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「自分」はどこに在るのか。

ときどき思うのが「自分」というのはどこにあるのか、ということ。

最近、「自分の身体というのは借り物であって、『自分』というのはその身体を借りてさまざまなことを体験させてもらっている『何か』なのではないか」と感じることがよくある。

例えば、何かを見るとき。当然そのときは「自分の目」で見ているんだけど、「自分の目」というファインダーを通して見ているのはその裏にいる「何か」でそれこそが「自分」であって、「自分の目」というのは、文字通り「自分」という存在が所有している一つのものに過ぎない、という感覚。

皮膚なんかも同じで、「皮膚」自体が「自分」ではなくて、「皮膚」というのは「自分が現在所有させてもらっている一つのもの」ということ。

そういう風に考えると、「自分」という存在に一番近い「もの」は、やっぱり全ての感覚を司る「脳」ということになるのだろうか。実際、「脳死」という概念があるのは、そこに「自分」というものが存在していると考えられているからではないかと思う。

でも、だったら、脳だけ他の身体に移植することができたら、自分というものを保ちながら、生きることができるのではないだろうか。不老不死の人間を作り出すことができるということになるのではないだろうか。そんなことも考える。でも、きっとそうはなってない。知らんけど。


昨日テレビで言っていたのだけれど、自分の身体を構成する原子というのは、死んで身体を燃やされた後もなくならないらしい。それらは目に見えない単位に分解されているだけで、実際にはちゃんと存在しているということ。

そして、その原子は空気や水などとして植物や動物に吸収され、それらの一部として構成される。そして、またそれを食べた誰かの身体の一部としても存在し得るということ。

そういう意味では、私たちはもう既に不老不死であると言える。そして、私はあなたの一部だし、あなたの一部は私だとも言える。きっと自分が生きている間においてだって、その関係性は成り立つ。自分が吐き出した空気を自分以外の誰かが吸っているのだろうから。

自分を構成するものたちを「自分」と定義してしまうと、このようにして、どこまでが自分でどこからが自分ではないのかが分からなくなる。きっと「自分」なんて言うものはどこにもないとも言えるし、自分の身体やあなたの身体、この世に存在する森羅万象を含めた宇宙全体だとも言えるのだろう。


もしも自分というものが身体を構成する以外の何かだったとして、自分の身体は自分が所有するものであると考えるのであれば、その身体をもらったことは本当に運命のいたずらでしかないから、もし、それが気に入らないのだとしたら、整形をしたりするのも悪くないのかもしれない。

きっと、LGBT や LGBTQIA(+)と言われている人たちは、この感覚が非常に強いんじゃないかなと思う。

逆に、借り物というのであれば、その借りているものを大切に扱ってあげることが大事だ、という考え方もできるだろう。胃が痛くなったり、肌が荒れたりするのは、借り物である身体が悲鳴を上げているのだから、その声にはちゃんと耳を傾けた方がいいのかもしれない。

湯船にしっかり浸かって汗を流し、体を少し優しく洗ってあげる。化粧水を染み込ませて労ってあげる。暴飲暴食をせずに、体が求めるものを吸収させてあげる。そうやって、借り物の身体を大事にしてあげる。

他人を構成するものもいずれは自分の身体として巡ってくる可能性があるのだとしたら、他人に優しくしておくことも、自分を大切にすることに繋がるのかもしれない。


結局、「自分」という概念がどこに在るのかはやっぱりよく分からない。

#小説 #エッセイ #ポエム #のようなもの

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