってくれた女の子がいました。
「あたしがやったんじゃないもん、あたしじゃないもん」と半狂乱になって叫び声をあげながら警官にとり押さえられています
 傍らで救急隊員が救命器具の片付けをしていました。その脇では、制服を着たお巡りさんが5、6人いて、ある人はパトカーに備え付けてある無線で誰かに何かを説明したり、ある人はメジャーで地面を測ったり、またある人はバインダーに何かを書き込んだりしていました。地面を見ると男の人が倒れています。神奈川県警と書かれたビニール製のベストを着て、頭には紙製のシャワーキャップのようなものを被った人数人が、白いチョークで倒れている男の人の周りに輪郭線を引いたり、カメラで写真を撮ったりしています。
「よくここにいるのは知っていたけど、まさかこんな大それたことをしでかすなんて。加害者といえば加害者なんだろうけど、ある意味あの女の子も格差社会の犠牲者なのかもしれないわ」と犬を連れた年配の女性が言いました。
「哀れなものさ、一晩中こんなところにいれば道を踏み外すさ。せめて夜中だけでもネカフェに行くとか手はなかったのかね」と新聞配達を終えて販売所に戻る途中の配達員が言いました。
「あの女の子、若いね。ひょっとするとまだ子どもかもしれない。親にネグレクトされて仕方なくここにいたのかしら。早く児童相談所に通報してあげていればこんなことにはならなかったのかもしれないわ」、そう言ったのはパン屋の女将さんです。
「今流行りのコスプレか何かだと思っていた」
「パパ活の話がこじれちゃったのかな。男が強引だったのかもな」
 皆がそれぞれ独り言のように呟きました。
 
 その様子を見届けた梨々子は踵を返して黄金町に向かいました。川沿いに歩いていくとマッチ売りの女の子に聞いたことがある「大岡川商店街ビル」に辿り着きました。川沿いに湾曲した2階建ての横に長いビルには、道路に面した1階にも、川に面した2階にも間口の狭いバーやスナックがびっしり並んでいます。梨々子はその中の1軒、『バー ルージュ』の前に立ち、2、3秒躊躇した後でドアを開けました。店のなかには、カウンターに突っ伏して寝ている中年男性と、カラオケで「黄昏のビギン」を歌っている初老の男性客がいました。カウンターの中では、ピンク色のロングヘアをツインテールにして、ベティ・ブープが編み込まれたセーターを着たガタイのいい人が加熱式タバコを吸っていました。ボリューミーな付けまつげで縁取った眼で梨々子を見ると、「ごめんなさいね、今日はもうお開きなの」と低い声で言いました。朝だからでしょうか、顎のあたりと口の周りにうっすらと青髭が生えてきています。
「親方、あたしにイセザキ・モールの場所をやらせてください」
いぶかしげに見つめる親方に向かってさらに
「インセンティブはあの子より多少条件が悪くてもいいです。親方ならさっきの今でも耳に入っていると思うけど、あの子は警察にしょっぴかれて当分帰って来られないはずだわ。だとしたら、あたしでもいいんじゃない?」とたたみかけました。するとベティ・ブープのセーターを着た人は
「マッチ売りのババアなんて聞いたことがないわよ。黄リンが扱えてあのマッチを作れる職人は吉野町の源さんだけなのよ。その源さんからマッチを仕入れられるのはアタクシだけ。そんなレアなマッチを売るのは見た目のいい若い女の子ってのがアタクシのポリシーだから、見栄えのしない冴えないババアの出る幕じゃないのよ」と言って高笑いをして目の前に突然現れた女をあしらいましたが、梨々子も食い下がります。
「じゃあ最初にロットを私が6掛けで買い取るのならどうですか? 売れ残りのリスクがなくて親方にとってメリットがあると思います。私はマッチが売れたら、売り上げをそのまま手元に残します。ロット分の購入費用は、いつもニコニコ現金先払いよ。初回の分は今すぐコンビニATMでキャッシングして支払います」そんなような交渉をしばらく続けた後で店はお開きになり、寝ていた中年男性と、黄昏のビギンの初老の男性は「また今晩な」と言いながら『バー ルージュ』を出て行きました。梨々子も一緒に店を出て、「大岡川商店街ビル」の斜め向いにあるコンビニで仕入れのための費用をキャッシングして再び『バー ルージュ』へ戻りました。
 
 年の瀬を迎えたイセザキ・モールの有林堂ビルの脇、一人の中年女性がカゴを手にして道ゆく人に声をかけていました。
「マッチはいかがですか」「箱に素敵なオリジナルイラストが入ったマッチはいかがですか」「全部絵柄が違うので、2個買い、3個買いもおすすめですよ」
 通りを行く人は、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、その女性から目を逸らし早足に通り過ぎます。あるいはJKたちで多いのは「痛いババア」と笑い合うケース。「やばい、あの人やばいよ」とヒソヒソ話をするのもよくあるパターンでした。
 マッチは売れませんでしたが、どうせ買い取りで売れなかったら自分で擦ればいいのだと梨々子は気楽なものでした。全部自分で擦って使ってしまったら、またキャッシングをして仕入れればいいだけの話です。クレジットカードはまるで打ち出の小槌のようでした。2時間粘って売れなかったら、福富町仲通りのあのビルのところまで行って休憩を取ろうと梨々子は決めていました。このごろは、本当の世界は福富町仲通りにこそあって、それ以外の出来事は嘘っぱちのまやかしにすぎないと思えて仕方ないのです。
 
 クリスマスが終わり、今度は年末の大売り出しモードに入ったイセザキ・モールに、あっという間に街の景色に馴染んだ梨々子の声が響きます。その声は年が明けて新年になり、やがて春が訪れても相変わらずでした。梨々子がマッチを売る姿はいつしか街の密かな名物となり、もはや伝説の女として、ネットでは「イセザキのマッチー」と呼ばれるようになりました。Twitterでは目撃情報が飛び交い、YouTubeでは隠し撮り動画がアップされるようになりました。中には、突撃インタビュー動画を撮影する迷惑系YouTuberもいて、そんなときには梨々子は無断掲載不可の旨を告げ、必ず謝礼の支払いを求めました。サインを求められたときには、色紙持参でなおかつマッチを買ってくれた人にだけ応じるようにして、<Macchy@Isezaki>というサインの横には必ず直筆のイラストと<#マッチ1本火事のもと>という自分で作った自身のキャッチフレーズを添えました。イラストはその日の気分で猫だったり飛行機だったり、気が向いた時には桃太郎やかぐや姫など手の込んだものを描くときもありました。
 
 もともとある絵柄の上から、梨々子が油性ペンでイラストを描いたマッチ箱はヤフオクやメルカリで高値がついて売りに出されていることは梨々子も知っています。コレクターも出始めました。転売目的でマッチを買いに来る中国人もいます。それでも梨々子は6000円という単価や、1日6個という販売数を頑なに変えませんでした。NFTアートとしてメガマーケットで販売しないかというブローカーからの持ちかけもありました。しかし、マッチ箱のイラストをデジタル化して非代替性トークンと紐づけるといったところで、しょせんスキャンしてJPEG化したにすぎません。デジタル化した画像を販売すれば小銭は稼げるでしょうが、1点ものアートとの親和性はかならずしもよくはなく、アートとしての価値は確実に下がってしまうというのが梨々子がNFTアートに対して出した結論でした。マッチとして売っているから価値が出るのであって、バスキアがストリートで描いたからこそ作品の価値が出たのと同様に、このイセザキ・モールでマッチを売っていることに価値があると梨々子は考えていました。これはマッチを売るという行為を含めたインスタレーションだと割り切り、実入りは少ないままですが、マッチのプレミア感をキープすることに梨々子は心血を注ぎました。
 
 ゴールデンウイークを間近に控えたころ。少しだけ手元に売上金が残るようになった梨々子が始めたことは、長者町の方にあるドンキホーテで買ったチェリーピンクカラーをしたアンディ・ウォーホル的なヘアスタイルのウイッグと、真っ赤なルージュで、エキセントリックに着飾ることでした。日々あれこれ戦略を練るなかで、作品のバリューを底上げするためには、作家自身に物語が必要で、物語の大きな要素となってくるのはキャラクター性であると思い至りました。ゴッホやアンリ・ルソーの作品が、100億円以上というほとんど天文学的な価格で取引されるのは、作品そのものはもちろんですが、キャッチーでマス受けする作家のキャラクターによるところも少なからずあるはずだと思ったのです
 
 イセザキ・モールの時計塔が夕方6時のチャイムを鳴らし、塔の窓が開いてクマのオーケストラが飛び出してきて、夕焼け小焼けの赤とんぼの演奏を始めました。
 梨々子はウイッグをとって無造作にトートバッグにしまい、サラ金のポケットティッシュを取り出してルージュを拭き取ると、
「きょうはここまで。福富町仲通りへ行ってマッチを擦ろう」と思いました。最近ではマッチが売れ残ることはまずないけれど、最初から自分のためのマッチは手元に残しているのでした。クリスマスの日にイセザキ・モールに来てから、ずっと家に帰っていない梨々子でしたが、どうやら夫の雅紀は捜索願を出していないようです。『バー ルージュ』で仮眠をとったり、残ったおつまみをつまみ食いしたり、ネットカフェでシャワーを利用したりしながら、その日その日をしのいでいました。「ま、いっか」と梨々子はニヤニヤ笑いながら「とにかく今日はこれでおしまい」と独り言をつぶやいて、カゴのなかに1箱だけ入っているマッチ箱を握りしめました。そしてこのお話もおしまいです。
 あらまあ、これで終わりなの? この話は一体何だったの、不完全燃焼だわと思う人もいるかもしれませんね。でもねみなさん、お話というものは、たいがいみんなこんな風におしまいになるものですよ。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

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