「自己分析」という重過ぎる十字架

それ、簡単に言っちゃう?

数奇なる運命の導きで今、筆者の手元にある書物に以下の記載がある。

就活は、自己分析→業界・企業研究→エントリーシート作成→試験・面接→内定といった流れで進みます。この特集では、自己分析を終えた学生がどのように業界や企業を選べばよいか考えます。

自己分析(self-analysis)。

日本国憲法第二十七条第一項はこう謳う。

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

たとえどんなに働きたくないとしても、少なくとも日本国民である限り勤労せねばならないわけである。憲法の規定に背くことは、相当の労力を要し、それ自体人生の全てを懸けて臨む一大事業となろう。

資本家であれば、或いは事業主であれば、被雇用者になるというニュアンスの就活とは無縁かもしれない。だがそうでなければ、事情は様々であれ、雇用される為の活動という意味での就職活動をすることになる。

それに先立って必要となるのが自己分析であるというのが前段のくだりだ。しかし、ここで、足が止まる。「自己分析」が「終わる」というのである。自己分析が終わるというのは如何なる状況なのか?

分 析 完 了

なる音でも鳴るのか?

「大きくなったら何になりたい?」

killer questionである。
イノセントな暴力。
子どもが虫を殺すような、無邪気より出ずる無慈悲。

この問いに初めて接したのは、幼稚園の年長組の時であった。
(筆者は先天的な社会不適合が原因で保育所を中退しており、幼稚園には年長しか通っていない。なお、その症例の一としては、「他の子と同じ時間に昼寝をしなければならない理由が分からない」等の発言が記録されている)

卒園アルバムを見ると、その回答は「本屋さん」とある。
如何にしてこの回答に至ったか?

大きくなったら何者かになる、というのは、経験的に薄々知っていた。
自分は小さいが、大人は大きい。時間と共に自分も大きくなる。大きくなると、何者かになる。しかしそれが職業を意味するのか、ということについてまでは、考えが至らなかった。それでも、「〇〇屋さん」と書いたのである。

「〇〇」を扱う人≡「〇〇屋さん」

なる図式がウェルニッケ野に刻まれていたのかもしれない。
いずれにせよ、私は父母と通った本屋を思い浮かべ、本に囲まれる暮らしは「良い」と思って、そう書いた。本屋は本を書いているものと思っていた。

本は新しいことを教えてくれる。読めない漢字や知らない言葉があれば親を質問攻めにした。ある時辞書の引き方を習った。それからはどんどん新しい知識を、語彙を吸収した。小学校に上がってからは、同年代の児童(及び一部の教員)と自分の話す語彙の乖離が広がってきたため、児童向け語彙変換インターフェースを実装した。

イグアナを飼いたいなら、
生物学者になれば良いじゃない

父はそう言い放ち、私は真に受けた。
あまりにもピュアで、世間知らずで、自分勝手な、マーケット感覚に欠ける、誇大妄想の、非現実的なこの目標設定が、その後十数年にわたり己の人生を縛る楔になるとは・・・

私は生き物が好きである。より詳しく言うと、昆虫と爬虫類が特に好きである。田畑が広がる田舎というほどではないものの、自転車を5分漕げば海にも山にも行ける環境で育った。幼い私を母はよく山に連れ出してくれた。海は、カナヅチである父から「君子危うきに近寄らず」の教えにより制限されていたためである。春には花見客で賑わう最寄りの公園で、草むらに分け入りバッタやカマキリ、チョウと触れ合うのが原風景の一つと言える。

生き物の飼育ももちろんやった。カブクワを始め大方の甲虫、バッタ、カマキリ、コオロギ、スズムシ、モンシロチョウ、ニホントカゲ、ニホンカナヘビ、セキセイインコ、ルリコシボタンインコ、金魚・・・捕獲・ペットショップ問わずあれこれと手を出した。そして、沢山の死を目の当たりにした。私には飼育者に必要な管理能力が不足していた。

爬虫類への愛が高まり飼っていたトカゲ達にキスをしまくっていた頃、『世界の爬虫類』というポケット図鑑を眺めていた。

もちろん、学校にも持ち込んで級友達に無理やり布教していた(この押し付けがましい性格は今にも尾を引いている)。そこで見たのがグリーンイグアナ Iguana iguana であった。

その愛らしくもクールな瞳。大きくて存在感のある口。複雑な鱗の織りなす紋様と色彩、そして尾を含め2mに達する立派な体躯・・・そして極め付けは、草食である。これは、飼える。飼いたい。そう思い親に相談した。

父は情報通信産業の末席にいたため当時としては珍しいインターネットにアクセスのある一般人だった。恐らくそこで簡単に調べたのであろう、後日私に『イグアナマニア』なる書籍を手渡した。

そこには樹上性の動物であるため家の中にジャングルジムのような、立体的な動きのできる環境を構築し、更に赤道直下の熱帯を再現した温度管理が必要である旨が記されていた。これではコストがかかって仕方がない、もしどうしても飼いたければこの本の著者(山内イグアナ研究所)のように、研究者になって自分のラボでやれというのである。

好きが仕事になったら1億総研究者

当時はまだ法人化されていなかった国立大学。そこの教授。これは即ち税金で好きなことができる公務員に他ならない。真の高等遊民に至る道が、ここに開かれていたのである。

先の「大きくなったら何になりたい?」は、小学校の卒業文集では「将来なりたいもの」という問われ方に変わっていた。級友達の回答は「野球選手」「億万長者」「トレジャーハンター」「ゲームクリエイター」「お嫁さん」etc... 新聞で見たようなものが多い、と思った。億万長者とは何か、自分には分からなかった。

特定の職業に就きたいという願望は無かったし、就いているイメージも無かった。とにかく、生き物を愛でて、新しい知識に触れ、美味しいものを食べて、やりたいゲームをやり、長生きしたかった。当然に、何故人は働かなければならないかについても答えは持ち合わせていなかった。それでも、ここはどうやら、何か職業めいたものを書くのが適応的行動なんだろうと大脳辺縁系が言った。私は取扱説明書を読まないタイプのゲーマーであったため、この種の場当たり的に直面する「何となく空気お察しゲー」の解き方もある程度カンが働いたのである。

全ての条件を満たす解としてそこに記したのが「生物学者」であった。
道に迷い、地べたを這いずり回る、曲がりくねったlong and winding roadの始まりである。



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