「オタク化」は現代を生き抜くためのサバイバルスキルだと思う

栄養補給、完了です!

「……っっはああああ……」
溜息の理由は落ち込みからではない。
スマホの画面に向かって呟いた言葉が「……てぇてぇ」なのだから。
読んでいたのはwebで連載されている女の子同士のカップルが描かれた漫画だ。
別れてしまった主人公とその元カノが偶然再会し、主人公の家で2人で食事を作って食べるシーン。
最初はお互い気まずそうにしているが、料理の間にだんだん砕けた雰囲気になる。
そんな中で出た主人公の言葉に元カノが救われ、久しぶりに心からの笑顔を見せる―。
このときの元カノ、どんな思いで主人公に笑いかけたんだろう? 
ちょっと困ったような、そこはかとなく必死さも垣間見える何とも言えない笑顔。
どうやったらこんなエモい顔描けるんだ……!? 
読者達からのコメントが集まる掲示板も大盛り上がりだ。
「このまま幸せな2人を見ていたいから、いっそのこともう2人には友達同士でいてほしい」
「この雰囲気は……また元サヤに収まるんじゃないか? それも全然ウェルカムです」
繰り広げられる予想にうんうん頷く。
ああ、続きが気になりすぎる!! 
さて、心の栄養補給も完了できたし、これでまた1週間生き抜ける。
オタクでほんとに良かったなあ。

オタクの素質

物心ついたときから、ジャンルを問わず本が大好きだった。
親から聞いた話では本を与えればとにかく読みふける子だったという。
小さい頃の愛読書はセンダックの「かいじゅうたちのいるところ」。
「かいじゅうさん達に会いたい」が口癖で、絵本の中の不思議な世界に憧れる夢見がちな子供時代を送っていた。
「自分が本の世界に入ったらこうするのに」
「あの登場人物と話してみたい」
長じてからもそんな妄想をすることも決して少なくはなかった。
思えばオタクの素養は十分にあったのだと思う。

転機は中学時代、少年漫画を読み始めたのがきっかけだった。
友達が貸してくれた『るろうに剣心』を発端に、ジャンプやサンデーに掲載されている作品にのめり込んだ。
親が漫画禁止令を施行しなかったのを良いことに、気に入った作品は本屋でコツコツ買い集めた。
中でも藤崎竜先生の『封神演義』は、キャラへの「推し」という感情を芽生えさせてくれたという意味で、私にとって特別な作品だ。
推しキャラは聞仲。
かつて共に将軍として戦った仲間である朱子との約束を果たすため、仙術を修めて王の教育係兼太師として殷を守ってきた。
そのストイックな生き様、黄飛虎との熱い友情という少年漫画の王道を進む人物にハートを撃ち抜かれてしまった。
聞仲好きならコミックス第17巻「仙界大戦編」での黄飛虎とのやり取りと彼の死は涙なくしては読めないだろう。

その内本編だけに飽き足らず、二次創作物にまで手を出すようになった。
いわゆる「同人誌」と呼ばれるものだ。
友人達の中には自分の好きな作品のキャラや自分のオリジナルキャラをグッズ化している子もいた。
かくいう私もグッズ販売には至っていないものの、手描きのイラストを友達と交換したりしていた。
このときの私は間違いなくオタクだった。
休み時間は漫画や本の話をするか、小説を書くかのどちらかに費やす。
好きなものを自分の手で表現することが何より楽しかったし、それを見て友達が喜んでくれるのもとても嬉しかった。
ラッキーだったのは、受け入れてくれる友達が周囲にたくさんいたことだ。
彼ら彼女らも自分のお気に入りの作品やキャラがいて、いくらでもその魅力を語ることができた。
お互いの推しを否定することなく受け入れ、気になる作品があれば漫画や本を貸し借りする。
学生時代はずっとそんなやり取りばかりをしていた。

オタクへの複雑な思い

ただ教室の隅っこで細々と活動している私達は、間違いなく「陰キャ」にカテゴライズされていたと思う。
自分達がクラスカーストのてっぺんにいるような生徒から「あのオタク共」と呼ばれているのも、直接耳にしたこともあった。
今でこそ良い意味で軽く使われている「オタク」という単語だが、当時は今ほど受け入れられておらず、どちらかというとネガティブなイメージを持たれていた。
だから私は自分が「オタク」と呼ばれていることを知ると恥ずかしい気持ちの方が勝っていた。
「私ってオタクなのか…」と落ち込んでさえいた。
ひどい話だが、「私は同人活動までやっていないし、オタクじゃない!」と一生懸命頑張っている友人をダシにして言い返したくなってもいた。
それと同時に「好きなことを話しているだけなのに、なぜこんな嫌な目に遭わなければならないんだろう?」と悔しい思いも抱いていた。
オタクって、そんなに馬鹿にされなければならないような存在なの? 

「オタク」を再定義することで変われた 

でも今は違う。
あの頃の私や友達みんなに言ってあげたい。
「『オタク』になってくれてありがとう」
「私を『オタク』にしてくれてありがとう」と。
「オタク」は自分がときめくものを見つけるのがうまい人達のことだと再定義したい。
一般的にはオタクというと、1つのことに夢中になる人のことを意味すると思われがちだ。
でも大人になって分かった。
世の中にはたくさん楽しいことがある。
夢中になるものは1つに決めなきゃいけない理由なんてないはずだ。
漫画だろうとアニメだろうとアイドルだろうとスポーツだろうと、何かに夢中になれるのは素敵なことだ。
自分のことを「オタク」と呼べる人は、それだけ好きなものが周囲にあるということだ。
自分が夢中になって打ち込めるもの、自分をときめかせてくれるものが、たくさん生活の中にあるということだ。
それらはその人を支え、日々のストレスに打ち勝つ力を与えてくれるのではないか? 
ジェーン・スーも著作のエッセイ『ひとまず上出来』の中で言っている。

きつい経験をした私の命を明日につなげてくれたのはエンターテイメントだった。(中略)推しが後ろ盾となり新しいものの見方を覚え、私はとても豊かになった。

ジェーン・スー『ひとまず上出来』212、218ページ

ときめかせるものがあると、人は強く、豊かになれるのだ。
だから「オタク」達は選り好みを好まない。
「オタク」は出会ったものから新たな世界が広がり、もっと自分がときめくものに出会えるかもしれないことを知っているから。
それは友達から勧められたものだったり、軽い気持ちで手を出しただけのものかもしれない。
出会い方はこの際どうだっていい。
大事なのは自分が夢中になれるかどうかだ。
そうやって新しく夢中になれるものをどんどん増やしていくのだ。
そして新しく夢中になれるものが見つかれば、それは明日への活力になる。
「来週の漫画の続きをすっきりと読みたいから、仕事頑張ろう」
「3か月後の好きな歌手のライブのために生きよう」
「ボーナスは推し活に投資しよう!」
そんな生活の支えがあって、「オタク」達は日々生きているのだ。
かくいう自分も今一番お気に入りの作品「ゴールデンカムイ」が先日最終回を迎え、生活の潤いを失ったばかりだ。
しかし1週間に1回更新される他の漫画作品やお気に入りのアーティストの配信ライブが楽しみで今を生きている。
「オタク」だからこそときめきを発見し、仕事で嫌なことがあって落ち込こんでも何とか会社に行ける。
オタク魂を発揮して発見したときめきのおかげで、日々を生き抜いていけるのだ。
若い頃にせっせとオタク気質を磨いた自分と、その土壌を築いてくれた友人達に深く感謝したい。

終わりに 

ときめき探しが上手な「オタク」になること。
これが日々元気に暮らす秘訣ではなかろうか? 
オタクは決してネガティブな存在なんかじゃない。
むしろストレスフルな現代社会を生きる大人には、「オタク」化が必須スキルなのだ。
だから自分が少しでも好きなものがあったら、今日からそのオタクを名乗ってみよう。
もしかしたら明日がくるのが楽しみになってくるかもしれない。

今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました!

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