家猫になるか野良猫になるか

家猫はなぜか目が優しい。表情も豊かだ。対して野良猫は凛々しい。厳しい環境の中で生き抜いている力強さがある。野良猫が表情豊かでないかと言えばそのようなことではない。日向ぼっこやお昼寝している時は天使ような顔をする。仲間と戯れあってるときもワクワクした顔やうっとりした顔をする。しかし、そのような時間は家猫よりも短く、常に何かに警戒し周囲をよく観察する様子でいるのではないだろうか。

私は会社を休職して元の恵まれた職場に復帰するか、退職するか悩んでいる。私にとっては退職して転職をするか自分で何かして他の生活できる環境を見つけて生きていくことと職場に復帰すること、どちらも野良猫になることだと考えている。そして、自分で身を立てることを放棄して旦那さんの加護の元に生活する形を家猫になることだと捉えている。

私は野良猫の姿に興味がある。それは変化が好きだからだ。変化を求めてしまう。変化の方に流れていこうとする。野良猫の中でも、私は”ワタリドリ”に興味がある。猫から鳥になったが、その形は置いておいてここで注目したいのはその在り方だ。私は一つの場所で自分をその環境に合わせて身を変えていくよりも、何か他の環境、例えば餌を取りやすい、生活しやすい環境に自分が移っていく選択を取るのはどうだろうかと思っている。

鳥には2種類の鳥がいる。”ワタリドリ”か”その場に留まるトリ”である。ワタリドリはツバメのような姿を指し、その場に留まるトリはスズメのような姿を指す。

スズメはその場所で心地よい場所を見つける。餌をたくさん取れる場所、よく眠れる場所、外敵が襲ってこない場所などである。その土地のいいところをよく知っている。そのため、縄張り争いを起こりたりする。どこかいる場所を決める。自分のやりたいことをその環境の中で探して取り組んでいく。

ツバメはある目的を果たすと、次の場所へと移る。目的のために移る場合もある。餌を取ったため、他のところへと行く。冬を越すために移動する。移動するために、特化した性質を得る。飛ぶのが早い、身体を軽く身軽にする、飛ぶ時に羽ばたかなくしてエネルギーの消費を抑えるなどである。野生の中で生き抜くためのスズメにはない作法がある。

スズメがツバメになろうとしてもなれない。元々生まれた時からその能力は得ていない。私はどうなのだろうか。スズメなのだろうか。ツバメなのだろうか。私は性質としてはツバメだ。これまでは2回転職して自分が生き抜くための環境を変えてきた。そしてこの度、また会社を辞めて他の生きやすい世界にいこうとしている。自分を変えるよりも環境を変える方が合理的と思っている。何か目的がある。私の場合は変化を求めて、刺激を求めて、好奇心の元動いている。

スズメがツバメを見ると、なぜそのように移動するのかわからない。むしろ自分の周りにはスズメがたくさんいて、多くのスズメも同じように過ごしている。こちらの方が数が多いと思う。スズメだった人がツバメになろうとすると、周囲のスズメはそれを止める。そのように生きているスズメはいない。なれない、無駄だと解く。しかし、最初からツバメと認識していればそのようなことは言わない。ツバメはツバメなんだから、移動する在り方がありのままの姿だよね、となる。合点がいく。むしろと留まっているツバメを見ると心配になる。

人には家猫も野良猫もスズメもツバメの姿もあると思う。人それぞれ性質が違う。ただし人は群れて行動するので、どこかの集団では同じような思考をする。自分の集団から他の集団にいくことを誰もが応援する形が多いわけではない。

ここで問題なのがスズメの人がツバメになろうとすることだ。ツバメがスズメになろうとすることだ。しかし、人はそれぞれ置かれた環境が違うので、スズメの集団の中でツバメとして生まれることもあるし、ツバメの集団の中でスズメとして生まれることもある。その中で本人が何者かを理解するためには、自分の気持ちに気づく、世の中の仕組みを理解し比較するなど様々な方法がある。

どの在り方も大変素敵だ。メリットもあるしデメリットもある。おそらくツバメが誰かに飼われて家猫にように過ごすこともできる。ツバメがスズメのように過ごすこともできる。しかし、スズメはツバメのように過ごすのは難しいのではないだろうか。体の形として、運動できる量がツバメのようになっていない。しかし、休憩を多くすることでツバメのように渡っていくことはできるであろう。

私はどの形なのだろうか。ツバメであろうか、スズメであろうか。悩みつつも自分が興味があるのは、自然とそうなっている在り方は野良猫である。ワタリドリだという話である。

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