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あの人が55才だったころ◉今回のあの人は「藤子不二雄」

50にして天命を知る、なんていうけれど、60才が視野に入ってきた55才になっても迷うことばかり…。そんなとき、なにかヒントがほしくなる。そういえば、有名なあの人は55才のときにどうしていたのだろう? がんばっていたらけっこう焦るし、がんばり過ぎていたらすこし切なくなるし、がんばれていなかったらちょっと寂しくなるけれど…。それでもいい、覗いてみたい、あの人が55才だったころ。

55才の藤子不二雄

藤子不二雄 藤子・F・不二雄(ふじこ・エフ・ふじお、本名:藤本弘、1933年〈昭和8年〉12月1日 - 1996年〈平成8年〉9月23日/日本/漫画家) 藤子不二雄Ⓐ(ふじこ・ふじお・エー、本名:安孫子素雄、1934年〈昭和9年〉3月10日 - 2022年〈令和4年〉4月7日/日本/漫画家)

いつ?どうして?好きになったのかは記憶にない。気がつけば「コロコロコミック」を毎月買うようになっていたし。
たくさんの人気作品の単行本も集めるようになっていました。
自分たちよりも少し上の世代の人が「手塚治虫」で漫画に夢中になった様に、子どもの頃、僕たちは漫画家「藤子不二雄」で漫画の虜になっていました。

「藤子不二雄」は富山県の国民学校時代からの親友であった藤本弘(F)と安孫子素雄(A)が漫画家活動時に使用した共同ペンネーム。
「ドラえもん」はもちろん「忍者ハットリくん」「パーマン」「オバQ」「キテレツ大百科」…好きな作品は上げればキリが無い。
発売日にはお小遣いを片手に本屋へ走ったコロコロコミック、年に1度の楽しみ「劇場版ドラえもん」、1冊320円で買えた「てんとう虫コミック(単行本)」
雑誌にドラえもんの似顔絵を投稿したり、お正月には「藤子スタジオ」に年賀状を出したりもしました!(翌年のお正月に年賀状が送られてくる!)

それほど夢中だっただけに、1987年にコンビを 解消するという知らせを聞いた時はとても驚き、戸惑いました。
「藤子不二雄」という名前が無くなるんじゃないかと心配もしましたが、結局は藤本先生が「藤子不二雄Ⓕ」(後に藤子・F・不二雄)安孫子先生が「藤子不二雄Ⓐ」にペンネネームを改名。
コンビ解消は残念でしたが、慣れ親しんだ「藤子不二雄」の名前が残ることに一安心したものです。

この「これからはそれぞれ別々で…」という時期が、お二人の年齢が55才になられる頃なのです。
それまでは公にせず合作とされてきた人気作品も、この発表時に作品毎の分担だったことも発表され
お互いにご自身の作品を持って独立されることに。

「これからはお互いのペースで、それぞれの作品をもっと自由に描いていきたい」
「藤子不二雄の共同ネームでは勝手出来なかったことにもチャレンジしていきたい」
「そろそろ漫画家として定年近くになったので、このへんで思いきって一人に…」

などが理由であると語られていました。
長い人生、それまでの道を振り返り、この先の道を今一度見つめ直した時
より良い人生になるように、少し軌道修正する時期が「55才」くらいなのかもしれませんね。

と綺麗に締めたいところですが、コンビ解消の理由はもう少し深くて
1986年に藤本先生が胃癌(本人には告知されず)や肝臓病を患い、健康面の不安が出てきた時に
コンビ解消を切り出されたということです。

二人でひとりの漫画家として活躍、各作品の著作権料も関与の割合に関係なく折半でおこなってきたが
将来、どちらかの死後、著作権料等を巡って互いの親族が揉めたりするのを防ぐため
著作権を明確に分離しておいた方がよいと考えてのことだったそうです。

少年時代から友情、絆で走り続けてきたお二人も、気がつけば、お互いもっと大きなものを背負っていたんですね。

最後に、
あえてお二人の作品から一つ選ぶとしたら、このシリーズ。
偉大なお二人もこんなところからはじまったんだな…と感慨深くなります。
また、いい60代・70代を迎えたい55才の私たちにとっては、読み返すことで、初心にもどり、またがんばろうと思えるいい機会になるかもしれません。


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