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言語教育におけるアウトプットの意義

最近、言語教育におけるアウトプットについてよく考えています。

山の日本語学校では、カリキュラムに「アウトプット」と名付けた時間があったくらい、「アウトプット」を重視したカリキュラムを組んでいました。自身の日本語教育の経験から考えても、これだけ「アウトプット」を重視したカリキュラムを組んだのは初めてです。

言語教育というと、文法や語彙などを覚えるという「インプット」を重視したカリキュラムが中心です。そのことにあまり疑いを持たず、私自身もそのような教育に関わってきたのですが、実際に「アウトプット中心」のカリキュラムを展開し、そこでの経験を通じて「インプット中心」の言語教育に疑問を感じるようになりました。

そこで、今回は、「言語教育におけるアウトプットの意義」について考えてみようと思います。

「インプット」とは何か?

「アウトプット」中心の授業を行っていた山の日本語学校には、多くの方が見学に来ました。また、この学校のことを事例として研究会などでお話ししたこともあります。そのときに、必ずと言っていいほど出る質問が、

「インプットはどうしているのですか」

というものです。

「アウトプット中心」としながらも、やはり、アウトプットのためには、インプットが必要です。良質なアウトプットには、良質なインプットが必要だとも思っています。

山の日本語学校の授業でも、アウトプットのために、大量のインプットがあったと思います。通常の日本語学校では、語彙をコントロールし、使用する文型等も意図的に絞って授業を構成しますので、そのようなインプットを制限した授業と比べたら、容赦ない大量のインプットが施されていたと思います。

しかし、「インプットはどうしているのですか」という質問には、「インプットをしなくて大丈夫ですか」という含意があると感じました。ここには、「インプット」の捉え方に相違があるのかなと思っています。

おそらく「インプットをしていない」といった場合の「インプット」とは、語彙や文法項目を教えたり、練習したりしていないという意味で使われていたのではないかと思うのです。

しかし、実際の授業では、インターネットで検索したり、資料を調べたりしながら、必要な情報を集めます。アウトプットのために、集めた情報を理解し、自分に必要な情報を取捨選択し、それをもとに考え、さらに、辞書や翻訳アプリを使用して日本語にするという作業が行われていました。

自分が伝えたいことを適切な日本語で表現できているのか、この点は、学習者自身だけでは判断が難しいため、日本語教師がサポートします。この段階で、初めて、必要な語彙や表現、文型が示されることになります。語彙や文型を全く教えていないというわけではありません。

ここで考えたいのが、学習者が何をアウトプットしたいのかがわからない状態で、何をインプットするかを教師が判断することは難しいということです。そして、何を表現したいのかが不明なまま、インプットだけしても、それは、「生きたことば」にはならないだろうと思っています。

「生きた知識」とは?

では、ここでいう「生きたことば」とはなんでしょうか。この点については、「知識」という観点から、下記の著書を元に紐解いてみたいと思います。

今井むつみ(2016)『学びとは何かー<探求人>になるために』岩波新書

タイトルのとおり、「学び」について書かれた本ですが、著者である今井氏は、子どもの言語習得を研究されているので、第二言語習得という観点から読んでも非常に興味深い本です。

この著書の中で、今井氏は、「知識」の再定義をしています。そして「記憶」と「知識」との関係を論じながら、「生きた知識」という知識観を示しています。

「生きた知識」は、単に事実を知っているという知識ではなく、それをどう使うかという手続きまでもいっしょになった知識なのだ。そして、その知識は、脳が学習し、知識をつかうための神経のネットワークを構築することによってつくられているのである。(p.141)

とても興味深い指摘です。この点について、最近の私の経験をお話ししたいと思います。花の名前を覚えるのが苦手だった私が、それを劇的に克服したという、言語教育には直接関係のない、私の個人的な学びの話です。

私の母は、華道の教授をしています。花を生けること、花を育てることが趣味でもあったので、365日いつでも、家の中、外に四季折々の花が飾られ、私は花に囲まれて成長しました。当然、花の名前も、その都度、教えられ、いろんな説明も受けてきました。言ってみれば、子どもの頃から大量のインプットがあったわけです。

しかし、私はその花の名前が覚えられず、右から左にきれいに抜けていきます。全く、頭に残らない(笑) 私は、未だに九九を諳んじることができないほど、障害級の記憶力の持ち主なので、母はすっかり諦め、私に花の話をすることをやめました。別に花が嫌いなわけではないのですが、私も、花の名前を記憶することは、自分には無理だと思っていました。

ところが…

ここ数ヶ月、自宅勤務になったことをきっかけに、毎日山の中を散策するようになってから、変化が訪れました。自然豊かなこの場所では、散歩中、きれいな花や珍しい花をよく見つけます。気にはなるのですが、名前がわからないので、とりあえず、写真に撮り、それをうちに帰ってから調べるようになりました。

今は、画像検索すると、すぐに、該当する花の画像が見つかります。そうはいっても微妙なものもあるので、さらにWebサイトを調べたりして、違いを見比べながら、どの花か見極めていきます。わからなければ、もう一度、その花を見にいって、観察し直します。まさに、大人の自由研究、「探求」活動です。

で、せっかく調べた花の名前を忘れてしまうのはもったいないので、花の名前のタグをつけて、インスタに投稿することにしました。インスタに上げると、似たような趣味を持った人から「いいね」をもらったり、今まで気づかなかった花の存在を知ることができたりと、世界がどんどん広がっていきます。

こんなことを繰り返しているうちに、今まで「白い花」などのカテゴリーでしか認識できていなかった「花」たちの区別がつくようになり、さらに名前も記憶できるようになったのです。自分でもびっくりです。

まさに、脳内で「花」を認識するための神経のネットワークが構築されたのではないかと思っています。それまでは、「知識」として何にも頭に入っていなかったものが、「生きた知識」として記憶されるようになったのです。

「学び」とは?

この経験からは、「学び」に関して、次の3つのことが示唆できるのではないかと思います。

- 学びの動機:自分の興味関心から出発した
- 学び方の学び:調べるという作業を通して、花を認識するための視点を獲得した
- 学びの深まり:アウトプットすることによって新たな観点を得た

順を追って説明します。

私は、花の名前が覚えられないという問題は抱えていたのですが、花は好きでした。毎日、美しい花を目にしているうちに、「名前を知りたい」という強い動機が生まれました。「自分の興味関心」が一連の行動の源になったわけです。

次に、画像検索によって、大量に出てくる花の画像を見比べながら、花の咲く時期や色、形などの花の特徴を確認するようになります。また、花の名前には、名前の由来やその花の特徴を表す情報が含まれていることが多く、これも花を認識するための手助けとなりました。名前が覚えられたのは、副次的なもので、名前も花の特徴の一つだったのです。この調べるという作業を通して、花を認識するための方法を学んだことになります。

そして、最後はアウトプットです。名前が分かった時点で、「名前を知りたい」という目的は達成できているのですが、インスタで発信するという作業は、一つハードルを上げることになります。間違ったタグ付けをしてはいけないと思うと、より慎重に調べるようになります。また、写真も、後で見たときに思い出せるように、特徴がはっきり写っているものを選びます。また、記憶に残りやすいようなコメントをつけることにしました。

さらに、同じタグ付けのされた別の写真を見ることによって、自分では気がつかなかった部分がフォーカスされ、特徴がより明確になります。自分とは別の角度や視点から花を見ることとなり、より世界が広がったように思いました。

元はと言えば、「名前を知りたい」という動機から始まった一連の行動ですが、最終的には、「花」をより深く理解したことによって、山の散策の楽しみが増えました。さらにいうと「クオリティの高い写真を撮る」という新たな学びへと踏み込むことになりました。「名前を知る」のはあくまでも学びのプロセスの一部だったのです。

「生きたことば」とは?

以上の私の経験を通して「学び」とは何かを考えてみましたが、「ことばを学ぶ」ときにも、同様のことが言えるのではないかと思います。

先に引用した今井氏の「生きた知識」についての記述ですが、語彙や文型も知識の一つと考えると、まさに、「生きた知識」を「生きたことば」と言い換えても、全く同じことが言えるのではないかと思います。

今井氏は、次のようにも書いています。「語彙」とは、「膨大な数の単語からなるシステム」だとした上で、以下のように述べています。

語彙の学習で、もっとも大事なことは、一つひとつの単語の意味を覚えることに留まらず、新しい単語の意味をすばやく推測し、語彙を増やしていくための「学び方の学び」を学習することなのだ。(p.51)

また、今井氏は、「生きた知識」を獲得する方法として、次のようにも述べています。

言語を使うために子どもは「外にある知識を教えてもらう」のではなく「自分で探す」。要素を見つけながら、要素どうしを関連づけ、システム自体も発見していく。自分で見つけるから、すぐに使うことができるのである。(p.151)

「「学び方の学び」を学習する」こと、そして、知識のシステムを「自分で探す」こと。これは、今回の私の経験がまさにその通りだったと実感しています。

これを一般的な日本語の授業に置き換えて考えてみたとき、本当に「生きたことば」が学べているのかということをもう一度考えてみる必要があると思います。

使用する文型や語彙があらかじめ用意されている場合、「自分で探す」ということが難しくなります。また、「学び方の学び」があらかじめ教師によってコントロールされていることにもなります。「生きたことば」を「ことばのシステム」と捉えると、このような環境で「生きたことば」を獲得するのは、なかなか難しいのではないかと思います。

言語教育におけるアウトプットの意義

そこで、考えてみたいのが「アウトプット」をどう扱っていくのかということです。

アウトプットするためには、「言語化」という作業が必要です。暗黙知と呼ばれるような身体化された技術や、写真だったら、「言語化」の必要はないかもしれません。しかし、自身の考えや経験を他者に伝えようと思ったら、何らかの形で「言語化」することが必要になってきます。

このアウトプットのための「言語化」という作業を通して、語彙や「ことば」のシステムを学習者自らが発見することにつながるのではないかと思います。実際に、言語化してアウトプットしてみないことには、本当にその人が何を伝えたいのかはわかりません。言語化してみたけど、どうも自分の言いたいことがうまく伝わっていない、ということもよくあることです。

そこで、どういう「ことば」にしたら、自分の言いたいことが正確に伝わるのだろうかを、さらに考えることになります。このやり取りを通して、「生きたことば」を学んでいくのではないかと思います。


では、「アウトプット」中心の授業で、インプットをどう扱えばいいのでしょうか。

インターネットがない時代であれば、「花の名前を調べる」ためには、詳しい人に聞くとか、図鑑で調べるくらいしか手段はありませんでした。

「この花の名前って何?」
「○○だよ」

というやりとりで、学びは終わってしまいます。

図鑑で調べるにしても、そのプロセスを想像すると、相当なモチベーションがなければ、名前がわかる前に諦めてしまいそうです。

しかし、今は、「インプット」に関していえば、非常にハードルが下がっています。ネット環境があれば、様々な情報にアクセスすることができますし、私がそうであったように、予想していなかった方向に学びを深めることも可能です。

むしろ、今必要なのは、教師側がインプットする情報をコントロールすることよりも、膨大な情報の中から、自分が必要とする適切な情報を探し出し、的確に活用するというスキルのほうが、重要ではないかと思います。

山の日本語学校では、ITエンジニアが対象でしたから、「わからないことはまずググる」というのが身体化されていました。情報検索という行動に関しては、あまり注視することはありませんでした。

しかし、ITリテラシーのあまり高くない(使い慣れていない)学習者を対象にすると、自分で調べるということは、予想以上にハードルが高く、ネット環境も、デバイスも、ITエンジニアとそれほど差がないという条件下でも、アクセスできる情報量や質に大きな差があると感じています。

アウトプットすることを前提に、どのようにインプットする情報を選びとり、どのように「学び方を学ぶ」態度を養っていくのか、そのような環境やカリキュラムをどのように設計していくのか、この辺をもっと考えていく必要があるのではないかと、改めて考えています。


今回は、「アウトプット」という観点から、言語教育を振り返ってみました。が、もしかしたら、これは、教育全般につながることかもしれません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!