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法治国家の起源を知る

 私たちの普段の生活では、身の回りにある物に対して疑いもなく受け入れ、かつそれが永続的な物だと錯覚してしまいがちなところがある。そして失われたときの絶望感や喪失感は計り知れないものがある。

 しかし、幸いにも人は”生み出す”ことができる。それは失ったものの代替物を創出することだけでなく、失ったことに対する思いを伝えることで新たな感情を生み出すことなど非常に多岐に渡すものだ。

 このような”生み出す”ことの価値を理解した時、改めて歴史を学ぶことの意義を知ることになると思う。

 なぜなら自身の体験以上のことを体感させてくれるものが歴史だからだ。歴史に価値があるのは事実を知っている、知らないの話ではない。生み出されたものが”どのような時間の中で生み出されたのか””なぜ人がそれを求めたのか”を体感することができる唯一のものだからではないだろうか。

 奇しくも難解な哲学書や外国の書物を読んだわけではなく、あるマンガを読んでことで改めてそのことに気づいた。

 秦の始皇帝の時代を舞台として連載されている「キングダム」である。もともとは学ぶつもりで手にとったわけでもなかった。ところが、その血生臭い時代の中でどれだけの犠牲を払いながら「法」というものができたのか。そもそも「法」が必要だったのはなぜか。「法」を効力のあるものにするためにどれだけの障害があったかなどなど、考えるほどにとてつもなく大きく無謀なものだったかがよく分かる。

 現代ではすでにあることが前提となっていて、これからもそれが揺らぐことはないのだろうとは思うが、誰のための「法」なのか、「法」は人をどうするために生み出されたものなのかは再考の価値があるように思う。

 政治の話は好きではないが、日本が今どこに向かおうとしているのか明確な指針が見えないと感じる人も多いはずだ。国民に主権があると言いながらも、やはり政治家の手腕は大切なように思う。田中角栄の歴史を学ぶとそれは明確だ。日本列島改造論が発表された数十年後に、誰が全く同じ交通網が完成されていると予測できただろうか。

 人が求めるものは何かを感じ取る力、細部は異なるそれらを上手くつなぎ合わせる力、そしてそれを策として具体化し推進する力。今最も必要なのだと思う。もちろん政治家に限った話ではない。その力は当然、民間でも必要なもののはず。

 複雑な社会に生きているからこそ、”明確な目的意識を持つこと”や”選択を精査していくこと”、”行動し続ける力と覚悟”が必要だ。


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