善人と悪人
この世には善人しかいない。
善いということは悪いことなのではなくて善いということなのだから、人は善いことしかできないはずである。これはプラトンの話だっただろうか。確かに論理的にはそうである。問題は、自分が善いと思っていたことが時を経て実は悪いことなのだったと知り、本当は悪いことだったということがあることだ。だから、大切なのは正しい知識を身につけることである。正しい知識を身につけることができれば、人は真に善いことをすることができるからだ。
さて、しかしこれは人が究極的に利己的な存在であるということだ。この世には善人しかいない、ということはこの世には利己的な人しかいないということである。であるから、これはコインの裏表のように、この世には悪人しかいないということをも意味しているのではないだろうか。善人と悪人とは表裏一体であって結局同じ人間という特殊な存在を指す言葉なのではないだろうか。
たとえ人が殺人を犯したとしても、その人は善人であり悪人である。彼が「何を」したのかはここでは関係ない。だが私たちはよく善と悪の問題をこの「何を」の問題にすり替えて考えてしまう。確かにこの問題も十分大切な問題ではある。しかし、その問題にたどり着く前に私たちは人間が普く善人であり悪人であるという真実を一度認識しておくべきである。そうでなければ、人はいつまでも魔女狩りを繰り返すことになるだろう。
差別とは人が自分と「違う」ことを絶対的に越えられない壁だと認識し、相手を「非人間」と見なすことで生まれる。だから、差別を超えるためには人は自らの理性で真理を認め、相手が「何を」善いことだと考えているのかに関わらず、とりあえずその人が自分と同じ「人間」なのだと思うことから始めなければならない。
その後になって初めて私たちは「何が」善いことであるのかを相手と対話することができる。そして、互いを憎しみあうのではなく、相手との対話によって、自らの理性によって問題を解決することこそが「人間」の尊厳なのではないだろうか。