霖雨に潤う葉の隙間から

 大学から出て少し南に行った所から折れる路地の突き当たりに、古びた喫茶店がひっそりと佇んでいる。錆びて詰まった雨どいからは雨水が漏れ続け、軒の下はさながら滝のようになっている。スタンド付きの黒板には、ただ「OPUN」とだけ書かれている。オプン? 窓はくすんで中は見えず、かろうじてぼんやりと橙色の灯りが点いているのがわかる程度だ。傘立てのつもりだろう、膝ほどの高さの壺が置いてあるが、水が溜まっていて死んだ蛾が浮いていた。傘を畳むと、私はそれを窓枠に引っ掛けた。スカートに跳ねた水滴を払い、それから右手の扉を引いた。
 チリン、どこからともなく、やる気のないベルの音がした。床は白んでいて、これは埃だろうか? 歩くと靴跡がくっきりと残る。いったいどれだけの間人が出入りしていないのか。店内は入り口に比べればまだ広さを感じることができ、右手にカウンター、左手は壁、一番奥の窓ぎわにテーブル席があった。奥の窓は光を通しているようで、流れる暗雲が見えている。奥に進む。床はタイル張りに見えるのに、歩くとギシギシと音を立てた。窓際に一つだけあるテーブルに鞄を置く。不思議とテーブルには埃がついていない。窓を覗き込む。窓の外にはカズラの葉が伸びていて、雑草の生い茂った地面が一フィートほどあり、その向こう側、はるか下方に住宅街が広がっている。この辺りの地区は八十年ほど前に山を切り崩して宅地開発された人工の高台で、この喫茶店は一番崖っぷちに建っているというわけだ。東の空は流れる雨雲で覆い尽くされている。

「いらっしゃい」

 心臓が飛び出るかと思った。少なくとも肩は跳ね上がった。振り返ると、白髪の老人がカウンターに両手をついて立っていた。着古した様子のベストは皺だらけのシャツに馴染んでいて、口元の頼りなく伸びた髭を裏付けている。老人の表情はなんとも言い難かった。

「あの、営業……してます?」

 自分でも驚くほどおどおどとした声が出てしまった。老人は少し視線を寝かせたあと、肩をすぼめる仕草をした。

「五分ほどくれれば、営業するよ」

「あ、じゃあ、待ってます」

 老人は口角を上げると、奥に引っ込んだ。何年ぶりの営業なんだろうか。私一人のために? なんだか悪い気がした。布張りの椅子に座る。古いが、これも埃は積もっていない。湿った鞄からノートパソコンを取り出す。タスク管理ソフトのウィンドウを見て、ため息をつく。椅子にもたれて天井を見上げる。焦げ茶色の太い梁が壁紙を突き抜けて生えている。入り口までの間に裸電球が3つ吊り下がっていた。ノートパソコンに視線を戻す。明後日発表の資料が全然できていない。いや、資料は集まっているけども、論の組み立てが全然ダメだった。教授が用意した課題なのに、資料を集めれば集めるほど整合性がとれなくなっていく。なんなんだ本当。もう投げ出したかった。

「君、大学生だよね?」

 老人の、低い、少しかすれた声がした。彼はコーヒーカップを載せた皿を持っていた。この古び過ぎた喫茶店には似つかわしくない、綺麗な白いコーヒーカップとソーサーだ。

「どこでこの店を知ったの?」

「あの、母が、話してて」

「ああ、この辺りの人なんだ」

 老人はテーブルに皿を置いた。

「機材は奥に引っ込めちゃってるから、悪いけど」

「いえ、ありがとうございます。すいません、わざわざ」

「いや、営業中だからね」

 黒々としたコーヒーの表面からは薄く湯気が上っている。反対側で疲れた顔をした私が覗き込んでいた。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 そっと啜る。しっかりと苦い。熱さが口の中に広がって、香ばしい良い匂いがした。

「どうしてここに?」

「え、え?」

「店に人が来るのは珍しいんだ」

「あの、母が昔嫌なことがあったらここに来てたって」

「君にも嫌なことが?」

「えっと、はい」

「一人で解決できる?」

「いや、それは、分かんないです」

 老人がしつこく質問してくることに驚いていた。ノートパソコンを開いているんだから、私が作業したがっていることを感じ取ってくれても良いのではないか。老人はカウンターの椅子に腰掛けて、こっちを向いて、どこか遠くを見るような顔をしている。パソコンに向かわせる気はさらさらなさそうだった。

「あの、大学の研究課題なんですけど、回転する質量体による三次元時空歪曲を利用した空間移動について、なんですけど」

 老人は声を上げて笑った。肺から空気が漏れているような笑い方だった。

「な、何が面白いんですか」

「いや、ごめん、昔はもっと簡単な悩みだったから。僕は今、君がなんて言ったのかも分かんなかったよ」

「そうですか」

「君のお母さんの悩みは、『好きな男の好きな髪型が分からん』とかだった」

「え、母のこと知ってるんですか」

「愚痴しか話さない子がいて、それで思い出した。よく似てるよ、君」

「へぇ〜。母は昨日もそんな感じでしたよ」

「君、明日も来れるかい? 今日は船団が帰ってくる日だろう、ここにも一隻帰ってくるはずだ」

 老人は天井を指差した。

「研究者の友達が乗ってるんだ。僕にとっては15年ぶり、彼女にとっては1ヶ月ぶりくらいだろう」

 突如轟音が響いた。窓ガラスがバリバリと震える。突然のことにギョッと外を見上げた。
 雲の上の方で何かが光っている。強烈な太陽のような、それは徐々に大きくなって、雨雲を割る。水蒸気をもうもうとたなびかせて、巨大な船体が雲の向こうからせり出してくる。遠近感を狂わせるほどの長大な宇宙船は、眼下の住宅街の向こうにある宇宙港に、その身体をそっと横たえた。着陸したあとも、船体の各所から白い煙を吹き出す様は、まるで生きた龍が呼吸しているようだった。

「結局、掃除は終わらなかった」

 老人はテーブルに身を乗り出し、目を細めて、窓の向こう、降り続ける雨に濡れたカズラの葉の向こう、未だ煙を吐く宇宙船を見通そうとしていた。

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