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PBLにおける教師の役割 【「Most Likely to Succeed」を観て考えたこと】

前回、教育ドキュメンタリー映画「Most Likely to Succeed」に関連して、参加したイベントや関連書籍についてまとめました。

今回は、この「Most Likely to Succeed」(以下、MLTS )を観て、改めて考えたことをまとめてみたいと思います。MLTSは、Vimeoから、オンラインで鑑賞することができます(有料です)。教育に関わる方には、ぜひ観てほしいドキュメンタリーです。

このMLTSの感想については、2年ほど前になりますが、一度、noteに書いています。当時、私は、日本語学校で、PBL(Project-Based Learning)と呼ばれるプロジェクト型の言語教育を行っていたので、非常に共感しながら、このドキュメンタリーを観ました。そして、その勢いでnoteを書きました。

しかし、自分でもPBL実践をデザインしたり、関連する書籍を読んだりした上で、ドキュメンタリーの舞台となるアメリカのチャータースクール「High Tech High」で行われているPBLを冷静に観てみると、前回書いたnoteとは少し違う感想を抱きました。

今回は、その点について、考えをまとめてみたいと思います。

副産物ではないPBLの「学び」

MLTSでは、「High Tech High」で展開されているPBLの授業を追いかけ(1年にわたるプロジェクトでした)、そこで学ぶ2人の生徒の様子を描いています。前回のnoteでは、その様子を「成長物語」と記していました。

しかし、改めて観てみると、この成長は、PBLによる「学び」の単なる副産物ではないということに気がつきました。むしろ、この「学び」がPBLの中核ではないかと思いました。そして、プロジェクト型の授業であっても、よく練られたカリキュラムデザインがなければ、このような成長につながる「学び」には至らなかったのではないかと思ったのです。

MLTSでも、何回も触れられていますが、PBLにおける「学び」というのは、非常に評価が難しい。一般的なテストのようなもので、何を学んだのかを数値化して測ることができないからです。可視化するのが難しいからこそ、何を学んでいるのか、何が身についているのかが見えにくく、PBLのような「学び」に抵抗を感じるのではないかと感じています。

では、PBLにおける「学び」とはどのようなものでしょうか。MLTSの中ではそれを「ソフトスキル」とし、例えば、批判的思考、他者と協力する能力、試練に耐える力、時間管理能力などが挙げられていました。

このような「ソフトスキル」は、PBLでどのように育まれるのか。私は今では、プロジェクト型の授業をすれば、これらの力が副産物的に養われるとは思っていません。やはり、それなりのカリキュラムデザインが必要なのではないかと思っています。

PBLにおける教師の役割

今回は、PBLにおける教師の役割について、MLTSに描かれている「High Tech High」のPBL実践をもとに考えてみたいと思います。

「High Tech High」では、1クラス50人ほどを、人文と理科・数学の対照的なバックグラウンドを持つ教師が2人で協働で担当する仕組みになっており、教科を横断して、プロジェクトが設計されているようです。学校教育における「教科」の学びについては、私は専門外なので、「ソフトスキル」に絞って考えていきたいと思います。

MLTSの中では、授業の中で、教師が生徒に「あなたの弱点は何か」と問いかけるシーンがあります。これは、状況から見ると、プロジェクトの前半部分で行われた問いかけだと思われます。その問いかけに対し、「自分はシャイだ」と答えた生徒がいるのですが、彼女は、オリジナル劇を製作する際、ディレクターに立候補します。この決断は、生徒自身によるものであり、教師が意図したものではありませんでした。何が彼女にこのような決断をさせたのでしょうか?

さらに、ディレクターになったその生徒が、教師のところへ劇の演出について相談に訪れた際に、教師は「それはあなたが判断しなさい」と、生徒に判断を委ねます。その教師は、以下のように話します。(かなり要約してます)

「生徒自身に判断をさせなかったら、判断力なんて育つわけがない」

教師は、ある信念を持って、生徒たちと接していることがわかります。

そして、1年かけて行ったプロジェクトの後に、振り返りをしているシーンもあります。このシーンでは、クラスメイトと教師の他に、保護者も同席していることがわかります。ここでの教師の問いかけに対して、ディレクターを務めた生徒は、この1年間で学んだことを的確に言語化して説明していました。入学当初の様子とは、表情も声もずいぶんと変わっているのがわかります。

この一連のシーンを観て、この生徒の成長は、単なるPBLの副産物なのか、それとも、カリキュラムにデザインされたものなのかという疑問が湧きました。(最初にMLTSを観たときは、単なる副産物のように感じていました。たまたま成長が著しかった2人にフォーカスしてドキュメンタリーを構成したのだと感じたのです)

1年間という長い時間をかけて行うプロジェクトですから、その間には、ドキュメンタリーでは扱われなかった様々な出来事があり、プロジェクト中には、様々な成長のきっかけがあったと思います。(よく見ると、教師の髪がかなり伸びているので、時間が経過しているのがよくわかります)

しかし、改めて、生徒が1年を通して学んだことをプレゼンしたシーンを観て、ただ、漫然とプロジェクトをやっていただけでは、このような「学び」の的確な言語化は難しいのではないかと思いました。

この点について、前回のnoteでも紹介した『「探究」する学びをつくる:社会とつながるプロジェクト型学習』(以下『探究』)を合わせて読んで、なるほど、と納得することができました。

『探究』の中では、「High Tech High」の教師の役割についても書かれています。それによると、「High Tech High」では、プロジェクトへの関わり方について、ガイドラインがあるようです。そこには、プロジェクトを通して生徒が学びを深められるように、サポートを行う姿勢について書かれています。(細かい内容には触れませんが、びっくりするような内容ではありません。ごくごく普通に考えられるものでした)その一つに以下のようなものがありました。

・プロジェクトのポイントごとに適切な振り返りの場を設定する。
(Kindle 位置No.787)

MLTSの中では、最初と最後の2つの振り返りのシーンが収められていますが、1年間というプロジェクトの中で、「振り返りの場」というのが、最初と最後以外にも何回も設けられているのだと想像しました。『探究』には、さらに以下のようにも書かれています。

その際に生徒は、「自分は何を学び」「何に課題を感じていて」「何が得意だと感じていて」「期末に向けてどうしていきたいか」を先生や保護者にプレゼンテーションする。 (Kindle 位置No.799-800)

これは、学期の中間地点で行われる「Student-led-conference」という、三者面談のような振り返りの場についての説明ですが、このような「学び」について言語化することを繰り返し行っているからこそ、自分が1年を通して学んだことを、的確に言語化できたのだと想像しました。

そして、このような言語化において、MLTSの中では、教師が生徒に問いかけている様子も収録されていました。時に、非常に厳しい問いかけもあり、また、生徒を勇気付ける問いかけもありました。1年間、一緒にプロジェクトを実践したからこそできると思う問いかけやアドバイスで、いかに生徒、一人一人をしっかり見ているかということが、この問いかけからもよくわかります。

『探究』にも触れられていますが、ガイドラインに書かれているような「学び」の支援やこのような振り返りの場を通して、生徒たちは、自分の経験を内省する機会がふんだんに与えられていたのだと想像しています。そして、プロジェクトを通して、自分が何を学んだのか、自分にとってどんな意味があったのかを意識化し、単なる経験を「学び」に変えていくのではないかと思いました。

言語教育におけるPBL

ここまで「教師の役割」という切り口から、「High Tech High」で行われているPBLについて考えてみましたが、言語教育という文脈で、このPBLを捉えてみたいと思います。

日本語教育という文脈でも、プロジェクト型の授業というのは、昔からよく行われていたように思います。しかし、その授業というのは、上級になってからであったり、大学に進学してからであったりと、ある程度、日本語が話せるようになった学習者が対象であることが多いと思います。

で、その目的を考えると、プロジェクトを通して「ソフトスキル」を養うというよりも、生の日本語を使う場を設け、実際に日本語を運用することを目的にしていることが多いように思います。

もちろん、そのような機会も必要だと思います。ただ、そのような機会を与えた場合、学習者が表現したいことにどの程度フォーカスできているのかが、問題ではないかと思いました。私たち日本語教師は、特定の場面でどのような日本語を使えばいいのか、そのとき、どのような表現や文型が適切かという部分にフォーカスしがちです。さらには、想定される場面を先取りし、必要な表現を先回りして教えてしまうということもやってしまいます。

せっかくのプロジェクト型の授業でも、これでは、本当の運用力が養えるとは思えません。「High Tech High」の教師の言葉を借りれば、

「学習者自身に本当の運用をさせなかったら、本当の運用力なんて育つわけがない」

ということになります。やはり、本当の言語運用の経験を積まなかったら、言語運用ができるようにはならないと思ったのです。

では、言語教育におけるプロジェクト型の授業では何を目指し、私たち教師は、どんな「学び」の要素を授業に埋め込もうとしているのでしょうか。そもそも言語教育では何を「学び」として設定すればいいのでしょうか。

「High Tech High」では、その期間のプロジェクトの内容や扱うべき学習項目については、担当教師に一任されているようです。何をどう学ぶのかという、「学び」の要素は、担当教師が決定しているわけです。

もし、このような「学び」の要素を各教師が設定するとしたら、どのように授業をデザインすればいいのでしょうか。私たち日本語教師は、このような「学び」について、きちんと考えているのだろうかということも考えさせられました。「教科」や「学習指導要領」がない日本語教育の世界では、授業を設計する教師一人一人がこのような「問い」を考えていかなければならないと思いました。

私自身は、自分一人ではなかなか気づくことができない、言語化できない部分に学習者自らが気づき、それを言語化して表現するという言語教育ができたらいいなーと思っています。まさに「High Tech High」で行っていたような、経験を「学び」として言語化するという教育です。

「自分は何を学び」「何に課題を感じていて」「何が得意だと感じていて」「期末に向けてどうしていきたいか」

このような問いかけに対して、経験をもとに振り返りをしながら、言語化するという経験がもっと必要だったと、実際に日本語学校でPBLの実践をやってみて、改めて感じています。自身の経験を意識化し、言語化できたとき、その人にとって、生きた言語を学ぶことになるのではないかと思いました。

かくいう私も、これまで行ってきたプロジェクト型の言語教育の経験をどのように言語化すればいいのかということに、未だに試行錯誤しています。しかし、自分の中の経験をきちんと言語化して、経験していない人にもわかるように伝えていかなければ、それは、なかったことと同じになってしまうということに気がつきました。

なかなか骨の折れる作業だなーと思いながらも、PBLの実践について描かれたドキュメンタリーを観たり、著書を読んだりして、そのヒントをもらったというところに、PBLとの因果を感じています。というか、やり残したことがたくさんあることに気がついて、また、実践をしたくてうずうずしています。

「High Tech High」の教師たちの生き生きとした表情を見て、PBLをやっていていちばん楽しいのは、実は、教師ではないかと思ったところです。

ということで、この話はまだまだ続きます。
今回もお読みいただき、ありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!