【ブックレビュー】伴走者②

違うのかもしれない。
慮るだけではダメなのかもしれない。

前回、浅生鴨さんの「伴走者」について書いたブックレビューについてだ。

実は前回のブックレビューは、「夏・マラソン編」を読み終えた直後に書いた。そして、この文章は、「冬・スキー編」を読みながら書いている。


私たちは、無意識にコミュニティを選ぶ際、自分自身がマジョリティになれるコミュニティを選ぶことが多いのではないだろうか。

お金持ちはお金持ちと、同じ大学出身者同士と、子供がいる家族同士と、同じ性的嗜好を持ち合わせる人と、そして、健常者は健常者と…。

それはすごく自然なことなのだと思う。だって、マイノリティに所属するということは、とても怖いことだから。危害を加えられるのではないか、排除されるのではないかという怖さがそこには付きまとう。だから、マイノリティを選択するというのは、とても勇気のいることなのだと思う。

その結果、私たちは他のコミュニティのことを知る機会すら失われてしまうのではないだろうか。健常者が障害者を本気で「慮ろう」とするのであれば、それらのコミュニティがどういうものかを知るという、「それ相応の努力」が必要なのではないか。

先日、お笑いのピン芸人コンクールである「R-1ぐらんぷり」にて、ほぼ全盲の濱田祐太郎さんが優勝された。彼は生まれつき左目が見えず、右目は少しだけ、輪郭や色などが分かった程度だそうだ。

そうすると、顔や色というものなど、見えていた頃に認識したもの以外の「概念」がほとんどない、というようなことを、今日テレビ番組で語っていた。それは、私が想像する「目が見えない」という範囲をゆうに越えていた。

「目が見えない」ということは、単に「暗闇の中にいる」ということではない。「これまで生きてきた中で視覚から得られた情報」が全て失われているということなのだ。「目が見えていたからこそできていた経験」を失っているということだ。生まれながらに「見えない」人にとっては、もしかしたら「見る」という概念すら、本当の意味ではよく分かっていないのかもしれない。

私たちが想像するものを彼らは想像できない。しかし、逆に私たちが想像し得ないものが彼らには「見えている」可能性もあるということだ。そういう「どうやっても理解し得ないものがあるということを知る」ことこそ、「理解する」ということなのかもしれない。


そもそも、健常者と障害者という2つに区分すること自体、どうなんだろうか。障害だって、いろいろな形の障害がある。目の見えない人、耳が聞こえない人、声が出せない人、足が悪い人、心臓が悪い人。

それなのに、私たちはそれらを「障害者」と一括りにしてしまいがちだ。だから、目が見えないだけの人でも、わざわざ隣の人に対して、「彼は目が見えないのですか」などと間抜けな質問をしてしまうのだ。

そして、障害者だからと言って、みんながみんな、可哀想なわけではない。憎たらしくて、小賢しくて、あざとい障害者だっている。そのことにすら私たちはなかなか気付けずにいるのだ。「障害がある人」=「可哀想な人」と短絡的に繋げがちだ。

マジョリティにだけ所属をして安心を得て、ほかのコミュニティを知ろうとしない。そのことが、障害者に関する知識が増えていかない原因なのではないか。

私は、この本を読んで、初めて、「障害者手帳の交付基準」について調べた。


私たちはいつだって、あまりにも「無知」だ。

知ろうとすれば知ろうとするほど、知らないことが出てくる。それは無尽蔵に。底なし沼のように。

だから、私たちは知ろうとすることを止めてはいけない。そんなことを思っています。

#ブックレビュー #浅生鴨 #伴走者

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