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あの人が55才だったころ◉今回のあの人は「黒澤明」

50にして天命を知る、なんていうけれど、60才が視野に入ってきた55才になっても迷うことばかり…。そんなとき、なにかヒントがほしくなる。そういえば、有名なあの人は55才のときにどうしていたのだろう? がんばっていたらけっこう焦るし、がんばり過ぎていたらすこし切なくなるし、がんばれていなかったらちょっと寂しくなるけれど…。それでもいい、覗いてみたい、あの人が55才だったころ。

ディープな黒澤ファンは人生最後の3作品を好むという噂。

黒澤明(くろさわ・あきら)
1910年<明治43年>―1998年<平成10年>9月/日本/映画監督・脚本家 1943年に映画『姿三四郎』で監督デビュー。以降『羅生門』、『七人の侍』、『乱』など数多くの作品で監督を務めた。米アカデミー賞やヴェネチア国際映画祭などにおいて多数の賞を受賞。

”映画界の巨匠”黒澤明が55才のときに公開された作品が「赤ひげ」です。この作品は、黒澤最後のモノクローム作であり、長年主演を務めてきた三船敏郎の最後の出演作で、黒澤にとって一つの区切りとなります。

その後日本の映画界に閉塞感を感じた黒澤は米ハリウッドに新天地を求めますが、初の海外監督作となるはずであった「トラ・トラ・トラ!」は方向性の違いからクビ同然で途中降板。再び日本に戻り60才で公開された「どですかでん」は、作品性は高かったものの興行不振に。そして翌年には自殺未遂…というように次回作まで、どん底の10年間を経験します。

65才のときにソ連で撮った初の海外監督作「デルスウ・ザーラ」が公開されます。この作品は米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞。70才のときに公開された「影武者」はハリウッドからも注目され、カンヌ映画祭パルムドールを受賞し、復活したかにみえました…。しかし、主演の勝新太郎の降板などにより国内の評価は分かれ、「完璧主義者・黒澤天皇」というイメージがこの頃からより強くなっていったように思います。

と、55才の読者にエールを贈るどころか、落ち込ませてしまう導入となりましたが(苦笑)、55才以降の事実だけを書くとこうなってしまいます。一方で、作品の特徴にフォーカスすると面白い黒澤像が見えてきます。

55才までの黒澤作品の特徴の一つに、黒澤も含めた複数の脚本家の起用があります。黒澤は、生前「脚本は映画の設計図だ」「いい脚本があれば、誰が監督をしても立派な映画が出来るが、出来の悪い脚本はどんな素晴らしい監督が撮っても凡作にしかならない」という言葉を遺すくらいに脚本に心血を注ぎましたが、55才以降の7作品中人生最後の3作品「夢」「八月の狂詩曲」「まぁだだよ」は黒澤のみが書いた脚本で勝負しています。監督デビュー作「姿三四郎」からの4作品も黒澤のみの脚本なので、永い映画人生の最初と最後が自身の脚本作ということになります。

では、ディープなファンはそんな作品のどこを好んだのでしょう? それは黒澤が本当に撮りたい映画を撮ったのではないかということです。複数の脚本家が起用されると、脚本はブラッシュアップされ黒澤の痕跡が消えてしまいます。一方で、「夢」は黒澤が見た夢をモチーフにしているので、特に黒澤の本音がよくわかります。まさに“裸の黒澤明”。これはあくまで少数のファンの声で一般的な見方ではないのですが、完璧主義から解放されて、“映画青年”として最後の3作品を撮ったと思うと、黒澤の映画人生はハッピーエンドだったのかもしれません。

最後に、
文中にも出てきた映画「夢」。
近ごろは便利なモノで、DVDでも観れるけれど、アマゾンプライムでも観れます。
黒澤明が本当に撮りたかったものは何か?
百聞は一見にしかず!ですよ。

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