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CEFRの理念は日本語教育に活用できるのか?

文化庁の日本語教育大会に参加してきました。

記事を書きかけのまま、バタバタしており、放置しているうちに2週間も経ってしまいました。

今回の日本語教育大会は、1日目、会場がいっぱいでなかなか入れなかったり、2日目が台風で中止になったりというハプニングもあり、いつになく話題性のある大会でした。

その辺はさておき、あまり中身について議論されていないように思いますので、今回は、パネルディスカッションのテーマ「最近よく聞くCEFRって、何のこと? 〜日本語教育における活用を考える〜」について書きたいと思います。

パネリストとそのテーマは以下でした。

大木充 氏(京都大学名誉教授)
 CEFR一般とその増補版で明らかになったことについて
簗島史恵氏(国際交流基金日本語国際センター)
 JF日本語教育スタンダード
金田智子氏(学習院大学)
「標準的なカリキュラム案」について ーその課題と可能性ー

で、ファシリテーターが、松岡洋子氏(岩手大学)でした。

これだけの方が一同に会して、ディスカッションするなんて、そうそうないのではないかと、実は、このパネル目当てに参加したのでした。
「パネルディスカッション」の宿命というか、実際には、あまり活発な意見が交わされることがなく、不完全燃焼なところはありましたが、それでも、とても有意義な時間になりました。

そこで、今回は、このパネルディスカッションでの議論(話題提供?)から考えたことについてまとめておきたいと思います。

大木 充 氏
CEFR一般とその増補版で明らかになったことについて

「CEFRとは何か?」を考えるためには、まず、その「理念」について知る必要があります。
大木氏の話では、その「理念」について、重要な視点が提示されました。以下は、その資料(スライド)のタイトルです。

-  CEFRって、何のこと?
-  欧州協議会って?
-  CEFRの目的は?
-  CEFRの教授・学習の指針は?
-  行動中心アプローチとは?
-  CEFR(2018)増補版で何がどう変わった?
-  媒介(mediation)能力とは?

その内容は、CEFRの基本のキという感じでしたが、改めて、ポイントを聴きながら、今の自分の実践と照らし合わせて考えていました。
そして、私が行ってきた実践って、CEFRの理念と合致している部分が多いのでは?と再認識したのです。そこで、ここからは、今の実践と照らし合わせながら、CEFRについて考えてみたいと思います。

CEFRの目的:複言語・複文化能力の養成

日本語学校というと、「授業中に日本語以外の言語を使ってはいけません」というルールを適用することが多いのではないかと思いますが、勤務校では、一切禁止していません。また、日本語の習熟度によるレベル分けもしていません。

プロジェクトベースの授業では、プロジェクトを成功させることが、最優先されます。プロジェクトを遂行するためには、どうしても、複雑なやりとり、専門的なやりとりが必要になることがあります。それを学習言語である日本語だけで成立させるのは無理があります。そのような時、授業では、躊躇せず母語や英語を使ってやりとりしています。

Google翻訳で日本語に翻訳することはできますが、相手がその翻訳を理解するとは限りません。また、Google翻訳は、文脈や待遇関係まで判断してくれませんから、内容が正確に伝わらないこともあります。かえって、誤解が生まれる可能性もあります。

また、専門的な内容を専門知識を持たない人に説明する場合、専門用語を日本語に翻訳して説明してもなかなか伝わりません。(たとえ、それが完璧な日本語であったとしても)これは、ITエンジニアの学生が、非エンジニアの私に何かを説明する場合、よく起こることです。このような場合、学生たちは、視覚的にデモを見せたり、図を書いて補足したり、具体例を出したりして説明してくれます。

このようなリアルな言語運用場面では、複言語能力や複文化能力が求められます。CEFRの目的に即して、教室実践を行うとすれば、日本語だけに限定して実践を行うことの方が不自然に感じます。また、皆が「文化」に対して同じ認識を持つように指導することも不可能です。(ただし、この場合の「文化」とは、その国に特有の文化というより、専門家と非専門家の知識量や認識の違いとか、それぞれが育ってきた環境や経験の違いなど、個々が持つ固有の経験すべてをさすと考えています)

そう考えると、言語教育が行われる教室は、いろんな言語や文化を持つ人が参加し、いろんな言語が飛び交い、さらには、それぞれが持つ固有の経験と照らし合わせながら、わしゃわしゃと議論が交わされる場であったほうが、断然おもしろく、より豊かな言語活動の場となるように思います。

で、このような「いろんな言語や文化を持つ人が参加し、いろんな言語が飛び交う」教室、場がCEFRが目的とする「複言語・複文化能力養成」の場なのではないかと今回の話を聞いて思いました。

行動中心アプローチ

行動中心アプローチ」(CEFRでは、「An action-oriented approach」とされています)を、大木氏はCEFRを引用しながら、以下のように説明していました。

「行動中心主義である。つまり言語の使用者と学習者をまず基本的に「社会に行動する者・社会的存在(social agents)」、つまり一定の与えられた条件、特定の環境、また特殊な行動領域の中で(言語行動とは限定されない)課題(tasks)を遂行・完成することを要求されている社会の成員と見なす」

大木氏は、特に、この「行動中心アプローチ」を考えるときに重要なのが、「社会的行為者(social agents)」という考え方だと強調していました。

この考え方も、今の実践と照らし合わせて考えてみます。例えば、ITエンジニアの日本語教育を考えたとき、エンジニアたちは、すでにプログラミングに関する知識や技術、また、課題解決のためにそれらをどのように活用するのかというアイデアなどを生み出す力を持ち合わせています。また、不足する知識や技術があれば、自ら調べたり、互いに補完しあったりすることもできます。つまり、学習者(エンジニア)はすでに社会的行為者として存在しているわけです。

今行っているプロジェクトベースの授業では、ある課題を解決するために、どのようにテクノロジーを使用するのかということを徹底的に考えていきます。同時に、このような活動を通して、社会的行為者としてどのように言語を使用するのかということも学んでいきます。「行動中心アプローチ」の一つの形と言えるのではないかと思います。

このような実践において、「課題(tasks)」を遂行するための行動は、「言語行動とは限定されない」(というより、限定できない)とも感じています。

これも、実際の授業で起こったことを例に考えてみます。

プロジェクトでは、取り組んでいるタスクが現在どのようの進捗状況にあるのかを正確に把握することは、プロジェクト進行上、非常に重要な「課題(tasks)」になります。そこで、仮に、「自分が担当するタスクの進捗状況を正確に報告することができる」というcan-doを設定したとします。

このとき、言語行動における重要な学習項目の一つに、テンスの使い分けがあります。
・これからします。
・今、しています。
・まだ、できていません。
・もうできました。

本当に基本的な文法項目ですが、これらが正確に使い分けることができないと、今、それぞれが抱えるタスクがどのような状況にあるのかが曖昧になってしまい、進捗状況を正確に把握することができなくなってしまいます。
もちろん、これらについては、その都度確認し、しっかりと指導します。

しかしです。これらの文法項目がきちんと理解できていたとしても、正確に進捗状況が報告できるとは限りません。

例えば、何らかの問題があって、予定通りに進んでいない場合、「まだできていません」と、文末まではっきり言わずに、ごまかしてしまうことがありました。「もうすぐ終わります」「あと少しです」が、数日続くこともありました。「だいたい終わりました。大丈夫です」なんていう報告もありました。

こうなってくると、テンスの問題だけではありません。

予定より遅れている場合、チームでそのフォローアップをしようとしたら、何が原因で遅れているのかについても報告することが必要となってきます。そのためには、原因が何かを分析し、的確に認識するということができていなかったら、報告はできません。
「もうすぐ終わります」といった場合、あとどのようなタスクが残っているのかを把握し、具体的に報告することが必要になるかもしれません。
「だいたい終わりました」といった場合、いつ100%完成するかという見込みを付け加えたほうが、精度の高い報告になります。

こうなると「言語行動」だけを指導すればいいという話ではなくなってきます。
スケジュールを可視化したらどうだろうか、もっとタスクを具体化したらどうだろうか、タスク管理ツールを使ってみたらどうだろうか、などのアプローチが必要になるかもしれません。
それ以前の問題として、できていないことを「できていない」とはっきり報告できるようなチームの信頼関係の構築を優先したほうがいい場合もあります。

こう考えると、「言語行動」だけを取り出して「自分が担当するタスクの進捗状況を正確に報告することができた」「できない」と評価することは非常に難しいことです。

「チームの信頼関係が構築されている状況で、タスクが具体的に明示されていれば」と、一定の条件を示した「can-do」を設定したとしても、それは、「課題(tasks)」に対して意味のある評価になるようには思えません。

つまり、「行動中心アプローチ」では、言語行動だけを取り出して、「できる」「できない」と評価するのは非常に難しいのではないかと思うのです。

媒介(mediation)能力とは?

もう一つのポイントとして、媒介(mediation)能力が挙げられていまました。

大木氏の説明では、媒介(仲介)する人の能力として、下記の2点が示されました。

・新たな知識を獲得するための仲介
・異なる言語や文化の追突を避け、人間関係を築くための仲介

この「媒介」という概念も、実践と照らし合わせて考えてみると、イメージしやすいと思いました。

例えば、先に例に挙げた「進捗状況の報告」の場面では、試行錯誤しつつ、なんとか自分一人で課題を遂行しようと頑張る学生よりも、「私、ここで困ってます。皆さん助けてください」と言ってしまった学生のほうが、最終的に良いプロダクトに仕上げていたりします。

中途半端であっても、まめにアウトプットをして広く意見を求め、自分のプロダクトをどんどんアップデートしていく学生がいるかと思えば、フィードバックを恐れ、なかなかアウトプットできないまま、独りよがりのプロダクトになってしまうケースもあります。

また、有益な情報にうまくアクセスし、自ら新しい知識を獲得していく学生がいます。特に、IT技術に関する情報は、英語がわかると圧倒的に有利です。

そして、これは、専門的な知識だけに限りません。言語学習においても、こちらが何も言わなくてもいろいろなツールを使いこなす学生がいます。SNSを使いこなして、授業外でも言語学習を進めている学生もいます。また、紙にプリントされた漢字が理解できなくても、スマホを駆使してさっと調べ、問題なく課題をこなす学生もいます。言語を学習したり、わからない部分を補うためのツールが、今では簡単に手に入るのです。

こう考えると、「媒介能力」という概念は、リアルな人間関係の構築だけを指すのでなく、テクノロジーを媒介とし、自分に必要なものといかに結びつけるかも大きな要素になってくると実感しています。


また、この「媒介」は、学習者だけに求められる能力ではありません。
パネルディスカッションでも少し話題に上っていましたが、外国人を受け入れる側にも求められる能力ではないかと思います。

これも実践をもとに考えると、教師である私自身、学生に積極的に質問を投げかけ、自分の認識と彼らの認識があっているかを、その都度確認していかなければ、プロジェクトの進行に支障をきたすことがあります。進捗状況の確認の例で説明すれば、本当のところ何がどのような状況になっているかを把握するためには、テンスばかりに注目していられない場合も多々ありました。

それだけでなく、私の問いかけや働きかけで、プロジェクトの状況が大きく変わることもあります。専門的な知識以外の部分で、私が持っている情報量と学生が持つ情報量は大きく違いますから、私自身も丁寧に説明していかなければなりませんでした。また、カリキュラムを設計するために、学校の外部の人との仲介役になることも求められました。この外部との仲介は、教師の役割として非常に重要なものだと考えています。

つまり、教室の一段高いところから学生を指導するという従来の教師の役割も、CEFRの理念のもとでは変わらなければならないと思っています。

CEFRを日本語教育に活用するためには?

以上の実践を踏まえて考えたことから、今回のパネルディスカッションのテーマである「日本語教育における活用を考えてみたいと思います。

今回、CEFRの理念と照らし合わせて、今の実践を振り返った時、私が考えたことのポイントは、以下の2点です。

・CEFRを活用するのであれば、日本語教育の実践のあり方や教師の役割も変わるのではないか
・「言語行動」だけを取り出して、課題が遂行できたかどうかを判断することができるのだろうか

今の実践では、複言語使用を常とし、自分の持っている言語能力、知識、スキルを駆使し、お互いに補完し合いながら、「使えるものはなんでも使う」という方針でプロジェクトを進めています。なぜなら、課題(tasks)を遂行することを最優先で考えているからです。

課題を遂行することを優先に考えると、個々がが持つ力を、それぞれの状況に合わせて駆使すればいいわけで、個々が扱える全ての言語や技能(読む、聞く、話す、書くのいわゆる4技能)が満遍なく熟達した状態でなくてもいいのではないかと実感するようになりました。


noteでも、過去に触れていますが、「外国人材の受け入れ・共生のための総合的対応策」の《施策番号53》には下記のように書かれています。

日本語の習得段階に応じて、求められる日本語教育の内容及び方法を明らかにし、外国人が適切な日本語教育を受けられ、評価できるようにするため、「言語のためのヨーロッパ共通参照枠(CEFR)」を参考にした日本語教育の標準や、 日本語能力の判定基準について検討・作成する。〔文部科学省〕《施策番号53》

CEFRを参考にした日本語教育の標準」というのが、教育の理念になるのか、それとも、学習項目になるのか、今のところはっきりしません。

日々実践を行っている私の実感から考えると、今後、CEFRを日本語教育の現場で活用するのであれば、「評価」や「判定基準」をどうするかよりも、まず、教育現場のあり方自体を変える必要があるのではないかと思います。そして、「評価」は、その実践の行き着く先(目標)であるべきだと思っています。

と、突然ですが…

2週間も書きかけで放置し、ようやくまとめかけて、noteにアップロードしようと思ったとき、新たな情報が入ってきました。

以前に、下記の記事でも書きましたが、
日本語教育機関の告示基準の一部改正の提案から、教師に突きつけられたものは?
で説明した一部改正の提案は、ほぼそのままの内容で、9月1日から施行されています。提案通りの内容が着々と進められています。

詳しくは、

で確認できます。(かなり詳細な報告が必要になりました)
やはり、CEFRのA2相当以上のレベルであることの報告も義務付けられました。

で、新たな情報とは、上記入管のwebサイトに、しれっと、

日本語能力に関しCEFRのA2相当以上のレベルであることを証明するための試験」が提示されているのです。(2019年9月20日現在)
注:リンク切れになっていたので、リンクを貼り直しました(2020,07.31)

適宜更新されるようですが、相変わらずのラインナップという感じです。
このCEFRの議論は、一体どうなってしまうんだ… と一瞬、放心状態になりました。(なんか、前にもこんなことがあったな…)


これは、誰がどのように決めているんだろう?
入管で在留資格がもらえなくては、そもそも教育を受けることができないんだけどなー

で、もうこれ以上書く気になれないので、「評価」については、また、別の機会に譲ります。

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!