ことばの教育を問いなおす-2

「対書」 『ことばの教育を問いなおす』を読んで考えたこと

鳥飼玖美子、苅谷夏子、苅谷剛彦(2019)『ことばの教育を問いなおす ー国語・英語の現在と未来』ちくま新書

を読みました。

今、気になっていることにドンピシャのテーマで、いろいろと考えさせられたので、今回は、この本を読んで考えたことについて、まとめてみたいと思います。

はじめに、この本の概要を少し説明します。

これ、3人の共著になっているのですが、一般的な共著と少し違います。「はじめに」の冒頭では、以下のように説明されています。

この本は、書きことばで対話している「対書」です。

「対書」とあるように、国語教育を専門とする苅谷夏子氏と英語教育を専門とする鳥飼玖美子氏が、1章ずつリレー形式で交代しながら書き、そこに、社会学が専門の苅谷剛彦氏が加わるという構成になっています。この3人をつないでいるのは、伝説の国語教師と言われる「大村はま」です。

が、予定調和の論考集ではなく、まず、苅谷夏子氏が大村はまの実践を元に「国語力」について論じ、その章を読んだ鳥飼玖美子氏が、外国語教育や日本語について論じます。その章に対して苅谷夏子氏がさらに反応していきます。そして、二人のやりとりを読んだ苅谷剛彦氏が別の視点で論を深める…というように、書きことばによる「対話」が繰り返され、論点は思わぬ方向に進んでいきます。

「対書」ですから、誤解があったり、議論がかみ合っていなかったり、別の論点が生まれたり、と議論は、まっすぐ一直線に進んで行くわけではありません。そんな構成だからか、3人のやりとりを読みながら、私自身もその議論に加わったような気持ちになり、日本語教育の現状や自分の実践について、あれこれ考えを重ね合わせながら読み進めました。

論点はいろいろあり、どれもこれももっと深掘りしたいことばかりですが、その中でも、特に気になった内容についてまとめ、私も「対書」に加わってみたいと思います。

ことばの教育における「OS」とは何か

苅谷夏子氏は、大村教室の意味を「OS」という比喩で説明しています。これは、大村はまの教え子が発した「僕があの教室で得たものはOSだと思う」という言葉を援用したものです。しかし、著者の3人は、その「OS」という比喩から、それぞれ少しずつ違ったものをイメージしていました。この捉え方の違いがおもしろかったので、まず、「OS」とは何かについて考えてみたいと思います。

夏子氏は、OSについて以下のように説明しています。

コンピューターにとってのOSは、人にとっては脳の(頭の)基本的な働き方、考え方それ自体であり、それは主に言語によって展開されるからです。知識をうまく納め、統括し、活用する主体、つまり「私そのもの」を鍛えていく。大村はまが、生徒たちに何より求めたのは「主体的に学ぶ姿」でしたが、それも当然なのでしょう。OSの部分は、主体と直結しているわけです。(p.34)

この説明によると、夏子氏は、「OS」を人間の考え方そのもの、その人自身だと捉えているように感じます。

この考え方に対して、鳥飼氏は以下のように「OS」を説明しています。

人間の言語能力は何か共通の基盤に根付いていると考えられています。その基盤とは、抽象概念を理解したり論理的に分析したりする能力で、まずは母語によって育成されます。母語を獲得してから海外の学校で教育を受けた子どもは、基底となる言語能力を母語で有しているので、それを共有することで外国語での学習言語能力が培われるというのです。大村はまの生徒のことばを借りれば「OS」かもしれません。(p.50)

このような意見が出てきたのは、夏子氏が使った「普段着のことば」という比喩の捉え方の違いが影響しているように思います。夏子氏は、自分の思考力を超えた難しい「ことば」でなく、自分の身について慣れ親しんだ、本当に自分のものになっている「ことば」を指して「普段着のことば」とし、そういう「ことば」が自分の思考力を支えてくれると主張しているように思いました。

のちに、鳥飼氏も、比喩の捉え方を取り違えていたと述べていますが、鳥飼氏は「普段着のことば」をカミンズ(Jim Cummins)の提唱するBICS(基本的対人コミュニケーション能力=日常会話力)だと捉えていました。そして、CALP(認知的学習言語能力)を培うための基盤となるものとして、「OS」を説明しているようです。

第二言語習得や外国語学習の際に「OS」となるのが「母語」だ

とも説明しています。

この2人のやり取りを読んだ苅谷剛彦氏は、「OS」を「深い思考力」と説明します。なぜ、そう捉えるのかその説明がおもしろかったので、以下に引用します。

私の場合、最初のそれは日本語で鍛えられました。母語だったからです。大学までの教育も日本語で受けました。しかし、その後、英語でもこのOSの能力を高める訓練を受けました。アメリカでの大学院の教育です。その結果、それは日本語か英語かを選ばず、日本語でも英語でも、複雑なことがらを読み取り、考え、話し、書くことができる、ことばの力になりました。その両言語をまたがる中間地点に、OSができたのです。それがどのアプリにのってアウトプットとなるか、そのアプリの言語が、日本語だったり英語だったりするのです。(p.122)

剛彦氏によると、「OS」とは母語によらない言語の中間に位置する「考える力」を支えるものと捉えているように思いました。

3人とも少しずつ捉え方が違うように思いますが、共通しているのは、「OS」が「ことば」によって鍛えられるということです。これは、言語教育に関わるものにとって非常に興味深い考え方です。

私は、今、日本語学校でプロジェクト型の実践を行っていますが、このような実践を「言語教育」という文脈で行う意義を、実は、まだ、はっきりと言語化できないでいます。

例えば、ITエンジニアを育てるのであれば、プロのエンジニアが教育をした方がいいのではないかという意見が出てきます。技術の向上という意味で考えれば、そうなのかもしれません。でも、私は、言語教育という文脈でこの実践をすることに大きな意義があると感じています。むしろ、言語教育という文脈でこそやるべきだとも思っています。

確かな手応えはあるのですが、それが何かと言われると非常に言語化するのが難しいのです。

しかし、このやり取りを読みながら、私が感じていた意義とは「ことば」によって、この「OS」をアップグレードすることではないかと思い始めました。単なる日本語を学ぶことではないし、プログラミング言語を学ぶことでもない、もっと思考の深いところに関わっている実践ではないかと感じています。私の考える「OS」とは、「学ぶ姿勢」とか、「考える基盤」とか、そんなイメージで、「ことば」を使うその人の生き方そのものに関係するものではないかと感じています。

私はよく授業の中で「圧倒的当事者意識」という言葉を使いましたが、これは、夏子氏の指摘する「主体」とも関係していると思います。思考の深いところをアップグレードするには、いかに主体性を持って、当事者意識を持って考えるかが、最も重要な要素ではないかとも感じています。

ただ、私の実践は、大村はまのように、徹底的に言語に対する意識を追求するものではなかったし、剛彦氏の経験のように徹底的に読んだり、書いたりするものでもありません。そういう意味では、この3人が語っている「言語教育」より、「プロジェクト」に重きを置いたものだと思っています。それでも、ここに「ことば」がどう関係し、それが「OS」にどのように影響していたのかについては、もっと考える必要があると思いました。それが、私の実践の意義につながるように思っています。

理論と実践の往還

このように自分の実践に照らし合わせて読み進めた時、もう一つ、興味深い論点がありました。それが、「理論と実践の往還」というテーマです。

はじめ鳥飼氏は、大村はまの実践を「理論化」できないかと学説や理論をもとに、様々な視点を提供しています。しかし、夏子氏は、それを拒みます。

教えるという仕事をする人にとって、理論は下勉強としては有用でしょう。でも、どんなに優れた理論、破綻のない体系であったとしても、子どもたちの目の前に立った時、それを具体的にどう形にするか、という変換はすんなりとできることではありません。大村はまはそれを痛感して、自身は抽象化、理論化、方式化の方向はきっぱりと諦めて、自分の実践を時間と力の許す限り具体的に一つ一つ追求していきました。そこに、「教える人」としての自分の存在意義があると考えていました。(p.63)

しかし、このような優れた実践をもっと多くの教室で行えるようにするには、どうすればいいのか、また、自分自身の実践に活かすにはどうすればいいのかを考えると、何か、その手がかりとなるものを知りたいと思うのも当然です。

鳥飼氏は、「理論とは何か」というテーマで「理論と実践」の関係について説明しています。「理論」と「実践」は対立する概念ではないとした上で、「理論」と「実践」の往還が必要だと述べています。特に、「自らの行為を振り返る際に、理論は有用」だとします。

この論を受けて、今度は剛彦氏が「演繹的思考」と「帰納的思考」という視点で論を進めます。(第5章)

剛彦氏は、学生の研究指導を例に出しながら、優れた先行研究をもとにした研究者の思考を「追体験」する方法について説明しています。その際、「演繹的思考」と「帰納的思考」の間を行ったり来たりしながら、分析することの必要性を主張します。剛彦氏自身も、このような「演繹」と「帰納」という頭の働かせ方の訓練によって、「OS」(=深い思考力)を養ったという自身の経験も説明しています。

その上で、「理論化」の可能性について以下のように述べています。

優れた実践の中心的な部分を捉える方法が、完璧なものにならなくても、優れた実践から帰納的な思考を通じて、そこに共通する「何か」を発見、理解し、それに別のことばを与えていくことはできるのかもしれません。(p.117)

この章を受けて、鳥飼氏は、以下のように述べています。

理論化すなわち普遍化すれば、大村教室が一般に広がると私は考えていたわけですが、確かに、抽象化のプロセスの中でこぼれ落ちてしまう要素も多々あるでしょうし、そこを無理すると、大村の思いが歪められて伝わる恐れもあります。ならば、大村はまは、「並外れた存在」として、その実践を語り部が丁寧に言語化して伝えていく、というやり方が妥当なように思い始めました。(p.131)


この一連のやりとりを読んで、私は実践者として、2つのことを考えました。

一つは、理論化された実践を、個々の実践者がどのように捉えるのかということです。

剛彦氏の「演繹と帰納の往還」から考えると、研究者が、優れた実践をもとに理論化するということ自体は目的にはならず、理論化されたものから、実践者がどのようにしてその理論化された実践の本質を読み取るのか、そして、それをどのようにして自身の実践につなげるのかというところに理論化の本質があるのではないかと思いました。

つまり、これは、個々の実践者の「OS」の問題になります。実践者自身が、自身の「OS」のアップグレードを試み、「理論と実践の往還」をしなければならないということなんだと思いました。

誰かが理論化してくれるのを待つのでなく、そして、それを自分の実践に応用するのではなく、実践者自身が理論化を試みなければならないのではないか。そして、そのとき、実践者自身に、すぐれた「OS」が必要となるのではないかと思いました。


もう一つは、私自身はどうするのかということです。

大村はまのような優れた実践があり、それをきちんと伝えてくれる「語り部」がいれば、理論化は必要ないのかもしれません。(実践そのものが「語り部」によって言語化されるからです)

しかし、私には、それを語ってくれるような教え子がいないので(笑)、やはり自分の実践は自分で言語化しなければならないようです。

これまで、実践から学んだこと、得たことを一つのことばとして表現してしまうと、そこで実践が固定化されてしまう怖さを感じていました。また、一つのことばで表現することによって、誤ったメッセージが伝わる可能性もあるとも思っています。

こんな考えから、どのように実践を伝えるのかは、私にとっては、大きなテーマでした。しかし、とりあえず一旦、自分の考えたプロセスを言語化し、さらにそこから、「演繹と帰納」を行ったり来たりしながら、自身の「OS」をアップグレードさせていくことを優先的に考えてもいいのではないかと思いました。そして、そのとき、言語化されたものはあくまでもその時点での「暫定的な」ことばとして捉えます。誰かに伝えること(そして、それを評価されること)を目的とするのでなく、自分自身のために理論と実践を往還しながら言語化していく作業を続けていけばいいのだと改めて感じました。そこから何を考えるのかは、それを読んだ個々の実践者に任せればいいことです。

私は、理論書とか読んでもすぐに忘れてしまうので、今まで、先行研究を参照しながら論文を書くという行為が、ものすごくハードルが高かったのですが、なんだかとっても気が楽になりました。

まだまだ考えたことはたくさんありますが…

アクティブ・ラーニングとか、PBLとかいうと、「教えない」ことがよしとされることが多いのですが、そうであっても、私は、教師の役割というのは、とても重要なんじゃないかと思っています。それが再認識できる本でした。

本書では、他にも、今の大学入試改革に関する問題や、試験とは何か、その試験に対して実践者は何をするのかを考えたり、また、改めて「ことばの力」とは何か、人間にとって「ことば」とは何かを考えさせられたり、いまだに頭の中は、ぐるぐるしています。

もっと書きたいこともあるのですが、長くなってきたので、この辺のテーマは、また、別の機会に書こうかと思います。と言いつつ、これまで、そのまま放置されていることが多かったような…

しかし、これからは、自分のOSのアップグレードだと思って、「書く」ことをもっと積極的にやっていきたいと思うようになりました。

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけ

自然言語ではないですが、「プログラミング言語」と「思考」の関係について、以前にQiitaにこんな記事を書きました。よかったら、こちらもご覧ください。


共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!