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※9【梅の秘密】優劣の基準値「松・竹・梅」2024.4.25


 

※9【梅の秘密】優劣の基準値「松・竹・梅」2024.4.25



誠意ある悪意か、誠実な悪意か、よく分かりませんが、時に返したくなることは、おそらく教える側でもあるのかな?と思ったエピソードから。

両親の話で、母は実は芸高3年時に長谷川良夫先生から藝大から当時池内友次郎先生の鶴の一言で本来は来ることがない教師の父に習うように言われたそうで、皆と受けたそうです。
フランス語的に「シャンドネ?」(門外漢の私は尚のこと知りませんが)か、ソプラノ・バス課題か母は古すぎて既に失念したそうですが、答えを見て受けなさいと言われ、「ここはいいな?」と自己の回答に混ぜたそうです。
すると若かった父が見た瞬間
「ここ、答え(見た)でしょ?」
と言い当てられ、母はオタオタと言い訳(ことの経緯)をしていると、ちょうどそこへ(作曲)長谷川良夫先生がドアの外を通りかかり、父は見逃さずドアをあけ、
「先生、答え、教えちゃ、ダメでしょう?!」と言い放ったというところから‥奇跡的に母は父を否定もできる人にまで育ったのだな、と長年を添い遂げた姿を見て思いました!🤭

長谷川良夫 - Wikipedia

母曰く自身はその頃から融通がきかないところがあり真っ直ぐに言うとこは(父が気になることだったのか)そのまま残っており、それは、おそらく相性なのだろうと思うわけです。

ある時父が自分の曲の何を知っているか学生の母へ尋ねたところ、融通ゼロに「何も知らない」ことをはっきり答えた母へ「じゃ、何を知っていたんだ?!」と父が怒ったとかで、そのようなほろ苦い話がアタシにもないかしら?と思い返してみてのですが‥

院生時代にまだ「バカの壁」を出される以前の養老孟司先生の少人数クラスで、先輩の学部違いの彼氏(ロキソニンテープ考案側で後年に学内で取り上げられていたような‥?)と受けていた余談時間に、3年時のテスト前に24時間、ウイルス性の風邪で嘔吐し続けてしまった話を先生へしたとろ、しっかり聞いてくださったあとに、

「君は原始的な力が強いんだね?」

先生から彼氏の前で玉言を賜った🥹✨✨
先生の本はことごとく読んでいた私はその時の達成感でほのぼのしておりましたが、そういえば色気がありません‥😱

むしろ間引いた感が‥😱😱

何故かその続きの話題として、カニの血液は色がブルーで、その理由は‥そんな原始・原子話すら余談に出ていたような‥?休憩時間なのですが(爆)
原始のカニを思い起こさせる女😎←カニではなく、話、盛りました。

それならいっそ小学生は?と思い返してみます。
私が初めて世に名を出したのは、小3、10歳です。
テストでした。
「権力」の権の文字が書けず、「自分の名前でもいいから試験は白紙で出すな」という「我が家の掟」のごとく、「のぎへん」にして出しました🖐️!!

「今日は漢字を作った人が居ます。💢」
と男性先生に翌日の返却冒頭から発表されてしまったこととか。
危うく「私」を折半した作製漢字で通過するとろでした‥!😎

高校時代、英語のクラスだったか、ジョン・レノンの「Let it be」を「ありのまま」と日本語訳をしたプリントとともにクラスで歌うことになったのですが、英語授業を好んでいないギター好きな男子生徒が非常に「歌の訳が音にあわない!」と1人、激おこ(怒)して歌い直していたのですが、先生というのは、時に逆襲するものだなと思いました。

さて、日本の「松竹梅(しょうちくばい)」は時に優劣を示します。
これは中国起源では、ないです。
日本特有です。

そうすると門松や、能でも「松」や「梅」なるテーマは古くから入り込んでいますから、どこからだろう?となるわけです。

九州に行ってきてから少々時間が開きましたが、
「畿内説(ご存知の方はキーワードですが)」やら「九州説」という言葉は飛鳥以前の謎の日本列島の権力状況への専門的に知りたい各人の「期待」方向(方角)を示す単語です。
ここから先は九州の湯布院「はな村」さん温泉湯♨️、マッサージチェアが2階にあるメゾネットが当日空いているからと、1人で使わせていただけた、おもてなしの心を思い出しながら(全日程の全て、お宿をもご用意してくださった九州の川上さん、皆さんへ感謝しながら)、「梅の秘密」を有料投稿Noteしたいと思っております。

©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子
©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

【梅の秘密】「僕は旋律を失ったんです」

※検証 島国への音の入り方 ルートの違い?

父は何百冊もの自宅の名だたるユーラシア大陸の作曲家のスコアへアナリーゼを書き込む人ではありませんでした。頭に入っていて他に話すよりも作曲時間がメインであることは、娘っ子が2頭身3歳くらいにいつもの仕事部屋のブルーの硬い絨毯の上で、ショパンと父の音の違いが分かるくらい、明白でした。
遺品整理をすると、父が、初めとした(それ以前の大量の試作品ノートは焼いたそうですから)大学のごくわずかな成長過程の記録が見られます。それらはわずかに、しかしながら和声やフーガとして完成形への過程でありましたので、藝大へ資料として寄贈しました。
中でも珍しいと感じたのは、ワーグナーのアナリーゼがわずかに残してあったことです。
父はフランス話声を主流の池内友次郎派閥です。
ですが、留学は以前記載の通り、師から不要であると言われた何かを持ち合わせ、自覚しておりました。
今居るその場所からを始点に発展させることができる、という意識であります。

父は2022年9月18日、亡くなる13時間ほど前に私へ話したことがあります。言葉の綾では「亡くなる寸前まで作曲家」でいたことを死に目に会えた奇跡で家族として死後の世界になっても、私は証明できます。しかしその亡くなる時に病室でスコアでも持ち込んで作曲をしたわけではありまけん。
ここからはまことしやかに承諾も無く病院のカルテに訪問記録もない人が勝手に(母と私しか知りません)我が家の死に際に関して勝手なことを世間へ、さもありなんで拡散した方達へ、誰とは書きませんが、未だ(2024年になっても)訂正もせずにおられることへ、はっきりと、にこやかに書き記しておこうと思うことなのですが🤭、
正確には私の方から父へ病室で父に話しかけたことの延長で遺作『ピアノ、ソナタ』の1箇所について話が触れられたわけですが、その完成時期は、この間送付されていた作曲家名鑑へ、父からパソコン代理で頼まれて申請書を私が書いていた時より以前であります。父の死ぬ時ではありません笑

2021年後半から年明け2022年の、帝国ホテルへ8ヶ月滞在していた時なので、私はよく覚えているのですが、帝国ホテルで完成祝いを両親とともに(2022年)3月14にした際に、父からはコロナで白内障手術を見送ったため目が見えにくく、(怪我で)手の不自由さも出て書きにくい中、やっとできたこと、「(2022年3月)4日に完成して(ピアニストの)岡田(博美)さんへ渡せた!」と年数をかけた完成に、喜ぶ父の記録を私はしております。

病室では気にかけていただけで、どこかの誰かがネットに拡散していたような、病室でスコアを広げて完成させるような状態では、一切ありませんでした。最期を看取った娘として言い切れます。
また父はそこまで大したことではないように、死ぬ前の病室でも非常ににこやかに笑ってみせて話していたことです。
そこに悲壮感はありませんでした。

さて、和声、音。私は門外漢です。
歌詞の無い音楽か、歌詞付きかで、かなり作曲の技法展開に制限が変わりそうだなー?と、「シャンドネ?」などと、読めぬフランス発音を勘ぐる、ドイツ語専攻側の私は思うわけです。

イタリア歌曲集は歌ったことがありますが、発声自体、ワーグナーのオペラとイタリアオペラでは違う。マリア・カラスを見て聴いても分かることがありますが‥。
父の世に出た文章のデジタデータは遠山一行記念  日本近代音楽館へ私自身もスキャンして寄贈しておりますが、作曲作品が父の意見であります。
「歌詞付き」になると、ドイツ語のあの厳格な雰囲気の音と、日本語の音では異なりますし、歌に関して和声とはどのようになるのだろうか?と門外漢は疑問に思います。晩年の制限の少ない中で作曲する父は、そのような意味で作曲の幸せは深かったのではないかと思います。

島国ですから音の入り方、言葉の混ざりが、ユーラシア大陸とは大きく違い、原始の音は辿りにくいわけです。また証明の仕方もユーラシア大陸とは異ならざるを得ません。
日本語のアクセント本を父は生涯部屋に置いてありました。父はとにかく書き込みすることはなく、暗記している人でしたから、メモもアクセント本にはありません。
つまり音楽、既にある和声やフーガなどの技法を最大限に「歌う」ことへ現代音楽の要素で臨むにあたり、その土地の言葉のアクセントをも音に内包してきたのだろうと、私は解釈しています。

父は私が生まれてからかなり良質の演奏を日常で聴く生活をしてくれました。オペラ『ルル』は2頭身娘っ子にワンフレーズ歌ってみせて(娘っ子がルル?と言い当てて)理解したことを日記に書いていますが、心地よかろうが(現代音楽特有のありがちな)不快さだろうが、聴くことの日常への忍耐力をつけさせられました^_^
Dame Gwyneth Jones DBE(1936生)のブリュンヒルデを中学で初めて聴いたのも、父がせっせと「ブレーズ舞台演出の放映は面白い」と毎夜録画している日常を脇で眺めていただけであります。今となっては海外輸入版からしか手に入りません。
父はベルクについて、娘っ子が2頭身時代にも気にしている日記記録がありますが、世に出した発表範囲で自宅に記録を残してはいません。

完成遺作は『ピアノ・ソナタ』ですが、母からも極めて融通皆無の否定的な言葉、「ヴァイオリンコンチェルトの無さ!!」を指摘されたのか、臨んでいたようで、それが未完成です。
その部屋にベルクと、あと2冊の楽譜は置かれておりました。
そのことは、ベルク資料にお詳しい藝大教授の先生お一人にだけ、お伝えしました。
ベルクの話を出した理由は、父は(講義録音の音声がかろうじて手元にありますが)「歌う」ということ、ある時から「作曲概念」を変えるきっかけがあり、通過点にベルクがあったようで(ベルクを通過せずハマっていた時期を父は「僕は旋律を失ったんです」と表現しており、それを「獲得できたら気楽に気分悪く倒れるような曲が作れるんじゃないかと思っている」などと述べ、「今まで主観的であったものを客観的にした」と)自身の作品履歴でいうならば『ピアノ協奏曲(私の生まれた1977年)』からであると私が小学生頃に明言しております。
フランスのエクリチュールはもとより、それ以降の父は「再現」性にこだわり旋律と再現の世界、邦楽に対しては、「再会」と表現していました。

「歌う」ことが日本の島国の飛鳥以降の精神に確実に根本にあることは、和歌を見れば分かります。
これは私の検証事ですが、和歌の五・七・五‥このような「調」は、日本の島国を中心にした時の「北」と「南」を大まかに捉えた際に、「南」の経路から入る要素が内包され、いわゆる「北」側のルール「詩」とは別物の要素ではないか?
そこで「梅」であります。
 
【後日ここから先を有料投稿予定です】
(よくネットに出ていることから入りますので、購入しなくてよいかもしれませんが、承諾の上ご購入を笑)

【梅の秘密】2024.5.30 前置きをさらに長く、1-7の前置きから

1【知っていただきたいこと】夜マック

私は基本、薬剤師でして、音楽世界から縁遠い仕事時間を好き好んでしていた時のことですが、それはそれは時間のかかる毎年の「棚卸し」。「薬価改正」による2年に一度の入力確認やらの思考改訂。まぁ、迷惑な制度だこと🐹と、勝手に今でも大嫌いなことの方に振り分けられることなのですが。🐾🐾🐾🐾🐾🐾

そんなやっかい(駄洒落もいまふたつになる←「いまひとつ」にもならぬ)ごとを共有する先輩と、はたまたま時に自己都合時間でポテト🍟。
夜マックしていたことがあります。

これはいくはなんでも(心は)冗談ですが、🤭🤭🤭最近血迷った娘っ子は、ドラえもんのミニドラムを手にしまして(苦笑🤭)🥁←Mマックのハッピーセットが気になって、気になって💧

「母に祖母のふりさせて自宅待機に買わせるという痛い提案」をしたところ、あっさりしてくれたという寛大な母です笑💦💦

その昔と言っても20年くらい前(四半世紀近い!!)「ドラえもんの住民票が川崎から発行された?!」暁には、国家資格を取得した年齢にもかかわらずパソコン印字する珍事を父に見せるということをしたくらい、(特に)ミニドラえもん好き。父から娘っ子が幼少期時代に出たばかりのドラえもんは教育上問題ないと、教えてもらった世代であります。ドラえもんと私は同世代なのです🐹‼️

2【「ドラえもん、いいじゃなーい!by父」】スマイルなこと

夢に出てきました、父が。この5月9日に。

意外にも組織の中の人事的なことが得意な印象を、密かに私は父に持っています。もう、水を得た魚のようなところが‥溢れていたようにも、娘っ子が勝手に感じ取る、作曲以外のサブ的なことです。

そんな父から当時の地下室に「今までの人事にまつわること」を記録する癖、そのような棚の書類を見せてもらったことがあります。

しかしそれらは10年ほど前に捨てたと、「見て!」「見て!」と「これ!☺️」と見て欲しいらしく、私も苦手な地下室へ、オヨオヨと(階段が怖いので)降りました。

すると確かに珍しくスッキリと、しかし「あら?」ドラえもんでは?!と(もう大人で初版は売ろうか?などと打算的な)漫画の束を見つけて指摘すると、「ドラえもんは、いいじゃなぁーぃ!」と父は惜しんでいました。が、それも今は空にして、そこは引き払っております。

昔はミニLP付録があって(どの付録かは忘れましたが)、声優(大山のぶよ)さんのドラえもんの声で、学校へ持っていくものはなぁに?というクイズ形式の声が今もまわすとかかります。私(昭和52年生まれ)が小学校一年生の入学付録でした。学研を作っておられたかたのご家族が管理時代の職場に居らしたことがあり記憶も鮮明になるのですが、当時の付録群は、コラボも科学と楽しかったように思います。

因みに子供の頃からの私の友達のような白くまのぬいぐるみは、捨てたぬいぐるみ群(群馬県「芸術村というところ」にあった子達のはず)とは別に、そこにあったらしく、40年ぶり?に再会し、「はて?いつからあったかしら?」と思いながらもこれは父が取り分けていたおかげで、白いまま、今手元に戻りました。クリーニングをかけたら子供用だと思われ(苦笑🥹)、ビニールに包まれリボン🎀でリボーン(REBORN)という見事な復帰した、その名も「ボンボン」!!

©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

ボンボン(小さい頃に本能で名づけました)白くま。

娘っ子2頭身同時には親友、ほかのぬいぐるみにいじめられても(脳内会話は母仕込み)ボンボンは味方する、という構図で、あの時は大きかったのに、小さくなったなぁ?と、ボン=梵、ひいては、アートマン?などと、無宗教者(最高倫理を上に持ちたい有神論者の立ち位置ではありますが)の私は、他の言葉も立ち入ります。


「歴史時間」という包容力も、時に剥がれていく瞬間があります。

ふと思い出すのは、そういう「剥がれ」、むき出しになった心が、どうしようかなと包み込めるエピソードを探す時で、「梅の秘密」を書く前に剥がれておかないと遡らない「人類史」が奥深くに日本は流れていますから、作家でもないのに(ノンフィクション主義)、どうも気乗りがいたしません‥😱。

そんな時は笑いも探します。

父と私の共通点は、爆破するしかないような瞬間コンバット(Combat)でも、笑えるかどうか、という心意気みたいなところは、意識を合致させたことが一度あります。

日本の特有の落語なり、様々な日本文化的な要素は、その時笑えるかどうか(たとえシニカルでも)、足を踏みとどまらせる強さ、流されない自己を思い出させる、という認識です(そこまで父は語りませんが、端的に「こんな時にも笑えるかどうか、だよね?」というさっぱりした笑いの共有)。

3【笑い?古(いにしえ)の軽井沢の話】

軽井沢 ふりさけ見れば アラームが鳴る
長野のバス停 出し熊かも?
by エリ坊(これは、悪ふざけです)

長野県で父が母としばらく夏のみお泊まりさせていただけた邸宅(父と藝大の頃から親友)がありました(私はチビの2頭身どころか赤ん坊🍼)。

ある時、父は避暑さながらにそこで作曲をしていると✒️♬、なにやら視線を感じる。涼しいがおかしい。そーっとそちらの方へ視線を向けるとお婆さん方が自分の方を3名で覗き囲んでいて、びっくりして悲鳴をあげ、母のところへ飛んで行った父。理由は、そのお宅は有名な建築家によるお家でもあり、拝観されることが当時はわりと当たり前であったことを、父だけが知らなかっただけ、という笑いですとか‥💧、その時の曲が「ピアノ協奏曲」で、聞くと、どこかにその時の恐怖はないかな?と、子供心に思うのですが🤭、それはない‥と思われます。昔から私は勝手に、父はこの曲であると自然に思っていました。そのものを若い父が持っていたからで、父が年配にさしかかる時から(私自身が慣れてきたことと)、父とこの曲は少し距離が出たようにも思います。

そのような意味で最後の「ピアノ・ソナタ」は、最期の父を示していると思うのです。

©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

人里離れた長野原の山奥、芸術村においては、おら村どころか、屋根に登ってシャチホコでも食べるつもりかという熊による壁に風穴の記憶、犬と散歩に出て帰ると犬が3匹増えて4匹になった父、狐が夜に迎えに家の前まで呼びに来られる恐怖で震えた散歩に出た時の、本来の飼い犬雑種犬のくんくん。台風で溢れたら排水路で「ちょい流し」にあい「くーん。」と鳴いたくんくん。くんくんすらも言いたいことがありそうな我が家🤭

スワロフスキーの犬のお家をテレビで見た時に父は、「親のお金でねぇ‥。」とボソっと決めつけたコメントをしたことがあり、父は言わないと分からないと思ったのか、言わなくても分かる親の違いと犬小屋の違いを口にしたのですが‥。

私は、「子の違い」もあるだろうけれども、言わなくても分からないだろうから、言わなかったです🤭🐾💧

後年父のメモノートに折口信夫の言葉が残されていたことは書きましたが、そのノートラストは笑いの毎年の川柳大賞のピックアップ群。

「犬はいい 崖っぷちでも 助けられ」

と手書きがされ、意外と後から面白い人だったと娘っ子は思っております。

見つけるタイミングと選ぶセンスは親子枠から✒️🐾

母は父の休まるソファーや父の寝巻きも良いものを長くと考えていたようで(そんなに長く?という経年劣化のうちの傷跡をつけたその後のパピオンアイリスが短期預かりに来たわけですが)「爪、噛ませ」跡💢?!へ「アイリスならいいの🐾」と、冷ややかな父の甘さへの怒りをぶつけたことはあったと、死後聞きました‥(詳細不明)。

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夕日が綺麗で小学生の頃にこの山と山の間の夕日を「最短・超楽・夕日(せきじつ)」としたところ、「これだと尻山にうんこだから笑。」と、美術の女性先生がにこやかに「少し山(ヤマ)をずらしてみて。」とアシンメトリーな素晴らしいアドバイスをくださり最短製作。後日まさかクラスに貼り出されるとは知らず、見事な「多線・都会・高夕日」群を背に、都会生まれのくせに全員と違う、とんでもないことになってしまったと、内心、1人下を向いていたのですが、クラスの担任の先生は私の絵を「田舎を思い出すなぁ」と、後ろ背の絵に対し正面から、上を向かせる言葉をいただいたことを思い出します。

4【ゲーム理論】受け入れたからには‥

父はダイヤモンドゲームも好きで、カード当て(専用の「神経衰弱」という名前の専用カード)、父方祖父母も交えゲームをしたこともあります。

でも強くはない。なんか強くはない。オセロも、テレビゲームも、かなり一緒にしました。

高校生で初めて父とチェスで「チェックメイト」しました、娘っ子、受験も終わった16歳🐹‼️

「ちょっと、待って。by父🤏」え?

三手戻されました。

「ニドト、チェスナルモノハ、シテナルモノカ。」(理由負けた)と娘っ子は決意。タエガタキヲタエ…。

その後は電子的なゲームはニンテンドーなど出てくるため、父はカードゲームはパソコンで必ずつけていましたが、私は結婚前に「ゼルダの冒険(Wii の立体的な感じ)にハマり、自宅で仕事後、父の小さい仕事部屋隣接の居間のスクロール白画面(仕事で本来映し出すのであろうところを借りてよいとのことで、そこでヒョイヒョイヒョイヒョイ20代後半にWiiやらテニスゲームやら←野球は一緒に大画面で決戦シリーズは観ることはありましたが)披露していたところ(父は娘っ子が2-3時間のゲーム中、扉を開けここぞというところを観るタイプで)運良く完了する瞬間を父が記録してくれました。これは今に始まったことではなく、初めてのサンタさん以来、次は父の欲しかったゲーム機(私は「もうもうさんのミルク瓶」と「牛の自動乳搾り機」と誰にも明かさず念じていたのが来ず(注意: 都会生)、「サンタさんにも事情があるんだ🥹」と8歳くらいで受け入れた初代ファミコン)で「スーパーマリオ」を学校を休んでもよいから2日-3日で済ませるという親の保護の元の記録(父が録画した記録あり写真あり)からそうです。理由はセーブ機能が初代ファミコンにはまだなかったからで、白い陶器の花瓶に水を張ってその上にファミコン機を置いて、AからBダッシュする娘っ子を両親が見守り達成するという、解読本無しで達成し、無事、先生へお休みの承諾も得て、小学校へ向かったような記憶があります。サンタさんは来なくなってからも私は18歳まで信じきっており、なんとなくそのような不思議なご縁は今でも大事に思うタイプです。

5【メモなのか】空白を知るのは家族である

単なる日々のメモ。いくらで物を買って、天気は?と、忙しくなってきて手帳も書いてない時は作曲か別のことをしていたのか。遺品整理で廃棄。それを本人は自分ではできないけれども(何故しないのかその時は少々ご迷惑な量に見え)、廃棄希望。

なんでこんな程度なことが?と初め思いました。

そのうち、ああ、この時期は私も居た、私も何も書いて来なかったなと。ここで勉強かなんかしていたかな?と思う群馬の空と都会の違いを思い出す程度。

虚しいものです。と言ってもその一冊だけですが。言葉はありません。

それが人生だよと言わんばかりです。日々を書いていた父の日記は子供メインの生活ではなかったことでできることでもあり、作曲メインになった時期と、ほとんど家に居たことと、死ぬまでの確かな予定を記録している一方で(シンプルメイン)特殊なひと夏の一冊でした。群馬の夏だろうと、思い出せるのは家族は一緒に居たことです。はっきり言って、私も結婚まではほとんど家に居たので、その長い間、どうしてこんなに家に居た?というくらい、なんやかやと家族は家族しています。

同時にその時期はCD、ビデオ、ネットに至るまでの、相当な刺激媒体が世界初で出てくる時期でした。初めて見た魔法のようなCDに娘っ子は、信じられないと12歳で感じ、ウォークマンだと、当時の私の髪型(もみあげだけ伸ばしておかっぱに自らした)を、見知らぬ学生に揶揄されましたけど、機械の受け入れの連続人生です。

投稿なんて容易に無かった、無かった。

父はそれに凝り始めていました。

記録は写真やら動画へ限度ある移行となったのです。

「行間を覚えているのは母と私だが、私は記憶が薄い。それでも母と私に捨てさせる意味は、そんなところだったのかな。」と、こんな気分です。

こんなもんだよ書き出せば。暇もない。でも知って(い)るよね?という気持ちになるそれは、本人意思の尊重で捨て。

新作生茶のペットボトルの蓋が地に落ち、蓋の口は上を向いて汚れなかった。

既に空(から)にしたトロピカーナのオレンジジュースの外来の蓋は、同じ口であったので付け替えた。

そういうどうでもよい一連の行間は本来どこにも書かれずに、私はどこかへ逝くわけです。

6【契約{協議)が人を守る?】旧約と王冠とアカデミーの時の誤訳

契約を元に揉めることと、正式な契約がないことで揉める場合がある。

西欧史、政治史は、ある時期から確実にそうなっています。

「旧約」から始まる理想と「王冠」の架け橋が始まり「アカデミー」が混じることでそうなっていったように、かい摘んだ勉強で大雑把な捉え方では、「ディベートの基礎」が、彼らにはあるわけです。

それ「契約」(に相当すること、に至るまで)を求めて、長いこと揉める。それを「個人」「個」の単位で法治国家でする、これが先進国達、という狭いルールの平和現代です。

かたやそうでもない歴史が長い場合、自己分析が甘くなるのは、彼ら(契約)のルール上の場合のみであって、実質無関係な生活の平和ボケか、範疇外の自己ルールを優先すると、彼ら(契約)の曰く「尊厳」に対して鈍くなると思います。

「現代のアカデミズム」が包括した時点で、譲歩的にもならず、揃わない。

父が1冊だけ残し門外不出(公表はしない)でも、家族には見せた青年期の日記が一冊だけあります。

母の養父別宮貞雄にもそのようなノートがあり、父ともに共通すると感じたことは、青年の未熟さに自己が気がつき目覚める前のもので、非常に短期に未熟さを終わらせた(表に書き留めない意味で進むことを選択した)ことです。

自己の問いが青年にはありました。

「人を愛せるか」は初期テーマのひとつにあるようです。

ヘルマン・ヘッセのそれのようなのか、『パンセ』のパスカルの如く分析するのか、ライプニッツの自然科学を文化芸術へ解いてゆくのか、造り手として自ずと自然発生させるのか、青年の初期は読み手に対するものではなくハラハラと危うく連想させます。その意味で払拭点がないので、疲労しました。その後に来たる公への論破たる勝利宣言のためのアカデミズムを見据える、内証だからであろうと思います。スッキリ昇華しないのです。

4:15、早朝にキツツキの声が「イズツ(井筒)」に聞こえながら書いておりますが、母の養父別宮貞雄氏最後のオペラのテーマです。私は中学だか高校の教科書で初めて出会い好きだった古文で、ずっとこの歳まで覚えており、未出版ですので電子化の苦手な母に変わり、父の遺品整理が終わりが見えぬ中、自宅スキャン後の寄贈となったのは、好きなテーマだったからです。

「問いの帰結」であろうと、その初期のノートは見なくても分かることですが、初期から最後まで一貫していると思います。

難解な問い、カトリックの問いでもある、このテーマを別宮貞雄氏が残されたこと。実子はなくとも添い遂げ示すことがあるように思います。

作曲家は破天荒なユーラシア大陸の面々が多おうございますから、稀有な結果かもしれませんが、初期の問いを設定し、アカデミズムに最高を掲げて作曲する「姿勢」が共通しているのです。

別宮氏は自身での批評(作曲は素人でも文を書くことはプロという辛辣自己批評する、東大2学部卒)をしています。何で起爆剤的に破壊するつもりだったのか‥💦。

なかなか父は《たいへんな(父は「漢字で書くと本当に大変な事象の気がするから平仮名で書くの。」と、私のつっこみに呟いたことがありますが🤭)》場を戦場としていたようだなと、知らぬものは思います。

カトリックの最高善を実践する母の養父ですから、それは手厳しく「君の信仰する神は人を許すんだよね?」と母に父が確認したことがあります^_^

我が家は宗教に囚われることはなく強要のない自由さ、私は無宗教枠の有神論者(最高倫理好きの超リアリスト)、しかし「信じるように」とある他者にとっての教典は信じて読むということを尊重します。読んだ限りでは実にあの12(13)使徒は「元、熱心(党)な不信仰者(もの)」であったと批判的な体質ですが。

そこからの高みへの変貌は、現代であろうとなかろうと、ロケットを大気圏外へ押し出す叡智の後押しの力のようだと、枠外であろうなかろうと、「13」を避けることはできることであります。

ギリシャ翻訳が世界的に広まっていますが、元のヘブライ語は一度廃れ、現在までに再復活した珍しい軌跡の奇跡的な言語です。翻訳してはならないとイスラム経典は言われるようですが、また、翻訳してどこまで正しいとするのか、最近の聖書翻訳批判を読むと、かなり注意深くなります。

「パンドラの壺」を「パンドラの箱」と定着変換したのは、あの「エラスムス」、上野の藝大近くにおった、あの船首「小豆研ぎ婆(あずきとぎババア)」(既出投稿【2.5per思うこと。和やかなちちへ、こまめにね?】2024.2.5)です。

やらかしました(?)、船は謎に難波です。

本来のあるべき姿、ではない?箱から最後に蓋を開けると残るものがエルピス(何かは正確には翻訳できていません)。それを言い始めると、アリストテレスの言う「エアダイモニア」も実は何かは不明です。

エルピス、最後まで残ることをエスペランサのようなことにする人もいますが、意訳ついでに「種子」や「子」であるとしたらどうでしょう笑?

ところで、世襲制でもないのに子を否定する外野の声というのは、いささか三流だと感じます。

稀に見かけると、あら、業界をかじっているかた?という(決して一流ではないパターン)構図に笑うことは、他人バージョンで過去あったのですが、「我が身世に振る眺めせしまに」の立場だと最近、気がつきました笑!

ほっちゃらかせばいいのよ(放っておけばよいのだ)、とは思うのですが🥹!

以下は父が亡くなった日に撮影したものです。


©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

父が亡くなる日、なんとなくこの時計も見せようかなと前月の誕生日時の写真とコロナ対策で袋に入れました。その日持ち帰ることになってしまったこと、その時の不安定な気持ちを、この親子の思い出が減らしたように感じたので、時間記録し、そのことが私を強くしました。

父を安置所まで(母は心臓が苦しかったため休ませ来られず)私は1人で父を見送るまで休むことができませんでした。この時計のおもちゃは休む寸前の時間までの時系列を覚えていられる時間記録の役割をしました。

父が小学生の私へ買ってくれたこと、私は父へこの時計をモチーフにした物語を書いて見せたこと、生前の父は何故か捨てられないと、群馬の整理から大人の私へ故障(ゼンマイで踊る)を直して戻したおもちゃです。

王冠は私が買ってもらった当時作ったのですが、この日自宅に戻った瞬間に壊れてしまい、接着剤で頭につけてから、徹夜の睡眠に午後から入りました。

その時間的配列はまるでギリシャ神話のモイラの、それ、のようにも感じました。

7【おかしのまちおか】親子で「おかし」好きの距離

父方祖母が飴玉袋というのを二頭身娘っ子は、数えるほどしかなかった父方祖母の上京状況から貰うことをとても楽しみにしていました。

元々戦後から平和な復興を遂げた頃には泉屋(父方祖父は亡くなっておりましたので会ったことがなく、「祖母のお店」という意識に私の中でありますが、既に店終いに近かったのだろうと思います)には、お菓子も置かれていたそうです。

丸い水色の綺麗な赤ん坊でも持てるサイズのシンプルな金太郎飴を切ったような、ソーダ味。

ある時、畳の「えりこのお部屋」になりつつある祖母も泊まるマンションのお部屋で、こそっと「いつものこれね‥。」とカサコソと孫のお口へ‥ところが、ん?!🐹こう見えてかなりこの頃から忍耐力があったのだろうと思います。なにせ母方祖母からも父からも「あなた(えりこ)は強い」と双方から言われておりまして、その頃は何が強いのか分からないで日々失念(?悪い記憶は2個くらいでしょうか?)して笑顔で振り向く二等身。しかしこの時はジワっと「ー‥(ほぉー)。」というようなスースー感、ハッカだったのですね。

それを父方祖母は知らず、老眼眼鏡もかけ忘れ飴玉袋の文字確認で焦っている、そこまでリアルに映像化されていますが、このソーダ味はレアでそれまで一袋に数個もなく、今回は全部それが発売されたと思ったという悲しそうな祖母の言葉のオタオタと、母が来たら大変だという焦り感が感じられ「泣かないで💦」と、背丈は上になる祖母の言葉はやはり鮮明で、「(?!)ホォー(吐気←カレーだと思ってハヤシライスを食べた衝撃に似たハッカへのリアクション)🐹」と初味になっているだけの孫娘は、泣きはしませんでした。全部カラー映像の記憶です。タイガーバームの軟膏しか知らなかったのですが、食した直後に黙って直立不動にお口を開けて知らせる術を持ち合わせておりました。父方祖母とのその時の秘密事項です!「言わないで」とは言われておりません🤭

長年記憶にとどめていましたが。

というわけで(?)父共々も実は駄菓子な雰囲気も好きで、オマケ好きも似ていたのかもしれません。父がどうしても捨てられないと私に群馬のコープで買ってくれた小さい踊る時計のおもちゃ、私がその時計をテーマに短い物語を初めて書いて(終わりもある)を見せたのが小学生でした。

「お菓子のまちおか」があるなぁと言わない娘っ子に、父からそこにあるなぁ、という情報の付き合わせをしたことが。昭和天皇と同じ板チョコレートが好きな両親はそういうところがあります。非常に大きなその板チョコA4版(?)を買っていたのを、実家に戻って見た時は敗北感でしたが。

普段からお菓子をあげる優しさより私が生きていることが親孝行のように勝手に思う私で、珍しくお誕生日に千疋屋ゼリー詰め合わせなどを父へ好きなのを選んでなどと送ったところ、こんなに喜ばないでと、そこは反省いたしました。食べ物の方が好きだったのかなと、それしかお菓子プレゼントは誕生日にしていません、子供の頃は父の日までイベントしていたと思うのですが、そういえば、父から貰う体質の二等身娘っ子‥と、後から思います。

普段から「これ美味しいよ?」と、一人暮らしでも父から言われていたように思います。

情感が目まぐるしく個人の距離が狭まれる時代で、寂しさからの解放があるかの如く、信念もなければないで生きていられるわけです。

新幹線が無い時代に父が上京したのは18歳くらいから、その時のことを父が「二度と家に戻れない気持ちで車窓の外を見たけどねぇ‥。」と一度きりで(今は違うスピードになったことを)話していたことがあります。

その時間こそ三重県から東京までの距離感で、決意の固さの現れです。

私は片道1時間で新幹線で出られる時代に生まれました。幸い車の運転はペーパーで、歩く速さ時速6キロ(笑)以上は、大半はバスや電車スピードで生きておりますから、そこそこの理解力は持ち合わせていると思っています。

そういう父は運転できず、母の運転で月に行く距離くらいは私が高校入試までには移動していました‥というのは飛躍で、短期家庭教師の東大生の先生から「その単位では月までの距離にならないだろう?」と、それは運転距離の話でした。地球一周距離(赤道とか笑?)など合わせて覚えている?と、サクッと突っ込まれた記憶です。その頃かなり移動していたので話したのですが‥、そんな先生だって無意識にペン同士を繋げていたりして「俺何してるんだろ?」と我にかえる、我が家の空気汚染に、何してるんですか?と、下を向いて笑い、距離感は縮まりました。

小学生で「尻山にうんこ」デビューしておりますし「お山だ(おや?まだ?)大将」もできかねて、をかし。

先ほどの「井筒」伊勢物語23段の歌も、離れたその距離感への情感が「同じく」であることは最重要事項で、フランス留学中でも変わらぬことや、証明たる手紙から言えることがあるわけですが、下にふざけで書いたような「食い気」が先に来る歌詠みの明るさの場合、「そのような(筒井の)女性にもなり得ないな」と、楽しく食すことに共通性のある情の人の方が、きっとうまく行くだろうとは思いました‥🐹‼️

本来の筒井筒

◎「風吹けば 沖つしら浪 たつた山 よはにや君が ひとりこゆらむ

とよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。」

「風が吹くと沖の白波が立つ竜田山を、夜中に貴方は一人で越えているのでしょうか。(ああ、心配だ)」

✖️「風吹けば 沖つしら浪 たつた揚げ よはにや君に隠れ ひとり食う食う」

「風が吹くと白波立つような竜田揚 夜な夜な君に隠れて一人食べる食べる」

ふと、我にかえる。

をかし。

8【ワン単語・ツーワーズ・スリーステップス】

父は、その昔は「言葉など要らない」と思っている人でした。でもわりと言葉で私に言い当てられるのは好きなようでした。

言葉の定義が個人と他者とで異なるからかもしれません。

仕事でそれをするかたが稀にいらっしゃいますが、それは母国語が共通の場合、ルール違反となります。しかし家庭内では言葉の定義のすれ違いはさほど問題にされません。

「何故?は、パワハラだ。」母の珍回答も自宅だから許されます‥🤭

数ある言葉を勝手に言い出す人はある程度は許せても度が過ぎるのは、そのような心の距離があるからでしょう。

下手するとそのような存在のかたは、日付変更線まで勝手に変えられると思っているのでは?

ところで日付変更線も共通意識を時計合わせし、経度、緯度のなんたるかまで引き合いとして、フーコー的大玉振り子の時間軸で歴史を共に紡いでいるからこそ、4次元空間が成立し隣国しています。

ずれると、けたたましく異次元へ向かいます。

これがかつての日本にはありました。

「記紀」であります。

【梅の秘密】「三」優劣の数詞と船の‥

以下有料投稿(やっと本題です)
はもう少し後ろにしました^_^

⚫️キーワード⚫️


「桜」「うず」「宇治」聖徳太子の妻の残した遺品の中の「亀」「梅」「キリコ」と縄文、「くれはどり」、船にはいる漢数字、シュメールのアシ、「ひむかのこま」、「ワニ」、「カニ」。

1【船で齎されるひと夏の思い出】「竹とあやしウマと梅」「くれはどり」と「原始のカニ」の道

七福神、これはさまざまな国の響きが含まれるのでなぜ「7」になるのかは日本国内の不明瞭なことです。
「船」、「舟」ではなくて前者の船には「八」の文字まで含まれる、これは古代中国大陸の文字の成立段階に依存する情報になると思われます。
三国志では「蜀」から今に繋がる文字の発展が起きました。
その前は殷、「夏(か)」、このあたりには「亀の甲羅」を焼いて占い、決め事する痕跡が発掘されています。
その当時の国の納めは伝説的、かつ、治水的です。
孫悟空にも出てくる如意棒も実はこの時期の伝説に遡ります。
「ちまき」の風習も中国大陸で、水に関与する風習が元です。

「饅頭」もそうでしょうか。

先に遠くから回り込んだ書き方を最初にしてみようという試みは、構成がはっきりしていて、端的に二者の比較、古か昨今、大陸同士、そして自己単位まで落とし込み、オチをつける、インナーカラーブリーチ中の美容院の新刊冊子内の五木寛之エッセイを老眼鏡をかけ忘れてビニールに包まれた身体から手先だけ出して短時間に読み通した気になって、素人の娘っ子がやっとこさ、学んだことです笑🤭。
結果、circuitous、回りくどくなりました、やはり素人です!
チラッと見た内容もどこかへ飛んでしまいました…🖐️🚩

私、野田瑛里子は、素人ですから「ですます調」と「である調」は、敢えて気分に寄せて混在させております。ルールは知っておりますが^_^

数字にはその国の特質が現れます。

占いの、八卦、道教起源でありますが、「八」で末広な八と何か共通はあるのか?日本だけは八が幸福数字、お隣は厳密には違います、不思議だなと、娘っ子は勝手に思って参りました。
理由が不明瞭だからです。

そのような数字を含む「船」が日本にも到来します。
初期の記録は、やはり『魏志倭人伝』と、倭人の捉え方によっては日本の初期に来る。

正確には「パンドラの壺」も小豆研ぎばばあ(婆)によってより蓋を閉めやすくするためか知りませんが「パンドラの箱」に翻訳される、時系列で音は残りにくいです。

『魏志倭人伝』の音の変遷も正確には分かっていませんが、中国大陸は文字の力で今でも似た読み方をできる強みがありますが、日本にも漢字の中には国風文化前後から、最新の「中国側の」音を持つ自国漢字(訓読みではく音読み)と、さらに特定の中国側の音を残す自国漢字があります。音読みには実は日本には、古い「呉」の音が残るのです。
さて、この時に入ったであろう音に「くれはど(と)り」という音があります。

織物のことです。
歌にも残る音であります。

「優劣の基準(松竹梅)」の前に、音の入り方に着目すると、当時の最先端が、海溝技術、埋立(縄文時代には岡山県倉敷の海は埋立てられている学術研究があり、「吉備穴海、きびのあなうみ」といい、ここにも八の文字は見えます)、織物技術、酒、この音が『記紀』で見え隠れしてきます。
神話と織物、その起源が酒を作る女性が、「とうけ」という食物の神(今でも神社によってはその音は祀られている)の音にまで繋がります。
しかし明治時代から神社仏閣の「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」が起き、大半は二礼ニ拍手になった中、出雲大社(いずもおおやしろ)はニ礼四拍手です。
そもそもいつからかは不明ですが、祭壇、平らな皿というセットで神道の元がありました。
我が母の実家は神道ですが。榊と祭壇です。

松竹梅の葉ではないです。榊の葉です。
そのようなはっきりとしてきた日本という名称時代から、織物はこの国には既にあったわけですが、不明瞭な卑弥呼と卑弥弓呼(「もとより不和」?な隣接男女国)の「人偏のないワ人か、人偏のある倭人」時代には、日本(ニホンともにっぽん)とも言わず、どうも、簡易な首をくり抜いたような一連の布であったようで、この頃とは異なるようです。
それでも魏国へはるばる贈呈しているようですから、技術はそれなりにあったのかと思われます。なにせこの国は、国内用歴史書としている『古事記』に、弟神の機織り殺しまで記載をわざわざするくらいです。
姉神は「何しに来た!」と怒り浸透ですし。

まるで「夏(か)」を魏国の使者に思い起こさせる古(いにしえ)の風習を持ちながら、ひと夏超えてしまったパッキング「Pax Mahoroba(造語)」前段階記録のような『魏志倭人伝』の中に、竹は出てきます。前提が日本なら既に国内に竹はあることは分かります。
既出の父の「こきりこ」で触れた音律でも竹は日本にあるわけです。明確に飛鳥時代以前に存在感があると言えます。雅楽の楽器の元のもかなり古い竹のエピソードが中国大陸、シルクロード以前になると、中国記録ではなってきます。音に国境はありません。中国大陸の古い記憶を現存する少数民族は「大根村(敵の襲撃で首を大根のように切断された記憶からそのような通称名称村で、民が屋根を渡って逃げるように作った、独自の文字を残す村)や、他にも「おむすびのような髪型」をするような村にも残されているかもしれません。洪水伝説は民族によってはあるようです。そこが大陸独特の、いわゆるシルクロード以前の「草の道」とする、その記憶かな?と、紀元前を考えてしまうわけです。

「八」の齎(もたらす)こと。
シュメールが好きな方。
古代メソポタミア、湿地帯でした。

意外にもその実、移動はアシの生える湿地帯、「船」なのです。
月の暦「太陰暦」、唯一それを持つ異質の古代文明です。
これは月の満ち欠け、航海の基礎のような知恵、その移動に適しているわけです。
その時に必要なのがコンパスです。その形、その役割、その草の道。「八」の数と。
メソポタミアもウバイド文化、エジプト以前も入れるとかなりの異なるので、それはまた別の機会に触れるとして。

ひと夏、思い出したくなります。
そこには「渡来系という区切り」はありません。

区切りのできる頃には日本にはにカッパ伝説や、天狗伝説、見た目の違いが、土着傾向とともにうたわれはじめます。
九州球磨川付近なら「オレオレデーライタ」などという音が残される。
それは「呉(くれ)」ではないか?(確実性は皆無)という口伝の「音の記憶」、人による依存定着なども垣間見えます。
儚い不安定な記録です。
しかし、歌、音へ残す力を、この島国、何故ニッポンとニホンと分けて言うのかも、わりと日頃からアバウトなまま、それはそれは、古くから持ち合わせています。

さてその「くれ」の音。
回りくどい説明に、ウズウズしますね!🤭

正確には第21代雄略天皇から「渡来(5世紀以降は日本政府はそう定義しますが、それ以前は渡来とは言わない)」があり、彼ら渡来の音は、明確にその後の「唐衣(からころも)」の祖のように歌の中で役割します。

歌に触れる機会が多いほど、そう感じるようになります。葛(くず)、唐衣、このようなキーワードがうず高く詰まれ「太秦(うずまさ)」これは雄略時代の決定音とされる)の織物となるかの如く、歌に織り込まれていると感じます。
参考に歌をあげますと、源俊代頼(みなもとのとしより)の『俊頼髄脳』から。

『呉機(くれはとり)の歌
「くれはとりあやに恋しくありしかば ふたむら山も越えず来にけり」
後選集 恋三 七一二 清原諸実(もろざね)

ひとえに貴女が恋しかったので,御贈りした二疋(ふたむら)の布ではありませんが、二村(ふたむら)山も越えずに帰って来る事になりました。

返歌:
「唐衣たつを惜しみし心こそ二村山の関となりけめ」
(後選集 恋三 七一三 よみびとしらず)
貴方の出立を惜しんだ私の真心が二村山の関となり貴方をせき止める事になったのでしょう」

後選集
「くれはとりあやに恋しくありしかば二村山も越えずなりにき」と実際はなっていること。
・呉機(くれはとり)とは,呉の国の機織り方法で織った布の事、「あや」に掛かる枕詞
・ 「綾(あや)」と「あやに(=不思議に、例え様も無く)」は掛詞
・ 「二村山ーと「二疋(ふたむら、疋は巻いた布の単位)」は掛詞
・ 唐衣:「たつ」の枕詞,
・ 「発(た)つ」「裁(た)つ」は掛詞。』

「あや」の音は「漢」。時代変遷が織り込まれます。
「呉機織」(くれはたおり)・「漢機織」(あやはたおり)の音が変化し「呉織」も、室町時代頃には「くれはどり」、「漢織」が「穴織」とも表記されるようになったそうです。

時計の針の話にやっと戻しましょう。

『古事記』、既に時計の針が狂い固定点を未だ見出し辛いとされる第15代応神時代、百済の国主照古王(近肖古王)は、応神天皇に牝牡の馬各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとあり、阿直史(あちきのふひと)らの祖先ですが、彼らを「渡来」とはこの国は実は定義しないのです。

この「馬」の記録、「日向駒(ひむかのこま)」と日本は言いますが、いつ馬が何処に(これが最重要事項)日本にもたらされたのか(学術で出ていることと、史実記録の付き合わせへの興味)、私は勝手に「原始のカニの道🦀」と内心(何かのプライドか、「原始のカニ」を思い起こさせた女として笑?参照は前出。)、そう名付けているのですが(笑)、歌の中で読まれていることがあり、126代継続の初代天皇、欠史八代から第15代応神天皇までのループにも見え始める時計の針の狂った系図の中に組み込まれていることがあると思っています。

そこには「たけ」の音が入ってくるのです。
「武」ですが。
音が、当て字、当て音、駄洒落好きな島国、おそらく揶揄する、非難ということを目的とした時代が先行しているのではないか?という視点と、訛りは入ってきた側の名残か、元からの名残である「あや不思議」なことを感覚的に捉え辿っていくこととを同時に趣味で試みています。とはいえ、超リアリストですから学術、時に化学、科学します。

ここまで「竹」は出ました。
「松」は?これがなんと感覚的には(としか言えません)最後に出てくるのです。

「竹」があり、文字記録的には「梅」が次に来る、それがこの「馬」を渡した「応神」時代なのです。
しかし、それは時系列的にあってはならない、「謎の梅」です。

存在しないからです。
日本に初めて「梅」が齎されるのは‥私は気がついてしまったのです、おかしいのです。

ここから(やっと)有料です!とは、いたしません🤭!!

「松竹梅」の順に「文字的記録」では現存していない?
この島国ではそのような感覚を覚えつつ、「音ではマツは先に来るのかどうか?」という視点なのです。

この時代既に何かが起きています。

東征です。

血みどろなのです。

急にというか、『記紀』には、やたらめったらの神代の批判なのでしょうか、凄いストーリが織り込まれています。「ものがたる」こと、ことに『古事記』は動物まで総動員。
同時に品行方正の修正傾向が見受けられる、つまり教育的になっていく島国を感じ取れます。

この「かろうじて時計の針が狂ったままの」第15代応神時代に「家庭教師」が渡来するのです。

その名も「ワニ」です!
王仁。ワニ。鰐?

カニやらワニやら、覚えやすいですね^_^

その歌。そこに「梅」であります。

ここから先を有料にいたします!

まだ購入しないでください。

誤字脱字チェック中です。

⚫️キーワード⚫️

「一、雲太(うんた)、ニ、和ニ(わに)、三、京三(きょうさん)」、「まつりごと」、「あてつけな音と文字?」、「桃」「蛙」、「三星堆遺跡」、「纏向遺跡」、「三」、「難波津の歌」。
「‥渡来系は稲荷神社系列に関連する響きにも発展するので、その始まりに「くれは」ありなわけです。しかし稲荷神社の赤はいつからか?となると渡来から、するとそれ以前の「元の祭壇」「祭祀」「斎場」はどのような状態であったのか?という神道の古さに目が開きます。明瞭ではないのですが、各地域に「風土記」が‥」。
「非化学の検証で現時点では終わらせています。私はこれに化学反応を導入するとあの『魏志倭人伝」の中の「あか」色の意味と纏向遺跡が近くと思うのです‥」。
「しかし私は国史、とある時期の日本が定めた『記紀』を優先‥「眼鏡」の感覚で取り外しても問題なく、かけてみると異なる世界という導入‥」。
「‥父の『三重讃歌』の作詞をされた佐々木幸綱氏のご先祖の佐々木信綱氏が明治時代「カルタのはじめに」と選出した「難波津(なにわづ)歌」、即ち「梅」なのです。王仁の作とされるその歌に梅が2度強調され‥。」
「‥「海」の音ではないかと個人的には思う、「安積」の音‥」。

「大鴉(The Raven)」、「熱力学第二法則」、「蘇(薩)婆訶」。

以下、自分で購入作業中、一瞬公開となってしまいましたので、近日公開します‥🤭💦💧


2【ワニの音と梅】仏の心?あてつけな音と文字?


さてこの梅の歌の説明は後述しますので、先にワニの音から。
梅の歌を描いた人物、渡来も渡来、しかし渡来人とギリギリされない「ワニ」。この響きは、至る所に文字を変え、人を変え出てきます。

一般的な知識として、安易にWikipediaでも見てみると、やはり「織物」の音「くれは」のところで触れられていたりする音「ワニ」。
以下見てみますと‥しかしながら史実とその記録が合致しているかは、別に避けて読みます。例えば『論語』をいつ齎したという内実は、私の検証から遠ざけます。「当たらなくても八卦」の感覚です🤭、それらが一致しようがしまいが、「梅」については言えることがある、そんな気持ちで、少し長めに眺め読み飛ばします。海に関与する文字から音に現れて関連する、とも思うのです。秦氏、渡来系は稲荷神社系列に関連する響きにも発展するので、その始まりに「くれは」ありなわけです。しかし稲荷神社の赤はいつからか?となると渡来から、するとそれ以前の「元の祭壇」「祭祀」「斎場」はどのような状態であったのか?という神道の古さに目が開きます。明瞭ではないのですが、各地域に「風土記」が語ることがあります。しかし私は国史、とある時期の日本が定めた『記紀』を優先することにしています。
そこに「眼鏡」の感覚で取り外しても問題なく、かけてみると異なる世界という導入の仕方が良いと思うのです。


【Wikipedia】から以下抜粋読み飛ばし参考
「もし賢(さか)しき人あらば貢上(たてまつ)れ」(もし賢人がおるならば献上せよ:荻原浅男:訳)
と仰せになったので、文首(ふみのおびと)らの祖先である和邇吉師(わにきし)が、『論語』十巻、『千字文』一巻の計十一巻とともに献上され、さらに、手人(てひと)である卓素(たくそ)という名の韓鍛(からかぬち、朝鮮半島の鍛冶)、また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)の二人も献上された、とある。
これが文献の上での「くれはとり」の最古の例である。中国の三国時代、百済は公孫氏の燕と婚姻関係を結び、燕は孫氏の呉と同盟関係を結んでおり、百済(及び高句麗)と呉のあいだには相互往来関係があった。『日本書紀』巻第十によると、応神天皇14年に、百済王が縫衣工女(きぬぬいおみな)、真毛津(まけつ)を貢上した、とある。37年、天皇は同20年に帰化した阿知使主とその息子である都加使主を呉(くれ、華南、当時の中国の呉あるいは東晋、六朝)に派遣して、縫工女を求めた。親子はまず高麗(こま、高句麗)に辿り着き、高麗の王は、久礼波、久礼志の二名を随伴させた。呉に到着した阿知使主らは、兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の縫工女を手に入れ、日本に連れ帰ったという。
これに反応したのか、その2年後に百済の直支王(ときおう)も、妹の新斉都媛(しせつひめ)を派遣した。彼女は7人の婦女を連れてやって来たという。
池田市には、彼女達が機織を伝えたという伝承が残されている。この地は古名を「呉羽里」(くれはのさと)といい、5世紀 - 6世紀から渡来系氏族である秦氏の居住が始まっていたという。『和名類聚抄』によると、豊能郡「泰上郷」(はたのかみごう)・「泰下郷」(はたのしもごう)があったとも記されている。
阿知使主はその後も工女を求めて呉への往来を続け、筑紫国へ上陸し、兄媛を胸形大神に奉った後、津国から武庫へ上陸したところで、応神天皇の崩御を知った。そのため、一緒に連れていた3人の乙女を大鷦鷯尊(おおさざき の みこと)に献上した。彼女らは呉衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋衣縫(かやのきぬぬい)の祖先になった。
『日本書紀』巻第十四にも、同様の記述がみられる。雄略天皇12年4月4日に呉に向けて使節として出国していた身狭村主青(むさ の すぐり あお)と檜隈民使博徳(ひのくま の たみの つかい はかとこ)の2名は、2年後の470年に、呉国の使節とともに、呉が献上した手末(たなすえ)の才伎(てひと)、漢織、呉織及び衣縫(きぬぬい)の兄媛・弟媛らを将いて、住吉津(すみのえのつ)に停泊した。天皇は呉の客人のために道をつくり、「呉坂」(くれさか)と名づけて磯果津路(しはつのみち)に開通させた。3月には使節を歓迎して(東漢氏の本拠地である)檜隈(ひのくま、檜前)に宿泊させ、そこを呉原(今の明日香村栗原)と名づけた。兄媛は大神神社に奉じて、弟媛を漢衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬいべ)、呉織は伊勢衣縫(いせのきぬぬい)の祖先となったという。大阪府には、彼女らを祀った「呉服神社」がある。

律令体制下では、大蔵省所管の織部司(おりべのつかさ)に技術官人として挑文師(あやとりし・あやのし)・挑文生(あやのしよう)が設置されていた。配下の品部である染戸(そめへ)570戸の中には、錦綾織、呉服部(くれはとりべ)、「川(河)内国広絹織人」が掌握され、宮廷での需要を賄っていた。

上記を読み飛ばして、面白いのは「あや」が「桃」と当て字されることです。音はの当て字。
「綾とり」は2頭身の娘っ子は、手遊びしてきたので、音で「何か関係があるのかしら?」などと思いが「纏向(まきむ)きます(纏向遺跡の出土桃に掛けた造語)」🍑🤭!

「八」は「分かれる」「広がる」イメージと、「ヤツ」とも読む。奴(ヤツ、やっこ)、魏国時代でもその文字はありました。古い文字です。
「素(もと)より不和」(学術はこの訳が主流ですが諸説あり)どころか「漢委奴国王印」文字です。
その音が、日本は同じ音でも意味が異なる、「あてつけ」が世界でも稀見るほど、得意。

桃は桃源郷、西王母の桃というくらい、やはり中国大陸は古き感覚です。そこに当てる。
とにかく「音」の視点は持ちながら。
19世紀に人類学者の研究対象のあやとり、自然発生の遊び、日本では、「結び目」という意味では縄文の何かと繋がりそうな「ウズウズ」感!
結び目は、伝達的に結び目のカウントで使われ対象と考える学者も世界にはいます。
原始の共通の感覚なのでしょうか、線をタテヨコに交わらせるその役割は、情報伝達意識、理系的な感覚を兼ね備えた可能性の示唆です。

遊びのあやとりは、川、山、船などを形作りますが。
知恵の糸。
日本国内、石川県、愛知県は「ちどり」、岐阜県は「てがら」、鹿児島県は「いととい」徳島県は「いととり」、山口県は「たすきがけ」、島根県「いとどこ」と発音するので、面白いなと傍に置き、しかし「鳥」と「天」の響きと、縄文穴海(後から名付けたとしても)音を先にすると、特殊世界が変わって見えてきます。

3【我が家には三の数学の共通点があります】「梅の花」の「難波津のうた」

我が家には三の数学の共通点があります。
父方祖父の名と、母の父方(堀家)の曽祖父に「三」の数字の入る子孫です。
父は三重県。

父は『三重讃歌』という交響曲をローカルに作曲し、サントリーホールで初演・指揮しておりますことは少しだけ触れたことがありますが、
作詞家はあの佐佐木幸綱氏。
三重県伊勢付近に戻るまでに、初代神武天皇の東征時代、小碓尊(ヤマトタケル〉が時代には既に『記紀(日本書紀・古事記)』時計の針が狂います。

纏向遺跡、いまだ発掘途上の広大な全体像が、現時点でも未知数があるように言われている場について。そこからは、カエルやら桃の種(実より種)そのような発掘時に出てきました。これを単に学術は「祭祀」としてだけ、非化学の検証で現時点では終わらせています。私はこれに化学反応を導入するとあの『魏志倭人伝』の中の「あか」色の意味と纏向遺跡が近くと思うのです。その化学式は別に既に書いたので割愛します。

九州旅行で蛙の神社にも観光させていただいたのですが、そちらは中国から現代にそこに奉納されたのか、新しい建造や置物で、この纏向のカエルとは出所は違うかもしれません。
しかしその昔(春秋戦国)、中国大陸ではカエルを重視する青銅祭りの風習のある少数部族の村があり、そのことは私は個人的に纏向遺跡の元になることへなんらかの関係性がある、と個人的に私は考えています。理由は青銅文化は、その時代以前から「三星堆遺跡」のような発展があったことは判明しており、ましてや「錆びない銅の剣」は既に有名で、『魏志倭人伝』の使者が日本へ来ていたならば、鉄のルートは、その時期、中国大陸では「鳥の名前の国」とのパワーバランスと、鉄の産地であったと現在分かっている国家が存在していて、入り得ると私は思うのですが。
日本ではしかしまだ鉄の研究が学会で揉めているようで、出土する鉄は日本国土のもの(酸化鉄だという理由)であるのか、海を超えてきたのか(その割には少量だとか)微妙な意見割れが見られます。

「黄巾の乱」の後、中国大陸は道教が発展しますが、その黄色の意味は何か。後の「八卦」の羅針盤のような占術も含め陰陽五行にまで発展します。それらはそのままではなく、日本は独自路線になるのはかなり後世のことです。
卑弥呼が貰う旗の色も黄色、その意味に私は着目しています。その時は時間軸が日本になく日本史から抹消されているのか初めから居ないのか、初めから居なければ、九州説と機内説は全く別の話になっていきますが。渡来の影響は5世紀までは日本はカウントしないため、第21代雄略天皇の太秦(うずまさ)から渡来を考えるルールです。群馬県芸術村には、歩いてすぐの坂上に梅原猛氏が後から参加されたのですが(我が家に遊びにも)、梅原氏の説では「藤原氏のあのひと(諸説あり)ではないか?」が埋葬されているかどうか、という検証で、(政府の指定する)渡来の氏名を取り上げ、その移動してくる経緯の文献を引用されていました。第21代雄略天皇時代は触れざるを得ません。冠か枕か?そんな金蘭な埋葬ができるのは、私もそこは梅原猛氏の考えと同じ人だろうという意見ですが(検証は少し違い)、割愛します。

纏向遺跡を考える時は、どうしても私は欠史八代の前後の登場人物はとても考えてしまいます。
ましてや時計の針が狂い始めた中に含まれ、その
名前は『記紀』双方で繋がるためにも意味があるからです。しかし時計は合わず、3倍に巻いたのかと計算したものを見たことありますが、そちらには記載がなくてこちらにはあるという、もどかしさ。「水底の鏡」の謎(歌は何の側を指すのか)、今の時点では学術は解けていません。

第10代崇神天皇時代から第21代雄略天皇までに相当な交代劇があった(と『記紀』にもありますが)、古墳の形と場所から(権力が)、その平衡さを研究をする方もいます。
船王後墓誌 (ふねのおうごぼし)の飛鳥時代には、『記紀』と異なる王名が書かれた木簡が出土していることから、九州、畿内へ変遷なのか、両立したパワーバランスがあった可能性はあり得そうだ、などと私は思う立場です。
また上毛地域(父は『上毛野の里(かみつかぬのさと)』の舞台を作曲していますが。そこは「けぬびと」の地でもあり、オペラ『大仏開眼』の登場人物からは離れていますが、橘夫人の元夫の諸兄王が訪れた際に、彼は少々不機嫌な思いをした場です。その際のうなめであった女性の歌によって機嫌が何故か直った記録があるほど、時の皇族が一筋縄ではいかなかったような群馬県上毛バランス。その時にはもちろんですが、雄略天皇の時代に既に稲荷山古墳にその名を刻んだ剣稲荷山古墳出土鉄剣が本当ならば、関東、蝦夷地域まで派生する権力闘争が終わりを告げる破竹の勢いで、今上天皇(現時点の天皇)までその血が入るというストーリーになろうかと思います。
同時に「優劣」ができたわけです。

平安時代、子供の「口(くち)ずさみ」、遊び歌に「一、雲太(うんた)、ニ、和ニ(わに)、三、京三(きょうさん)」というものがありました。「天皇大帝」の居場所の意味のある音でもあります。それが3番目?の大きさ、何か違和感も勝手に沸きます。
「松竹梅」のような順位の音を、平安時代の子にわざわざ教えているのです。

まさにNHKの『源氏物語』が今放映中ですが、その時には子供に教えていた言葉です。
今は一番大きな建造物は当時「うんたは、出雲大社(おおやしろ)」、2番目に大きな建造物は「ワニは、奈良の大仏である」、では3番目は?これは魏国以降からある中国建造物に似た響きであります。また何故その音がそれを指すのかの説明は一切ないのです。ここは私は個人的に解いているのですが、語感、音から来ることは連想として時に「非難」めいている方が定着することと、島国特有の翻訳が必要な状況が権力闘争の過程で起きたのではないか?と思うのです。
学術は古墳は古墳、化学が入りにくいですとか、土着の物語の音、民謡の後をわりと蔑ろにしがちで、また証明しずらい島国特有のベールで海を超えずらいところがあります。
さてこの時代「手習(てならい)の歌」というのも、紀元1000年時代はありました。
『源氏物語』文中に出てくるシーンです。

それこそが、父の『三重讃歌」の作詞をされた佐々木幸綱氏のご先祖の佐々木信綱氏が明治時代「カルタのはじめに(百人一首には入っていない)」(序歌)と選出した「難波津(なにわづ)歌」、即ち「梅」なのです。

王仁の作とされるその歌に梅が2度強調されます。
しかし梅の花は日本に入るのは、花道からも分かることですが、時期が違うのです。
さてはその歌は誰が書いたのか?ある人物が浮き上がってきます。
するとその先祖の氏、はたまたその子孫には?とみると「梅」が関与します。
太宰府に辿り着くのです。これは私の勝手な推測です。何故「天満宮には牛も?」そこまでは、私はまだ強くは推し量れていません。
しかし、梅の歌を幼少期に歌った人物は何故か、九州の太宰府天満宮へ流された、この流れを現代人は歴史として受け止めるだけです。
中国大陸に太古にあったとされる「地震予知機(当時のウイグル地域のおそらくS波を当てた記録がありp波なら現代並に凄い)」、その機械の名前すら当てた利発者です。
その機械(候風地動儀)には、八方に龍とカエルが施されていだと言われています。


仮名序で「安積山の歌」と並んで「手習ふ人のはじめにもしける」と言われ、出土した木簡でもな何故か、排水溝のような、捨て気味に、それでもその歌同士はセットで出土してくるのです。
その理由を知りたいところです。

そこには「海」の音ではないかと個人的には思う、「安積」の音があります。山扱いになっていのですけれど、そこも謎めいていると勝手に思い。

安曇、阿曇、阿積、安積、安津見、安住、阿住、安角、安海、阿澄(あつみ、あづみ、あど)‥これらの音。
熱海、こちらもこの音に近いと言われています。縄文時代から海側へ流れてきた側の定着音なのではないか?
統制に関与していないか?とら、和歌の「初め」にする平安時代のその心に、私は惹かれるわけです。

少し余談ですが、熱海、なんと「佐々木希信綱」館として、そのご邸宅「凌寒荘」があります^_^
観光コースです。
父とは三重県で『三重讃歌』と熱海の繋がり。
もう少し余談とはなりますが、既に他で書きましたが、父の誕生日に熱海の「起雲閣」で、現代の「呉服(くれは)」のご縁で、ファッションショーに私も参加です。

そしてやたら「祭り」「祀り」たがる国民性。まつりごと。「我」と「吾」、漢字的響きと古代的な音の名残りなのかる新旧はいつの時代もあったのではないか?三重県遷宮以前の記憶を「千早振る(ちはやふる)」気持ちです。
「根」はどこにあるのか。「まほろば」の位置を「松(マツ)」の音と共に知りたくなるのです。

【宇宙の科学側 安定(調和)は三点から】「鼎(かなえ)」

高校生のから、衛星放送を熱海で父と見ていました。当時は古代中国の「夏(か)」についても触れる番組が出土映像と掘り下げられておりととても面白かったですし、なにより宇宙理論はこれから解かれるポアンカレ前段階。
そのような海外放送から、思い出されたのは若い白人解説者が「安定」は「3点」必要だという、当たり前だが、3次元とは何かという、私達への極限の問いを端的に表現していました。
「八卦」には「鼎」の圭があります。日常のことをこういったことで「どうにかならんもんか?」と、ざっくり自分でしていたところら趣味で64の圭を覚えてしまったことがあるのですが、「何故か2進法ではないか?」という視点の方に行き着いてしまい、調べていたところ、やはり西欧の中世数学者がそのことに気がついていたようで、少し驚きを持っていたようでした。
といっても彼等はその数式を発案した世界初扱いになったいく側です。東洋のそれなどは放置でさの占い事の扱われ側。
筮竹、竹を分けて抽出する作業です。
それは確率であり、何度それをするか、そこから導き出されます。
その裏表とも言える選択組の「鼎」の圭は、「3」の点を強調します。
安定するには?
その視点でやまと見る眼鏡をかけてみたのです。
すると面白いことに敵対を常に「2」とするのは世の常で、3点にした途端「和」が訪れる可能性。
再び割れるなら「4」忌数、日本は音が「し」「死」に似て嫌う数になるな、と勝手に思い、三重県の場へ第10代崇神天皇が構えた結論が、現在な、伊勢神宮の、「外」から「内」回りのきそになるわけです。
「外宮」から「内宮」、この順序は何故できたのか?いささか不明なままで、知らぬ人も居ても問題にされない現代。
ハーモニー(調和)するにも3点から。
「やまたい」なのか、「やまと」であったのか、その音に現代学術が、卑弥呼から女王交代で文字の「書きミス」とするのは早合点だと、実は私も思うことはあります。

そこは「火水未済(かすいびさい)」です。

日本の「おむすび🍙」は三角の「お握り🍙」です。
その音「ニギり」と「結び」これらも気にする私です。

【吾妻郡暮坂(くれさか)の芸術村】日航機123

さて余談も余談、群馬県吾妻郡六合村の、かつて存在した芸術村のビューローには機織りの女性がいらしていました。場所も暮坂(くれさか)という名前なのです!

父は宮沢賢治が幼少から好きであったことは自身で書いておりますが、宮沢賢治が敢えて「漢字」を用いずに書いた詩の中に「あお」があり、日本語の「音」から来る個人の想像する色の枠を払い除けた創作跡を見ると、最近気になる京都亀岡の藍染、「あい」の色、ジャパンブルーも含まれるのかなどと、大正時代に廃れた色も最近脳内追加、復刻する私です。

その梅の柄も好きですが。

ウズウズします。

幼少期に私は本物の機織りの女性と機織り機を見て育ちました。目の前で織る姿はなかなか都会ではみられません。
そのような静けさと闇の方が勝る場で、まるでダンジョンマップの先がないかのようなグリーン、草木だけの緑の壁のような絵として残るのが、私達家族が居た家の坂下の草道。数メートルは砂利道で人口的ではあるのに、草木がその先は勝り未開発、青空より不明な先に止まってしまう緑の絵が脳内に残るのと、そちらには誰も行きません。
その土地の1人か2人しか耕しのためしか入らない、たまに散歩で向かっても管理のお百姓さんのひいお婆様が長寿に耕しの仕事のついでにと、草木のそばに中腰する姿を見る程度でした。

ある時そこからそのビューローまでの平地は綺麗なアスファルトで、誰も居ません。まだ未開発で梅原氏も居ませんでしたし、私達と機織りのその年配の女性がたまにビューローに来る程度で、住んでいない、家族でイスラエルのイエスの生誕の場を見、ヴィア・ドロローサを家族で歩いてきた後のことです。私は8歳になる時。
バトミントンと自転車とキキララのピンクピクニックビニールバックを乗せて降り、そのアスファルトで母と2人きり、父は自宅で作曲中、遊んでいました。
雷かな?と思うほど怖い音がしました。
あまりに怖いので、空が灰色で、その自宅へ向かうにも、雷は金属に落ちると思い全部を投げ捨て(母は後ろからそれを回収しているのに)走って逃げ帰る、その坂下(これから上らねばならない坂は左上へ広がるけれどもその坂の途中右側の父の仕事部屋は、ある意味で坂下側の安心感と、音の怖さ)、目の前に広がるグレー一杯になった灰色の空と遠くまで緑だけの、先のないダンジョンマップの不明瞭な終わりの壁の印象が、7才児の前に立ちはだかっていました。怖かったのです。

壁の8割が灰色、2割は緑色の上から聞こえてきた音だったわけです。とてつもなく縦に長から広がっていました。

日航機事故の音でした。

夏になるとそのことを思い出します。
まだ7歳、学校に向かった時には夏休み終わりの8歳、周りは誰もその音の重みは共感することはなかったと思います、話さないからです。テレビでそれがあったことも話しませんでした。ですから子供らしく死のことを認識することはあったのだろうと思いますが(口にしていないので私は知りません)、彼らは音を聞いていないのです。
なんとなく分からないながらも、そのこともあって、重みは持ち合わせ続けてはいます。
520名の死の音です。

『日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が操縦不能に陥り、群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。日航ジャンボ機墜落事故。写真520名。』

それから私は人生で3名の死の音を職場、自宅付近で聞く運命でした。それは書きませんが、自殺、事故の音です。

その負荷はどこかに持っているつもりでいます。


©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

【エドガー・アラン・ポーの「The Raven 」の音と崩壊のハイブリッドのよもひら坂】


「今年の漢字は?」

脳内「おら村」おらが春を超え、自己問答。

父といえば赤ん坊時に、哺乳時間の遅れに父方祖母のお乳に遅れへの怒り批判として歯もないのに噛み付いたという「赤子キネズカ(杵柄)」を持っております(父が書いています)。

母といえば、2頭身幼少時に、母方祖母の実家で病で片目黒眼帯の(母のおじいちゃまに当たる)曽祖父(弟は旧帝大法学部)が、映画「東海道中膝栗毛」的な入浴を(下駄を履いて湯船につかっている釜茹に見える)している時に「悪漢に違いない」と(既に読書家、何かのデータが脳内一致したそうで)思い絞り込み、「心張り棒」を手に後ろから退治しようしたら、おじいちゃまから「お〜ぃ、この子(母)をなんとかしてくれぇ〜♨️」と言われたそうで、それでも、田舎訛りに「香代子(母)は利口もんだよ、家のもんが束になっても(9人くらい居る)叶わない。」と、曽祖母からのお墨付きをもらった「2頭身キネズカ」持ちです。

妻というのは、日頃から様々なことを胸に秘めているものです^_^

ハイブリッドでのワタクシ、毒気を抜かされて育って来たと思います。←ハイブリですし^_^
反抗期、ありませんでした。勉強軸しかしない。
父から「何故良く育ったのか、分からない。」と20代まで他者へボソッと漏らす(それがワタクシの最大の嫌がらせになっていたかはどうかは別として)、自分の足で立つ自覚が持てた管理経験者になってからは、父は私が強さに輪をかけたと思ったようではありますが、基本「もう少し家に居たら?」と、私よりずっと家族するタイプ(クリスマスツリーを毎年飾ることも父と母で、私はしないタイプ🤭)でした。

「なんにも(強調)言わない、見てるだけ(笑顔)👶。」と、母の恩師マ・スールから、幼少の私がこのようであったと、自覚と極めて合致した観察眼に有り難く思うのですが、そのようですから、初めてこちらから私の思う自発的な意思の強いコメントというのは16歳、ホラー映画が自宅に流れていて、しばらく家族はだいぶ無言で耐え抜いて見た中原(ちゅうげん)で、「どうしてこんな初めての映画で(自宅で)怖がらなければいけないんだ?!」とコメントしたたころ、そのテレビの目の前に居た父が思わず笑って、「そういえばそうだ」とら知っていて見たくて付けていたわけでもないのに、21時から家族の恐怖義務していたことに我に帰った笑い、緊張感のある父でしたので、緩和しながら(その後、亡くなるまで父は緩んでいきました💦)、チェックメイトからは3手歩戻されーの(←わりと根に待つタイプの娘っ子🐾)と、共有した記憶のひとつです。

120歩譲歩して、「五十歩百歩」の時は、私、娘っ子は何とかしています!🐹🐾

「ドラ」の音。
実は父のオペラ『大仏開眼』と『開眼会(Kai-gen-e)』直筆譜面のカラースキャンを自分で夜な夜なし、電子原稿にながら思い出してきたエピソードと共に製本化寄贈したのですが、「ドラ」の音について、早々で架け橋となる音として「開眼会(Kai-gen-e)」から触れております。それはいつかまた、そのままま載せるかもしれません。

心中その中心に不思議にも「私」、父共々に「ドラ」があったと昨年から一歩、心(しん)に進み出て、「ハッシュタグ#ドラえもん」公式ランキングで、末広がりの「8位」を貰い、追記したくなり候。 

人の心は「マネしたく(ぱくりたく)」なる衝動のある中で、独自性、オリジナリティを徹底することは自分を律することだと自己は常につきつけるものです。

父は徹夜時間こそ自分に厳しい音と心境であったことは生活していれば分かります。
そういえば、遺品整理からチケットが出てきたのです。
私が「インファント(乳幼児)」扱いのチケットです笑🤭笑!
九州初上陸の記録です。父がとっていたのを初めて知りました。生まれた時のマンションの狭さから何かと押し込んでしまうものです。自分の賞すら飾ることがなかった父でした。一気に見ると頭に入りやすい気持ちもありますけれど。

©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

さて九州旅行でお世話になったか川上和子さん、JASRACに登録をされていない「バルカロア 組曲 深海魚」という題名の作曲作品をお持ちであること伺いました。

ついつい、とにかく題名音からパロディしたくなるウズウズ感(深海魚の種類までどう組んだのかと、知りたくなります)、その、欲求を他に与えていくほどのインパクト、これを律してエキストラバージンオイルのように限りある音からオリジナル抽出する作業は誠実性が求められることで、そこはアカデミニズムは必要不可欠です。
ですから私は、容易にいたしません^_^!
「バルカローレ(複数形)はなうた 、組曲 近海魚、平均律ミミミ」(近海で深まらない)と、脳内で父の好きな海の場を音階に充てるのみで、「笑ってもらえるかしら?」と、多くを言わぬという選択をし。

完全という理想を掲げながらも、行間・絵画の二次元的省略を、3次元空間ではそこに流れる風の如く、音がその時間は代弁してくれることがあります故、不完全な個性が訴えかけることに耳を澄まし、研ぎ澄ませ、東洋と西洋と境なく、「うっちゃってくれ(相撲用語※)な!」、と黄泉比良坂(よもひらざか/よもつひらさかが本来)し。

『※ 打っ遣る/打っ棄る
1 投げ捨てる。
2 そのままにしておく。ほうっておく。ほったらかす。
3 相撲で、うっちゃりをする。
4 土壇場で形勢を逆転させる。』
色々な意味でのディープインパクト九州!!

ところで、創り手の作品は創り手こそが解説すべきであると、「エドガー・アラン・ポー」は「何故それをしないのか?」という勢いで自己作品の解説を書いています。
「大鴉(The Raven)の原文は、その音は室内楽を超えた目標があったように発音すると感じますが、彼は謎の死まで遂げた人で、おら村脳内のひよっこの私は、解説もそうそう致しません。

何故かといえば、ポーに限っては、特に以下のようなエピソードを目にするからです。

『La chute de la maison Usher:
フランスの作曲家クロード・ドビュッシーによる1幕(2部に分割されている)の未完のオペラで、リブレットはエドガー・アラン・ポーの短編小説『アッシャー家の崩壊』(1839年)を素材としてドビュッシー自身が作成した。本作は1908年から1917年にかけて作曲されたが、遂に完成されなかった。』

我が父もかつて若き頃にインタビューで「アッシャー家の崩壊」への作曲意気込みを持ち合わせつつあることを述べていたのですが、母が失敗例があるだろうこと(上記)を早々に申し立て、議論になる前に水をかけ、鎮火、今に至ります。

バッシャー、と崩壊です。🔥🪣

理由は創り手の様々で、解説いたしません。墓場まで持っていったのであろうと思っております。
それらを明かすことは、悪意ですから、家族はいたしません!💓!
父はオペラ『大仏開眼』、母の養父はオペラ『井筒』、シンプルなテーマを人生の後半に持ってきていたのだなぁと客観します。

【耳順う?】ババ様に聞いてみるスマイル


父の『スマイル』について私の話したことは既に別に書いたもの中で触れていますので割愛しますが、エントロピー的な感覚で父のことを捉えたことがあります。熱力学的第二法則で何を言っとるか?となるところが、その直後『TENET』の映画が出て(その前の時系列で、父とは電話で話していたので)なんだか、この映画の内容と題名のこの文字配列自体も親近感があります。

「マックスウェルの悪魔」をどう捉えるか?ですけれども‥。

【「母方」の首塚の呪い?と荒もの鬼「偽書」の明日香と飛鳥】父のオペラと「荒物(あらもの、私の造語)の私見」オペラの『大仏開眼』せず亡くなった父「こきりこ」の心2024/3/3

この投稿でも書きましたが、先祖とは何か?と考えると、日本人は大半の先祖は武士へ、臣籍降下してきた「侍(人格的にも立派な武士へ宛だ言葉だと信長以降の宣教師記録がありますが)、このようなところへ行き着くわけです。

お能が発展するまでは、おそらく「お転婆」は早々表立ってはいません。 

『オランダ語で「慣らすことのできない」を意味する「ontembaar(オンテンバール)」からの借用という、言語学者の大槻文彦が『大言海』で唱えた説が有力ではあるが、「お」を付けずに「てんば」という用例が多くあるため、確証を得るに至っていない。この他にも「御天馬(おてんま)」の字を当てて公用に使われていた元気に跳ね回る馬を女性に見立てたとする説や、女性が闊歩する様を言う「オテバ」の転訛という説がある。
「おてんばに かまいなんなと てんばいい」という江戸川柳が残っており、お転婆娘が男に「あんなお転婆は構わない方が良い。」と忠告するものだが、そんなことを男に言うこと自体がお転婆であるということをおかしく詠んだ川柳である。この川柳では「おてんば」と「てんば」が両方あるが、もともと「てんば」があり、それに「お」をつけて呼んだとされる。漢字では「転婆」と書くが、当て字のようである。』
-Wikipedia

「婆」の文字、成立はこれは三国志時代です。
文字に衣の舞踊時の擦れる音が含まれる、意味と音を兼ね備えた文字です。
そうなると「古(いにしえ)」のどこかに「女王」のようなババ様が居たのか?と、音からババ様、文字になるほどの権威のあった踊り子を思い出そうとすると、確かに脳内情報で見当たりました。

ク・ババ(ウ)です。
シュメール。黒頭の民。
キシュ第三王朝の、彼女です。在位100年、シュメールの王朝記録もとてつもなく長いのですが、在位が現在の平均寿命より長い、という🤭キュービックの語源でも関与ある名前。
確かにその要素はギリシャ神話の中にも垣間見えますが、そのような「女性」も婆(ババ)様になる。

ところで能の始まる時代といえば、ニンゲン五十年。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
小田信長ですが‥

「鳴かぬなら死ぬまで待とう時鳥」うーん、
「鳴かぬなら移動してみよう時鳥」これかな、と、私もその後の名将を差し置いて、だんだん対象を変えたくなった時があります。

気がついたことは、彼ら三大名将(信長、秀吉、家康)は、対象を「必ずそれを固定して、一個人の気持ちを固定持続した歌詠をし、個人へ訴え(恐怖、圧力、平和)を訴えかけていたのだと気が付きました。
やっと四十(シジュウ‥サバ読みすぎ?)にして!

『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス (信長)
鳴かぬなら 鳴かせてみようホトトギス (秀吉)
鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス (家康)』

ワタクシ、現代の流れからか、待っておれられませぬ。
移動して希薄に、八方美人な未知対象好きです。

このフローアップflow upの個人感情が、平和の残る先進国の現代感の孤独な闇になりうると思うわけです。

不惑のシジュウどころか、そろそろ本当にシジュウナナ手前。
「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したご)う、七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり:常識)を踰えず」

「不惑のシジュウ。
天命を知る五十でしょ、
耳うたごうた(順えずに疑った)こと、六十である?」
と、シチジュウを超えた我母に聞いたところ、
「70歳を超えてからあるよ?」と、あっさり軽く言われました‥💧⚫️🐾

ノリを超えた気になっていたようです。

お転婆、ババアが転ぶと書きますが、「何故?」は、我が家では「パワハラ」と回答する母です(苦笑)‥🤭

八十を超えた人が孔子時代は少なかったのでしょう、その年代の言葉はありません。
82歳になってから亡くなった父の誕生月に、今年、「空がこんなに青いとは」、マクドナルドのCM採用(CM採用自体、何十年ぶりとなります)されました。

仏教経典のラスト音、玄奘三蔵の持ち帰った音は呪文真言。
その当て字は蘇婆訶(そわか、スバーハーと発音する国も)。
摩訶不思議の摩訶とは「超」の意味ですが、このスーパー蘇りそうな婆の文字とその音の魅力にて。『大仏開眼』と。



父の公式サイトにのみ紐付けしております。
フェイスブック連結タイプでそちらからもご覧になれる(?)かもしれませんが、下記公式サイト紐付けのこのblog(?)以外は、投稿はしておりません。
なにせ、SNSへのやる気が2.5perですから、このまま年間どころか全体投稿数2.5🐹で終わる可能性もありながら、つれ「ず」れ致します。

【父の公式サイト】
https://www.teruyuki-noda-officeoversea.com/

https://www.teruyuki-noda-officeoversea.com/erikoから連結blog(?)

この記事は私が書きました

閲覧環境による体系的な表示体形差の違いには責任を持ちかねます🐹

※ここまでの投稿はE World Japan出版「私」より抜粋です(元ネタ先)

©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子
©︎ E World Japan 代表者名 野田瑛里子

「おら村」のきねずか🐹

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