青木亮人『近代俳句の諸相-正岡子規、高浜虚子、山口誓子など-』
これまでの認識を覆されるような新しさに満ちた評論集。題名通り、近代俳句で外せない俳人たちの俳句や功績が丁寧に論じられていきます。
子規の時代精神を帯びた独断的な俳句観を、小説家や従軍記者などの夢に破れ、挫折と、屈託を味わうことで誕生したと指摘する本書。煩悶に苛まれる故に、俳句に煩悶など盛り込みえず、風景の断片しか詠みえないことに気付いた子規。業病に苛まれる日々に「理」を付けず、想像を絶する痛みや「精神の煩悶」に襲われるあられもない姿を、そのまま活写するのが子規の「写生」であり「美」であると説かれていきます。「写生」が、先入観や空想の陳腐を打破し、実景を掴み出し、身も蓋もない生身の人間の姿をいきいきと記すものならば、子規の「俳句」は文字通り近代的だったのだなと納得させられました。
また、現代の私たちにとっては、正統そのものと思われている虚子選の句が、当時としては類例のない奇妙な句であったという考察もとても新鮮でした。虚子の「写生」を基準にした選が、当時の月並み俳句の陳腐さと一線を画したものであり、虚子選が俳句観そのものをを創造していったということ。さらには、「選と云ふことは一つの創作」という宣言。現代の私たちの俳句観の源流を見た気がしました。
さらに、「連作」で知られる山口誓子の「写生」が、「写真」ではなく「映画」を念頭においた写生であり、映画のように連作を詠んだという分析にもなるほどと思わされました。その他、尾崎放哉、石田波郷に加え、高野素十の例なども出てきますが、中村草田男の章は必読です。
著者は草田男が好きなのだろう、と感じずにはいられない、熱量が伝わってくる鑑賞の濃厚さで、「万緑」の句をはじめ、数々の句が語られていきます。「互いに齟齬を来しかねない妙な生々しさ」を持つ草田男俳句を、「慈しみに満ちた共感や同情と、ほろ苦いユーモア」とする把握には、新たな草田男の魅力を見た気がしました。
そして、傑作や潮流をなした俳人たちだけに留まらず、わたし達が仰ぐべき俳人のシルエットとして紹介されるのが菖蒲あやです。しがない庶民のつつましい暮らしぶりを詠んだ彼女の俳句の持つ「貧しい自分自身を朗々と詠んだ強さや飄逸さ」。華々しくはなくとも、俳句に作者自身の「履歴書」を見つけられる魅力。俳句との新しい関わり方を提案された気がし、もっと彼女の句を読んでみたくなりました。