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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳

松本潤×長澤まさみ×永山瑛太の初共演で話題の舞台、NODA・MAP『正三角関係』を観に行く前に、原作を読んでおきたい、という気持ちになってしまい、うっかり大長編を手に取りました。

野田秀樹さんの手書きメッセージに、

【観劇前の注意事項】観に来る前に、原作の小説をお読みになるのは、勝手ですが、大変骨が折れ心も折れます。かといって、ネットで粗筋を読んだりアマゾンでマンガを買って読んだりして、わかった気になって観にくるのが、心に最も危険です。お気を付け下さい。

とあったように、長編という意味では「大変骨が折れ」た読書体験でした(笑)が、読み進めば読み進むほど、長編とならざるを得なかった意味に行き当たる、というか、不必要なものが何もない作品であることに(なるほど、傑作といわれるはずだ~と)納得させられながら、読み進めていくことになりました。そして、この作品を野田さんがどう解釈して舞台にするのか、楽しみになりました。(観劇後の今では、読んでいたことで、象徴的な公演タイトルを含めて、野田さんの仕掛けをより愉しめたように思います。)

さて、原作ですが……「父親殺し」というワードだけが頭にあったので、事件から始まる物語だと思っていたのですが、問題となる父・フョードル殺害事件が起こるのは、やっと中巻の真ん中あたり……。(勝手に想定していたのとは違う)思いもよらない物語の展開に意表をつかれ、裁判の結末にも驚かされました。そして、上中下巻、計約1900ページを通して、
「神」「信仰」「善」「悪」「罪」「欲」「愛」「救い」「赦し」「裁き」
様々なワードが思い浮かんでくる作品で、裁判の結末についても、様々な解釈が許されている作品で、読者が試されているような作品だなと感じました。

そのような読後感だったもので、(おそらく、本来ならばこの物語で語るべき宗教的な側面よりも)個人的には、「カラマーゾフの兄弟」というタイトルや、本文に出てくる「カラマーゾフ的」という言葉に象徴されるものに興味を惹かれました。

主な登場人物(カラマーゾフ)達は以下の通りなのですが、

フョードル・カラマーゾフ(父)~物欲の権化で好色
ドミートリイ・カラマーゾフ(長男)~放蕩無頼な情熱漢
イワン・カラマーゾフ(次男)~冷徹な知性人で無神論者
アリョーシャ・カラマーゾフ(三男)~敬虔な修道者
スメルジャコフ(使用人)~フョードルの私生児と噂される

(以下、ネタバレ厳禁で)
フョードル殺害事件の真犯人、そして、その犯人が主犯だと語る人物、また、裁判で犯人とされてしまう人物、最後に「カラマーゾフ万歳!」と称えられる人物、などが描かれていくにつれ、明暗描き分けられていると思われた兄弟の性格が、どんどん曖昧になっていき、境目がなくなっていくように感じ、ドフトエフスキーの意図もそこにあってのタイトルなのでは、と感じるようになりました。

≪地上的なカラマーゾフの力≫が働いているんです。地上的な、凶暴な、荒削りの力が……この力の上にも神の御心が働いているのか、それさえ僕にはわからない。わかっているのは、そういう僕自身もカラマーゾフだってことだけです……

アリョーシャ

「どんなことにでも耐え抜ける力があるじゃないか!」(略)
「どんな力です?」
「カラマーゾフの力さ……カラマーゾフ的な低俗の力だよ」
「それは放蕩に身を沈めて、堕落の中で魂を圧殺することですね(略)」

イワンとアリョーシャ

彼が広大なカラマーゾフ的天性の持主だからであり(略)
ありとあらゆる矛盾を併呑して、頭上にひろがる高邁な理想の深淵と、眼下にひらけるきわめて低俗な悪臭ふんぷんたる堕落の深淵とを、両方いっぺんにみつめることができる(略)
あの放埓な奔放な気質にとっては、堕落の低劣さの感覚と、気高い高潔さの感覚とが、ともに同じくらい必要なのである

検事論告

冒頭の「作者の言葉」によると、この長編は「第一の小説」で、「重要な」「第二の小説」で、主人公アリョーシャの物語になる予定だったようです。現実には、この小説を書きあげて間もなくドフトエフスキーが亡くなってしまったために、第二の小説は書かれませんでした。修道者をやめた、カラマーゾフ的なアリョーシャがどう描かれていくはずだったのか、興味は尽きません……。

とはいえ、裁判でも正しく裁けない世の中にあって、「堕落」だけでも「高潔」だけでもない、人間の持つ様々な側面が、カラマーゾフの兄弟たちの変容していく様に仮託されている、完結した小説として、面白く読みました。カラマーゾフ的なるものとは、もしかすると、清濁併せ呑んだ人間的なるもの、といえるのかもしれないなと……。

そして、冒頭のNODA・MAPの『正三角関係』に戻るなら……、そんな「世の中」を野田秀樹さんが解釈すると、「日本のとある時代」の長崎の花火師を描くことになったのに違いありません。(八塚秀美)