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寺山修司『寺山修司の俳句入門』

この記事は、日本俳句教育研究会のJUGEMブログ(2018.05.04 Friday)に掲載された内容を転載しています。by 事務局長・八塚秀美
参照元:http://info.e-nhkk.net/

事務所の書庫で見つけた本書。寺山修司ファンの一人として、彼がどんな入門書を書いたのだろう……と気になり思わず手に取りました。

短歌・詩・小説・エッセイ・シナリオ・演劇・映画・写真から競馬、ボクシング評論まで、多彩な分野で時代をリードし、四十七年という<持ち時間>を駆け抜けていった寺山修司。この多面的、多層性の表現者の出発が俳句であったことは今ではよく知られている。

「解題 寺山節考-入門から出門へ」齋藤愼爾 より

結論から言うと……、初心者向けに作られた、実用的な俳句の入門書ではありませんでした(笑)。寺山修司没後に編まれたもので、評論的な内容がメインで、「寺山俳句を知るための入門書(齋藤愼爾)」というのが一番正しい題名の解釈と言えそうでした。入門書だと思って入ったので、まず本書に慣れるのに随分苦戦してしまいました(笑)。

彼の活動のスタートを彩る俳句との数年は、主に高校時代に当たるのですが、彼が興した十代の全国俳句誌「牧羊神」にからむ座談会や、句会の記録などなど、どれを読んでもその成熟ぶりに驚きます。「私ら新世代によって革命化された新理想詩」としての俳句を目指していて、俳句もひりひりとした若さに溢れています。

流すべき流灯われの胸照らす
便所より青空見えて啄木忌
詩人死して舞台は閉じぬ冬の鼻
秋風やひとさし指は誰の墓
法医學・櫻・暗黒・父・自瀆

個人的には、彼が俳句をやめたずっと後に、俳句雑誌に依頼されて書いた文章やインタビューなどが、俳句との距離感もあり面白く、より示唆に富んでいるように感じました。日本の近代以降の文学における「私」性の問題なども、寺山修司流に昇華されていき、彼が俳句や短歌をやめた後に演劇だったのも納得できた気がしました。寺山修司は演劇を、肉体そのものが投げ出される「一人の作者の『私の呪縛』などと無縁のもの」であり、「社会科学を挑発する表現形式」として選び取ったのでしょう。

もともと「自分」というのは一つの連続体だっていうふうに思っていないですからね。昨日の自分と今日の自分とが同じだという意識はぜんぜん持てない。それらをつないでいるのは言説の次元のことにすぎないのであって、昨日の自分は「他人」の比喩です。

インタビュー「俳句、その出会いとわかれ」より