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誰のために評価をするのか?を考えてみた

先日、下記の研究会に参加しました。

言語文化教育研究学会 特別企画
共生社会のための日本語教育【1月9日~2月27日】
2020年日本語教育学会秋季大会パネル発表①議論の続き ― 4回連続場外乱闘編

全4回の場外乱闘(笑)は、とても刺激的で、日本語教育に関わる者として、何を目指していくのかを改めて考えさせられる内容でした。

この中の4回目の企画は、下記でした。
第4回:共生社会のための日本語教育実践としての本質観取(稲垣みどりさん)

この回では、具体的な実践例が紹介され、その実践に基づいて議論が展開されました。とても興味深い議論だったのですが、私は、何かモヤモヤするものを感じ、そのモヤモヤをなかなか言語化できないまま、「聞き専」になってしまったのですが、ここで、この議論を通して考えたことをまとめておきたいと思います。

評価をめぐる議論

第4回で中心になった議論の一つに「評価」の問題がありました。これまでも、いろいろな実践例を聞く機会があったのですが、そのときに必ず出される質問が、

「評価はどうしていますか」
「どうやって評価していますか」

という質問です。(実際、私も受けたことがあります)今回の企画でも、この質問が出されました。なぜ、同じような質問が毎回出されるのだろう? 毎回、議題として上がり、やりとりが繰り返されているのに、議論が前に進んでいるような気がしないのです。これが、私のモヤモヤでした。

私も、「言語能力を測定するとはどういうことか」ということを、このnoteでも、繰り返し書いていて、私の関心ごとの一つでもあります。

先日のやりとりを聞きながら、そして、聞いた後、考えたことがたくさんありました。そこで、ここで「評価」について考えたことを一旦まとめてみたいと思います。


と、これを書きながら、「評価」の問題を複雑にしているのは、まず「学びとは何か」の前提の理解が、実践者によって異なっていることが問題ではないかということに気がつきました。そこで、「評価」について書く前に、まず、この点について整理しておこうと思います。

もし、ある一定の知識を教え、それを理解し、記憶するということが「学び」だと想定すると、評価の問題はそれほど、難しい問題ではありません。教えたことをどのくらい覚えているか、どのくらい理解できているかを測ればいいので、ペーパーの試験で測定することは可能です。それを数値化して、点数をつけることも、難しいことではありません。

しかし、評価が問題になるのは、このような「知識を記憶する・理解する」という形態でない授業を展開した場合です。

それは、理解した知識や自分の経験をどのように組み合わせて、どう自身の考えを更新していくのか、また、授業で行われる活動を通して、何を感じ、それをどう受け止め、どのように自身の経験として活かしていくのかということに、力点を置いた授業になるかと思います。

特に、言語学習の場合、ただ、語彙や文法をたくさん覚えればいいというものでもありません。「ことば」はその人の思考とも直結するので、それを評価するのは、非常に難しいことです。

今回の企画で紹介された「本質観取」という実践も、この活動を通して、学習者が何を感じ、「ことば」に対する意識がどう変化したのかというところが重要な実践だと理解しています。

このような実践で使用される日本語をどのように評価するのかというのは、非常に悩ましい問題だというのは理解できます。

そこで、以下の「評価」についての話は、「知識を記憶する・理解する」ということを目的とした授業でない場合の「評価」に限定して考えてみたいと思います。

誰のための「評価」なのか?

「評価」について考えるとき、私たちに抜けがちな「問い」が、「誰のための評価なのか」ではないかと思っています。

私は、「評価」には、2つの側面があると思っています。「誰のため」という視点から考えるとよりわかりやすくなるのではないかと思いました。それが、以下の2つです。

1. 学習者自身のための評価
2. 第三者に見せるための評価

今回は、この2つに分けて、考えてみたいと思います。

学習者自身のための評価とは?

前提の部分で説明した「学び」を考えたとき、何かを「学ぶ」というのは、学ぶ人自身の変化を意味するのではないかと思います。

これまで、Aだと思っていたことが、Bだということに気がつく。まあ、そこまでの変化はなくても、Aだと思っていたことが、もしかしたら違うかもしれないと思い、その根拠を調べたり、異なる意見を聞いたりする。様々な角度で検討した結果、やっぱりAだったとなるかもしれないし、実は、A’ (Aダッシュ)だったということもあるかもしれません。これは、Aから考えが更新されていることを意味しています。

私は、そういうところに「学び」があるのではないかと思っています。

このような「学び」を生み出すためには、「評価」が非常に重要だと思っています。しかし、この「評価」とは、レベルを判断するための評価ではなく、「アセスメント(assessment)」と言われる評価だと思います。

この「アセスメント」という考え方は、「介護」に関わる人と意見交換していく中で、より明確に意識するようになりました。「介護」では、その人らしい暮らしを支えるために、その人は、何ができて何ができないのか、どんな支援をすればその人らしく暮らせるのかを考えるために、日々「アセスメント」を行います。「アセスメント」は、介護にとって非常に重要な概念で、多様な専門家が多角的に行う必要があり、その観察結果は、チームで共有し、日々、更新されていくものだと、私は捉えています。

この考え方は、日本語教育(広く捉えると教育全般)にも、当てはまるのではないかと思います。

学習者は、「ことば」を使って何をしたいのか、その目標に対して、現在何ができていて、何が足りないのか、今後何がが必要なのか。それを判断するためには、アセスメントが必要です。学習者自身によるアセスメントも必要だと思いますが、自分だけではなかなか気づきにくいこともあるため、多様な視点が必要だと考えています。

日本語に関して言えば、やはり専門家である日本語教師の視点は重要だと思っています。そのために、教師は、気づきを促すようにカリキュラムを設計したり、学習環境を整えたりすることが必要です。また、教師によるアドバイスや支援も大きな助けになると思います。適切なアドバイスや支援のためには、教師によるアセスメントは必要不可欠だと考えています。

ここで、重要なのは、この「アセスメント」という評価は、あくまでも「学習者自身」の学びを促すための「評価」であるということです。

この意味で考えると、「評価できない」というのは、ある意味、教師の役割を放棄してしまっていると考えることもできるのではないかと思います。

第三者に見せるための評価とは?

この「アセスメント」に対する評価として、「第三者に見せるための評価」というのがあると思います。これは、社会全体で見たとき、今のあなたのレベルはここですよ、と人を価値づけるための評価と考えられると思います。英語で言うと「evaluation」になるでしょうか。

例えば、評価されている人自身のことを知らない第三者が、その人の日本語のレベルを知るために「日本語能力試験N2レベル」などの指標を利用した場合、この「N2レベル」というのは、「第三者のための評価」として機能しているのではないかと思います。

入国管理局が、在留資格認定のために日本語の試験結果を利用した場合、これはまさに、入国管理局の判断材料のための評価で、「見せるための評価」と言えるのではないかと思います。

このような、第三者のための評価が学習目的になると、第三者のために学習するという構図になってしまいます。試験勉強というのが、何か苦しい勉強になるのは、これが原因ではないかと思いました。大学受験のための勉強が苦しいのは、自分のためというより、第三者から高い評価を得るために勉強することになってしまうからではないか、と今更のように感じています。

制度として決められているから仕方がないだろうという考え方もあると思いますが、自分自身を社会制度に合わせていく、制度に合わせて自分を変えるというのは非常に苦しいことです。

しかし、最近、この第三者のための評価にも、いろいろな可能性があると思うようになりました。自分自身の「評価」を第三者がしやすくすればいい、と発想すると点数化された評価だけでなく、いろいろな方法が考えられます。現在は、自分を表現し、それを表出する手段が多様にああります。自分がどのように見られたいのかが明確になっていれば、見せ方を工夫することによって、意外といろいろな方法が考えられるのではないかと感じています。

ただし、評価方法が制度で決められている場合、個人で対応しようとするのはなかなか難しい。これには、組織的な取り組みが必要ではないかと思います。

大学の評価は誰のため?

「評価」をどうすればよいのか? この問題は、大学関係者から発せられることが多いと思います。考えているうちに、大学で行われる「評価」というのが、誰のための評価なのか、だんだんわからなくなってきました。

第三者のための評価だとしたら、誰のために評価するのか?
奨学金のため?
就職のため?

就職のためだとしたら、その人の見せ方は、いろいろあると思いますし、企業も、大学の成績だけで採用することはないだろうと思います。とすると、大学の成績は、見せるための評価でなくてもいいのではないかと思えてきます。

高校までは、少なからず、大学に評価されるために勉強するという現実があります。そして、

「大学に入ったら、そこで初めて自分のための勉強が始まるのだ」

などと、言われながら勉強をしている高校生も多いのではないかと思います。

ということは、学生自身のための評価と考えればいいのだろうか。こんなふうに考えていくと、大学では、どこを見て成績をつけているのかが、なんだか曖昧になっているように感じました。

もちろん「新しい知見を得る」というのも大学の大きな役割だと思うので、そういう意味で、教師が学生の理解度を測って、成績をつけるというのは意味があると思います。これは、その分野における専門家からみた学生に対するアセスメントになるのではないかと思いますし、数値化も可能ではないかと思います。

一方で、先に説明したような「学び」を数値化をするのは、やっぱり難しい問題だと思います。しかし、学生自身の「学び」のための評価という視点で考えると、何らかの方法はあるように思いました。

ただ、第三者のための評価に慣れてしまっている大学生にとって、「これは、自分のための評価なんだよ」ということを説明しても、その考え方に慣れるのは大変だなーとも思います。むしろ、大学では、まず、この考え方の更新をするべきなのではないかとも思ってきました。

(大学で成績をつけたことがないので、好き勝手なこと言ってます。)

日本語能力の評価は誰のため?

最後に、CEFRでの評価についても書いておこうと思います。(先の研究会では、CEFRのこともたびたび話題に上がりました)

この「誰のための評価なのか」という視点で考えると、CEFRの扱いについても、明確になってくるように思いました。

まず、「学習者自身のための評価」としてCEFRを考えた場合、CEFRは、自分が今、どのレベルにあるのかを自己評価するためのわかりやすい指標になると思っています。

実際に、日本語学校で、地域住民を招いてプレゼンを行ったあと、CEFRを使って、自分がどのレベルにあると思うかを自己評価してもらったことがあります。

例えば、CEFRの「聴衆の前での講演」のB1の能力記述文には、以下のように書かれています。

・自分の専門でよく知っている話題について、事前に用意された簡単なプレゼンテーションができる
・質問には対応できるが、そのスピードが速い場合は、もう一度繰り返すことを頼むこともある

吉島茂・大橋理枝ほか(訳・編)(2014)「外国語教育Ⅱ [追補版] -外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠」朝日出版社, (p.64)

このときのプレゼンでは、事前にスライドを含め、かなり入念に準備をしたので、一つ目の記述文は達成したと考えた学生が多かったのですが、聴衆からの質問については、ほとんど対応できなかったと認識していました。

そこで、自分はB1レベルに達していないと判断した学生が多く、また、B1レベルに達するためには、聴衆の質問が聞き取れ、やりとりができなければならないと自覚していました。また、具体的な先輩を思い浮かべ、○○さんくらい対応できたらB1だ、と話していた学生もいました。

これは、まさに、自分に何ができて、何が足りないのかをアセスメントしていたと言えると思います。そのために、CEFRの能力記述文がアセスメントのためのツールになっていたのではないかと思います。

しかし、今、日本語教育で行われようとしていることは、CEFRの評価基準を「第三者のための評価」に用いることです。しかも、それが制度として組み込まれようとしています。第三者からの高い評価をもらうために、言語を学ぶということが起こったら、「ことばを学ぶ」ことが、自分のためでなく、第三者のためのものになってしまうのではないかと懸念しています。

「ことば」を、自分自身のために学ぶのか、第三者(制度)のために学ぶのか、ちょっと、単純化しすぎたかもしれませんが、それでも、「評価」を考えるときに、必要な視点なのではないかと思いました。

やはり、私は、「ことば」を自分自身のために学んでほしいし、そういう環境をつくっていきたいと思っています。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!


共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!