個人のキャリアをどう捉えるのか 〜「送り出し機関」が行う日本語教育の可能性から考える
インドネシアに行ってきました。
インドネシアを訪れたのは、10年ぶりだったのですが、この10年間の発展には目覚ましいものがあります。特に首都のジャカルタは、高層ビルや高速道路、ショッピングモールなどがどんどん新設され、経済的な勢いも感じました。普段、高齢者の多い山の中に住んでいることもあって、まず、若者の多い都市の活気に圧倒されました。
今回の訪尼の目的は、送り出し機関が行っている日本語教育やトレーニングの様子を見せていただくことでしたが、日本語教育のあり方も、ずいぶん進化していました。
訪問した送り出し機関では、50人程度の日本語教師を抱えており、常時50クラスのマネージメントが求められるという大規模な教育を行っていました。教育のクオリティを保つため、社内ではIT部門が独自のLMSを構築し、自社サーバーで情報管理しつつ、オリジナルコンテンツを開発するという凄まじい現場でした。
海外の教育現場では、『みんなの日本語』が主流のようですが、今回訪れた現場では、文法中心の教育から、「行動中心アプローチ」への転換を目指していました。とにかく、現場の先生方が前向きに積極的に取り組んでおり、これらの取り組みにも圧倒された訪尼でした。
そこで今回は、インドネシアの送り出し機関を訪問して感じた、さまざまな可能性や制度上の歪みについてまとめてみたいと思います。
ゴール設定の難しさ
送り出し機関が日本語教育を行う場合、ゴール設定が最も難しい課題だと感じました。
送り出し機関は、インドネシア国内で候補生の教育を行った後、日本へ送り出します。そして、3〜5年間後、日本での就労を終えた技能実習生や特定技能経験者を再び受け入れ、インドネシア国内での再就職の支援もしています。言ってみれば、国から送り出した個々人のキャリアに最も責任を負っている機関だとも言えます。
これまで関わった送り出し機関もそうだったのですが、個人のキャリアに責任を負っているからこそ、日本へ送り出す前に、自律的に学べるような教育を行い、日本でそれぞれのキャリアを形作れるような経験を積んできてほしいという想いを持つ関係者が多いと感じています。
しかし、技能実習制度や特定技能制度のような日本の就労制度には、多くのステークホルダーが関係しています。日本国内の監理団体や受け入れ企業は、立場によって見ている方向が違いますし、それぞれの期待があります。また、制度的にも、細かいルールが定められています。
このような様々な立場のステークホルダーの要望によって、求められる日本語力が少しずつ変わってきます。例えば、現地で話題になったのが、「日本語ができない」と言ったときの「できない」とは何を指すのかというものです。
監理団体が用意したテストが「できない」というケースもあれば、日本人に話すのと同じように話した内容が「理解できない」と言われるケースもあるようで、この両者の「できない」には、大きな差があります。
前者であれば、テストの形式も影響してきますし、テストはできないけど、やり取りはできるということもあるでしょう。後者であれば、たとえ日本語能力試験のN2を取得していても「理解できない」ケースもあり得ると思います。数ヶ月の日本語教育によって、これらの「できない」に対応するのは、かなり難しいのではないかと思います。
「日本語ができない」というクレームはよくあることのようです。それもそのはずで、日本語能力試験のN4やN3という指標は漠然としており、日本語のレベルを伝えるのには不十分です。「N4レベルです」と言ってもその実態は正確に伝わりません。
これらの問題については、『日本語教育の参照枠』の指針を元に、「何がどの程度できるのか」を明確に示すことによって解決できる可能性があると思いました。しかし、これは、送り出し機関側だけの問題ではなく、監理団体や受け入れ企業にも日本語教育に関する理解が必要だと思います。
問題は、制度に日本語レベルが埋め込まれているケースです。例えば、介護の技能実習の場合、日本語能力試験のN4に合格していることが、在留資格取得のための条件になります。つまり、N4相当の試験に合格できなければ、求職活動ができないということになります。となると、日本語教育の第一関門がN4に合格することになります。
この点については、送り出し機関でも非常に苦労されていました。試験対策中心の授業より、もっとやり取りを中心とした授業をしたいと思っても、試験対策から脱却するのは難しいということでした。N4に合格して初めて、介護の実習やコミュニカティブな授業に移行するということで、なんとも悩ましい問題だと思いました。
『日本語教育の参照枠』を元に、「できること」を示すためには、文法中心の日本語教育を変える必要があります。しかし、試験対策を行うのであれば、文法中心の日本語教育を無視するのも難しいと思います。実践に必要な評価と制度上の評価の指標が異なっているのが大きな歪みを生んでいると思いました。
媒介語を使用した日本語学習の意義
今回の訪問では、さまざまなレベルの授業を見学させていただいたので、授業にも触れておきたいと思います。日本語教師のほとんどがインドネシア人でしたから、ほぼすべてのクラスで、インドネシア語を媒介語として授業が行われていました。
(なんとここで、偶然にも日本語教師として活躍している教え子に出会いました。日本での経験が確実に個人のキャリアにつながっているのを見て、とてもうれしくなりました)
実際に授業を見学して、言語の初学者にとって、媒介語を使って新しい言葉を学べるという環境は、理想的だと感じました。自分がよくわかる言語で説明があるというのは、言語に対するプレッシャーを軽減できますし、理解が深まります。教師自身が日本語学習者ですから、学習者がつまづきやすいところや理解しにくいところもわかっています。
何より、教師が学習者にとって、最高のロールモデルになります。実際に多くの教師が日本での就労経験を持っていました。身近にロールモデルがあるというのは、学習のモチベーションにもつながります。
日本国内では、教室内にさまざまな母語を持つ学習者がいますから、日本語を使って日本語を教えるという直接法が主流です。しかし、直接法は、説明に時間がかかりますし、言語学習に慣れていない初学者にとって、ハードルが高いときもあります。目標言語以外に共通する言語があれば、学習者同士で教え合うことも可能ですから、心理的負担も軽減できると思いました。
一方で、媒介語を使用した場合、媒介語での説明が多くなってしまい、日本語によるインプットが少なくなるという欠点もあります。この点は、当該教育機関でも十分に認識されており、さまざまなアドバイスが求められ、真剣な議論が行われました。学習ログが記録されており、データを元に議論ができるというのは、大きな強みです。今回の議論を元に、今後、カリキュラムの調整や共通のLMSを使用した学習コンテンツ等で工夫がされていくのではないかと思います。
また、授業では、教師対学生という1対1のやり取りも多く見られました。文法中心の授業では、学生同士の横のつながりが、生まれにくくなります。ただ、このような教室における教師と学生の関係性は、何もインドネシアに限ったことではなく、どの教室でもテーマとなる課題です。私のこのようなフィードバックに対し、真剣に対応策を考える関係者の方々の姿勢に、機関の可能性を感じました。
「難しい」とか「できない」ではなく、「どうすればいいか」→「やってみよう」という流れを生み出す議論はとても楽しくて、つい熱が入ってしまいました。
教育費用を誰が負担するのか
当然のことながら、教育にはコストがかかります。今回の機関のような教育を行おうとしたとき、教育費用を誰が負担するのかというのは悩ましい問題です。
送り出し機関には、全国各地から候補生が集まってきますから、全寮制で教育を行っているところも多いと思います。教育費に加え、これらの生活費も考えるとかなりの費用負担になります。
今回、見学させていただいた送り出し機関では、教育にかかる費用は、会社側が負担していました。しかも、教育にかなりの投資をしていることもわかりました。経営手腕もさることながら、人材育成に対する代表者の理念が経営に反映されているのでないかと思います。営業も宣伝もしていないのに、全国から人が集まってくるという理由がわかるような気がしました。
これまで関わってきた送り出し機関でも、教育費用をどのように捻出するのかは大きな課題でした。実際に来日した技能実習生に聞いてみると、自己負担というケースが多かったように思います。私も、教育は自分への投資であると思いますので、自己負担でもいいのではないかと思っています。
しかし、候補生の経済状況を考えると、日本語教育機関や大学のように高額な学費を徴収するのはなかなか厳しい現状があります。
送り出し機関は、日本へ送り出して数年後、帰国した人の再就職の支援をしているということを書きました。それだけの長い期間、個人に伴走し、それぞれのキャリアが見えているからこそ、人材に投資するという発想が生まれるのではないかと想像しました。
奇しくも「育成就労制度」という技能実習に変わる制度が検討されていますが、受け入れ側に本当に「人材育成」という視点があるのか、教育費用の負担という点だけ見ても、意識に違いがあるように思います。本当に育成しようという気持ちがあれば、「日本語ができない」と簡単には言えないだろうと思うのです。
個人のキャリアをどう捉えるのか
今回、送り出し機関を訪問して、最も印象に残ったのは、個人のキャリアを捉える視点です。
送り出し機関は、候補生を送り出してから帰国するまでという長いスパンで、個人のキャリアを捉えています。一方で、受け入れる側は、日本滞在中の3〜5年間という短い期間でしか、個人のことが捉えられません。日本での滞在期間に、どれだけ会社に貢献してくれるのかという視点になりがちではないかと思います。
しかし、候補生は、日本の人材不足を補うために、日本へ来るわけではありませんし、企業の人手不足の解消のために、就職するわけでもありません。彼/彼女らは、技能実習とか特定技能という制度を利用しているだけです。制度上、在留期限が決まっているのですから、日本での就労を終えた後どうするか、日本での経験を自分のキャリアにどう活かして行くのかを考えるのは、彼/彼女らにしてみたら当然のことです。
「送り出し」と「受け入れ」という視点の違いが、この制度を何か歪なものにしているように感じました。
日本語を習得するというのは、そう簡単なことではありません。また、家族から離れ、言語や生活環境の違う国で暮らすというのも、それほど簡単な決断ではないはずです。今回の訪問では、自分の道を自分で切り拓こうと努力する若者に、教育費や生活費を提供し、日本でのチャンスを与えようとする企業努力があり、それを支えようと教育の方向性を必死で考える多くの教師や関係者と出会いました。
インドネシアの発展を目の当たりにし、日本で3〜5年間の就労を終えて帰国したとき、「浦島太郎」状態になってしまうのではないかと、何かモヤモヤしたものも感じました。未来のある若者たちを受け入れるためには、受け入れ側にも「人材育成」の視点が必要です。私たちの姿勢が問われると感じています。
学習者の出身地を知るって、大切なことだなあと改めて思った訪問でした。ということで、今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!
共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!