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暗黒大陸メキシコ

 朱塗りの手すりに囲まれた舞台の上で、4人の女が踊っている。4人ともお揃いの赤い着物に黒いおかっぱ頭。前髪をパツンと揃えた髪型をしていて、それが右に左に首を振り身体を揺らすのに合わせて、ふりふりと膨らんでは靡いている。着物の裾から覗く白い素肌が鬱蒼とした鎮守の杜に差す木漏れ日を浴びてまぶしく光る。四隅のかがり火に照らされて、時折火照った頬を伝う汗が光る。音も歌もなく、踊り続ける4人の女。
 太い眉、紅を差した唇、切れ長の目。4人の女は似通った顔たちをしていた。着物に包まれた体つきも細すぎず太ってもなく、ただ白い足がすべらかに伸びていて美しい。

 寿町の安ホテルで目を覚ますと、建物のすぐ裏を轟音と共に走ってゆく京浜東北線を改めてうるさく感じる。四六時中聞いていたせいで慣れっこになっていたのだろう。そうして轟音の過ぎ去った僅かな静寂のあいだに思い出すのは、中華街の赤い提灯と空間いっぱいに広がる建物、人、看板、文字、匂い、そしてわずかな空。この景色、どこかで見た気がする。いつか見た夢、それも思い切りハッキリしていて忘れられない長い夢。何か国語も飛び交っている無数の人いきれにまかれて歩いていると、その夢の記憶がぼんやり重なって、甘栗を売る声や食べ放題レストランの呼び込み、店先の中華歌謡も半径2メートル以内の話し声も全部混じって夜空に溶けてゆく。耳の奥に水が入ったようなくぐもって歪みがかかった音。元町プールの水より冷たい汗が首筋を伝ってゆく。蒸し暑い空気が体と心にまとわりついて、杏仁豆腐のソフトクリームみたいに甘く溶けてべたついている。そんな夕暮れ時の喧騒にさっきまで見ていた夢の光景が重なり混じり合う。

 古い平屋造りの公民館。虫の鳴く声。夜21時を回った瞬間。私は突入に備えて建物の引き戸の前で身構えていた。後ろに控える7人の男たちも固唾を飲んでその時を待っている。私の目の前に居たもうひとりの男がその手を右へ動かし、カラカラカラと軽い音を立ててごくありふれた引き戸がサッシのうえを走った。一斉に靴を鳴らして土間を抜ける。すると板張りの廊下がぐるりと囲む中に二十畳ほどの和室があって、不気味な絵柄の襖で区切られている。2人がそれぞれ左右に走り、残った私たちは正面の襖をサーッと両側に開け放って、大の男がその場に固まった。そこには白いシャツと紺色の吊りズボンを身に着けた子供が畳の上にびっしりと整列し、体育座りをしてこちらをじっと見ていた。およそ子供らしくもない、鉄壁の無表情で。女の子も居る。女の子は白いシャツに紺色のスカートだ。靴下は男女とも白。ふくらはぎまでの、いい子ちゃんが身に着ける格好そのままだが、みな一様に青白い顔をしてこっちを見つめている。面食らう我々を尻目に探索を開始していた何人かが、ついにその入り口を探し当てた。
「こっちだ!」
「あった! あったぞ!!」
 その声に我を取り戻して走り出した先は、汲み取り式の便所だった。染みの浮いた濃灰色のコンクリートの壁に囲まれた小部屋の中で、豆電球の赤茶けた明かりの下でぽっかりを口を開けた暗黒。鼻を突く悪臭を吸い込み、一瞬の躊躇のち、いの一番に便器の穴へと飛び込んだのは私だった。狭く見えた穴を楽々すり抜け、浄化槽に落っこちて
 どぼん!
 と重たげなしぶきを上げた。中には全く明かりもなく何も見えないが、自分が今どんな空間に居るのかは想像したくもない。他の仲間もどぼん! どぼん! と次々に飛び込んでくる。中には入り口が繋がらずに何処かへ消えてしまった者も居るようだ。だが問題はこれからだ。もう誰が誰だかもわからない、ここまで来たら引き返すことも出来ない。外に繋がっていない大きな飾り窓があって、そこから白く強い光が差し込んで全員が影絵のように見えた。暗黒の水面に立ったまま浮かんでいる無数の人影。もう入り口に戻る事も、この窓から外に出ることも叶わない。
 潜るしかない。
 息を吸い込んで目を閉じて、一気に潜った。体の回りで次々に水流が起こっているのがわかる。がむしゃらに手を伸ばした先に金網のようなものが引っかかった。
 あった! これだ!! 私は指先に力を込めてぐいと引き上げた。金網が外れる手ごたえがして、そこに体を滑り込ませる。そしてさらなる四角い暗黒へと身を投じた。

 ハッ! と気が付くと、小じゃれた白く綺麗なバスタブに全裸で浸かっていた。まるで入浴中につい眠ってしまったようなものだが事態はそう穏やかではない。このバスタブが置かれているのは全く知らない家の、陽当たりが良く緑豊かに草花の躍る中庭が大きな窓越しに一望出来る明るい廊下の壁際だった。普通の家ならばあり得ないような場所にバスタブがある。どこから湯を汲んでいるのかもわからない。ここが一体誰の家なのか、なぜ私は裸なのかもわからない。
 ただ一つだけわかっているのは、恐らくここが私たちの目的地であるということ。それは地獄。私たちはその入り口を求めて方々を探し回り、そしてあの悪臭漂う暗黒の扉を潜り抜けてきたのだ。
 バタバタと廊下を走ってきた小さな男の子と目が合った。5歳くらいだろうか。紺色の短パンに白い幼児用のカッターシャツをキチンとしまっている。ボッチャン刈りで頬の赤い健康そのものといった少年が呆然としたまま立ち尽くしている。そりゃあ、そうだ。ある日突然、何の前触れもなく家の中に見知らぬ男が素っ裸で風呂に入って居たら誰だって驚くだろう。その後ろから、少年の家族らしき人々が次々にやって来て驚いた顔を見せた。
 40歳くらいの夫婦、人のよさそうな淡い青のチェックのシャツをスラックスにインした中肉中背の男性と、彼に寄り添うパーマをかけた色白の女性。そしてその足元に隠れるようにして立つ3歳くらいの女の子。姿かたち、衣服は私たちの世界とほぼ同じだ。私は急いで立ち上がろうとして躊躇した。危ないところだった。逆にバスタブからなるべく体を出さないようにしつつ、心から彼らに話しかけた。
「私は、ここではなく、どこか、他の世界から、やってきました。皆さんに、危害を加えたりは、決してしません。本当です、信じてください!」
 果たして言葉が通じるのかもわからなかったが、とにかくここでヘタを打つわけにはいかない。妻と女児は怯えていたが、男児のほうはニコニコと笑いながら私に手を差し伸べた。それを見た夫は表情を少し和らげて頷いた。私は身振り手振りを交えて(いま立ち上がるわけにはいかないんだ)と伝えた。それをみた妻と女児も笑った。どうやら命拾いをしたようだ。

 ここでの生活は快適だった。暑くもなく寒くもない、また強い風や冷たい雨もない。ただ平穏な空と静かな暮らしが続いた。時折どこか遠くで地鳴りのような音がする以外は、何不自由なく過ごしていた。家族は親切で、男児は私にずいぶん懐いてくれている。居心地の良い日々が続いた。
 ある日のこと。主人が私に
「お祭りに行こう」
 と言ったらしい。私は男児と手をつなぎ、一路近所の神社らしき建物を目指していた。空は晴れても曇ってもなかった。風のない街にくねくね伸びた舗装路を歩く。右かと思えば左、左かと思えばいつの間にか一周回ってさっき通った道の反対側を右に出てくる。そんな支離滅裂な道路が続いていたが、やがて道幅が狭くなり、地面には石が敷き詰められ、道路の両端には赤い幟が立ち並び、通行人も増えてきた。幟に書かれた文字は漢字でも、知識にある文字のどれでもなかった。やがて境内に入るとワヤワヤとさざめく人いきれの中でいつの間にか家族とはぐれてしまった。ひとり残った男児の手を強く握ってさらに歩く。両側に露店が並ぶ狭い道を抜け、境内に続く短い階段を昇って神社に着いた。やれやれ、と鳥居をくぐってふと思う。いつまで私はここに居ても良いのだろうか……そろそろ戻らなくてはならないのか? それとも。
 そもそも、なぜ私は今ココに居るのだろう。そう、ここは地獄。私の生きる世界とは本来異なる位相の世界。このまま生きていられるのだろうか。
 そう思った瞬間から周りの景色は変わり始めていたのだ。露店にも境内にも人の姿がなくなった。良くも悪くも無表情だった空に暗い雲が押し寄せて冷たい風が吹き始めた。寒いな、と思って見つめた手のひらが空っぽになっている。あの子はどこへ……境内を見渡すと、そこは真っ赤な風車が架台に据え付けられてカラカラカラカラと音を立てて回っているだけだった。ただひたすらに真っ赤な風車が無数に並ぶ通路を、私は思わず駆け出した。どこだ、あの子は、あの家族は、ここに居た無数の人々はどこへ行ってしまったんだ!? どうして。帰りたいなどと、帰らなくてはなどと思ったから? 焦りと後悔と罪悪感で背中が冷たくなった。そして風車の回る音と、ただ赤いだけの視界が徐々に遠ざかっていって真っ暗になった。

 冬の午後。柔らかい陽射しが騒々しい街中に降り注ぐ土曜日。
「新宿の皆さ~~ん! ギルガメッシュ!!」
 巨大な液晶画面に大写しになった眼鏡の男が甲高い声で叫ぶと、横断歩道を歩いている男たちだけがブンっと音がする程勢いよく液晶を見上げた。自分と同じぐらいか、それより年上であろう男たちの群れ。男しかいない街。新宿。アルタ前。ありふれ過ぎているくせに、実際に足を踏み入れる事は稀な場所。
 不意に目に入ったビルの屋上に人影。雑な赤いシャツにジーパンの男。どうやら裸足のようだ。金網をすり抜けて、彼は建物のフチに立つ。
「彼の背中を押すのは何だと思う?」
「怒りか、絶望か、悪魔のささやきだろう」
「違うね。理性さ」
 生きる意味、生き甲斐、やる気、元気、笑顔。自分好みで耳触りのいい言葉だけを聞きたがる小さな王様どもが生真面目な兵隊たちを元気な笑顔で嬲り殺しにする。兵士であった彼らは錯乱の末に旅立つのではない。

 昨日、暗い曇り空の下で。
 好きでもない相手とのセックスがこんなに苦痛だと思った事は無かった。好きでもない相手を求める事と、好きでもない相手から求められる事とではこんなに差があるなんて。時間の無駄、汚れるだけ無駄、精液の無駄。得られるモノなど何も無い。快楽すら無い。いつも付けただけの避妊具に手を触れないように紙で包んで捨てる。間接的にだって触れたくもない。何も生み出さない、何も放出しない、ただ這入って行って気怠い相槌のように体を動かして、頃合いを見計らって終わりにする。相手の吐く臭い息を吸い込まないように、退屈な表情を見られないように体を抱き寄せそれらしく力を込める。普段あれほど欲している吐息も匂いもこの時だけは何もかもが醜悪で不快。もはや惰性ですらない、ちょっとした金銭の融通をさせるためと、夫婦としての義理を果たすためのセックス。
 ひとたび意見が食い違えば喧しい小さな喚き声を残して寝室へ引っ込む癖に、自分の疲労を否定されると雨上がりの植木鉢の様な顔をして沈み込まれる。こんな家に帰ってくるために休みも無しに働いてイチマンエンかニマンエン少々の小遣いを貰うくらいなら。理性が働き、兵士は太陽と天国に背いてゆく。砂で出来た塔のような毎日が急に揺らいで、風に舞って消えてゆく。

 昨日、暗い曇り空の下で。
 離婚の経緯をよく覚えていない。おぼろげに薄れてゆく意識の中のVTRを流しても、黒く塗りつぶされたように、もしくは切り取られたようになっている。店の名前、食べた料理、グラスに注いだ飲み物の色、相手の顔。断片的な記憶とは、つまりこういうものなのだ。
 無限の土くれの中を猛烈に進む目の無い巨大生物が、表層にズバン! と顔を出したとき、記憶は食い千切られ、後悔は引きずり込まれ、巨大生物の餌食になる。そうして人はヒトのことを忘れ去ってく。アレほど好きだった人が不意に如何でも良くなったり、死ぬほど後悔していた出来事にアッサリ見切りを付けたり。窓の外は雨。

 夕方から降り出した雨が次第に強くフロントガラスを叩く。駅前大通りは迎えの車がロータリーに馬鹿の一つ覚えでズラっと並んでいるせいで、その手前の交差点を左折するとすぐに詰まってしまっていた。考える事ぁみな同じか。裏道に入ってそこに車を停めて君を誘導する。今じゃ電話もメールもアプリケーションで無料だ。冬支度とばかりに飾り付けられた青と白の電飾がチラチラする並木道の向こうから君がやってくるのが見えた。
 ドアを開けて助手席に滑り込み、濡れた黒い髪を少し振って笑顔を見せる。ふくよかな身体、すべらかな肌、やわらかな頬の感触が私の身体の奥をカッと熱くさせる。思わずその場で抱き寄せて耳から頬、そして唇へとキスをなぞる。そして髪の毛に混じった汗と雨とシャンプーの匂いに急かされるように車を出した。
 降り出した事も忘れる程長い時間、雨が降っている。もう雨音も聞こえない安ホテルの古いベッドの上で君を貪った。濃い黒髪と眉毛とは裏腹に、君の陰毛や腋毛はごく薄い。甘く尾を引く体臭に紛れて、生々しい性器の匂いが鼻を突く。生理が近いのだろう、いつもより濃密で胸の奥まで満たされてゆくようだ。彼女の粘液を舌先が痺れるほど貪った。舐めまわす、などという物言いでも生ぬるい。君の身体は温かい。私自身をしっかりと包み込む豊かなぬくもり。忘れたくても忘れられない。彼女の声が、吐息が、匂いが、空虚な安い部屋の中で響いて溶けて消えてゆく。

 ザーっと水の流れる音がする。仰向けに寝転がったベッドから半端な色遣いの天井の模様を見上げてみる。重なり合うようにして幾つも描かれた三角形の数を数えて108個でやめた。起き上がってベッドのふちに座ってみる。薄暗い部屋の奥にバスルーム。少し開いたドアから湯気が漏れてきている。ホテルのお湯独特の湿っぽい匂いに混じって、もっと生々しくてえげつない芳香が漂っている事に気が付いた。それは彼女の脱ぎ捨てた下着に張り付いたままのナプキンから立ち上っていた。男と言うのは勝手なもので、コトが済んだ後はどんなフェチズムの源でも多少の興醒めを覚えるものだ。私はそのナプキンをじっと見つめた。悪臭と芳香のあいだで鼻をひくひくさせながら、立ち上がって手に取ろうとしたところで彼女が浴室から出てきた。水の滴る豊かな肉体はところどころに赤黒いひび割れが見えた。まだ若い彼女は昨日より今日、今日より明日と成熟して言っているのだなと感じた。水滴を拭ききらないうちから抱きしめて、もう一度ベッドに倒れ込んだ。あの悪臭などカケラもない、ただ石鹸の匂いの向こう側で僅かに薫る生々しさが私を奮い立たせた。

 賑やかな歓楽街、煌びやかなイルミネーションに包まれた表通りは昼も夜も大渋滞。駅構内もごった返している。一人で歩く人、集団で歩きまわる連中、色んな顔が色んな体をして歩いて居る。そして暗く冷たい空の下へ。地下鉄難波駅で降りたら真っ直ぐ歩く。裏通りの飲食店街は賑やかで古臭くて、だけども心の奥底をざわつかせるぐらい魅力にあふれた場所だった。見知らぬ人々の嬌声、擦れ違いざまに零れる会話の欠片、原因不明の喧嘩と怒鳴り声。何もかも喧しくて心地よい。他人事の宝庫のような三ツ寺会館の周囲を少し歩き回って、意を決して足を踏み入れた。昭和の洒落た佇まいがそのまま年月を重ねた様な追憶の集合体。ガタピシと軋みながら変わりゆく街並みを見つめてきたのであろう、回廊を繋ぐ洒落た階段も、ひしゃげた集合ポストも、様々なセンスと主義が交じり合う看板たちも、みんな新鮮でおもしろい。こんな世界があったんだ。普段の生活と地続きなのに、まるで別の国、別の常識、別の空気を吸って生きているところへ来たみたいだ。薄汚れたクリーム色の床を踏みしめて狭い廊下を歩く。階段を昇って二階へ。
「ぎゃはははははは!」
 突然、すぐ傍のドアの向こうから笑い声がはじけた。男も女も入り混じったごく陽気な声の塊が、申し訳程度のバルコニーから見え隠れする低い夜景に流れて溶けていく。さっきまで歩き回っていた場所を少し上から眺めてみると、その雑踏を見下ろすような場所にも色んな空間に色んな名前が付いて点在している事に気が付く。たどり着いた目当てのドアは閉ざされていた。少し立ち止まってみるが往来の喧騒と建物の奥底から響くようなズンという重低音だけが足元から登ってくるだけだった。この古ぼけたモダン建築に不釣り合いなほど可愛らしく派手な色遣いの平仮名で書かれた店の名前を写真に撮ってまた歩く。数歩先には再び小さなドア。ここはそういう店、空間、名前の集合体。今度は和風の店構え。かすうどん、とだけ書かれた紺色の少しほつれた暖簾に年季の入った引き戸。思わず手を掛ける。カラカラカラ、と小気味良い音を立てて左から右へ引き戸を開いて暖簾をくぐる。するとそこには何処までも晴れ渡る青い空と紺碧の海を渡る鉄道橋がひたすら真っ直ぐ伸びていた。遥か遠くに人工島とおぼしき影がかすんでいるほかは、何もない。ひたすら、ただひたすら青い空と海を縫うように伸びる鉄橋と線路。音もなく、風もない、燦々と降り注ぐ陽光がまぶしいが、気温は感じない。全くの静寂。歩いても歩いても、あの島には着きそうもない。空だけが晴れていて、海だけが揺れている。

 自分の嫌いな男ばかりが好きな女の子とセックスをしている。顔は最悪、地獄の底まで引きずって行っても気が収まらないくらいの男が、彼女にフェラチオをさせている、ああああ。
 舐めたり触れたり匂いを嗅ぐことになるのを嫌がったり、あの子のことを臭いと思ってやがったりするのだろう。そのうち倦怠期とか言って億劫になったりもするのだろうか。浮気なんかしやがったら四肢を切断したのち目か耳どっちか潰して舌を焼いて性器を切り落として肛門を溶接して、
「それでもこいつがそんなに好きかよお!!」
 と、ひとこと聞いてやりたい。

 昨日、暗い曇り空の下で。
 下を向いて歩いていると、どんなに高いビルが建ってても気にならなくていいな。誰がどこに向かって歩いてても私には関係ない。ただ褒めて歩み寄ることでしか他人との関係を築けないような軟弱な男とも今日でさよなら。興味のない質問に答えたり、どうでもいい映画の話を聞かされることもない。お前なんかに私が理解されてたまるか。悪態と軽蔑と被害妄想が壁に埋め込まれた女の顔から半透明のチューブに吸い込まれて脳髄に。悪感情の苦い汁が舌を痺れさせて甘くする。女の頭は殆ど機械になっている。あの女の頭の中を、私の頭の中に渦巻く罵詈雑言を全部注ぎ込んだ金魚鉢にしてやりたい。
 そう。あの壁に埋め込まれた女の顔みたいに。ごく淡い黄色の半透明のビニールチューブが唇の上から下を縫うようにひとつ。その先が延髄に回り込んで刺さっているあの女の顔。目にはゴーグル、額にはアーモンドアイ。女は首から下が無く、底蓋のようなものを施されて青白い顔をしたままゴーグル越しに生気のない眼でこちらをじっと見ている。頭の部分には沢山の金属管が出ていて、そのひとつひとつが何処かに繋がっている。
 彼女は記憶の灯台守。良い事も嫌な事もこの中にある。記憶を呼び起こすとき、彼女の脳髄で薬漬けになったその場面、味、匂い、姿、形、感触が呼び起こされて、チューブを通って送られてくる。甘く激しい痛みを伴って。

 暑い暑い、蒸し暑いある真夏の遅い朝。
 猛烈な日差しが容赦なく照り付ける橋の上をかけてゆく子供たち。
 それとすれ違いながら歩いてくる背広の男。険しく不機嫌な顔。
 陽炎がもうもうと揺らめく中をひたすら歩く。
 橋の向こうにはさらに高架がかかっていて、色とりどりの車やトラックが行き来している。ここにこんな男が居る事も知らずに。背広の男はコンクリートの薄汚れた舗道を革靴で歩く。

 服も、車も、流行りの装いも。何もかも古臭く色褪せた景色(フィルム)の中を、背広の男はどこへ行くのか。
 延々と歩き続けている。すれ違う人に目も向けず、声や音にも耳を貸さず。自分だけの世界を歩き続けている。どこかと同じようで、どことも違う景色の中を。どこかに向かいながら、どこにも行き着かない道を。
 延々と歩き続けている。
 よく見ると背広も古臭い、なんだかバタくさいものを着ている。ヨレヨレになっていて猶更そう感じさせる。

 美しい海。青く晴れ渡る空と、境目の溶け合う紺碧の海原を一隻のタンカーが悠然と往く。白く光る砂浜に松の木が点々と。のどかな漁村には忍び寄るかげなど見当たらない。怖いくらいの平穏が急に破られるその日の事など、まだ誰も知らない。真昼の、いちばん静かな海と空の時間。そのピークをゆっくり切り裂いて海面から顔を出し大空に躍り出る巨大な影。閃光が波間を走り、耳をつんざくような叫び声と無数の光るウロコが現実と非日常の壁を破ってあふれ出る。それは海底の使者、横から見れば魚のようであり、真正面からは貝に見える。烏賊でも蛸でも海鞘でもない。粘膜質に覆われた皮膚に陽光が乱反射してきらめく。美しくも醜悪な巨大超獣は、耳障りな咆哮をあげて歩き出した。
 美しい海。青く晴れ渡る空と、境目の溶け合う紺碧の海原で一隻のタンカーが轟然と沈む。黒く濡れた砂浜に足跡が点々と。のどかな漁村に鳴り響くサイレン。カン高い響きに侵された陸の暮らしが炎をあげて壊れてゆく。今日、無残に踏みにじられるために存在した全ての生活が灰になった。巨大超獣の咆哮と猛烈な生臭さだけが残って、変わり果てた暮らしの空は青く晴れ渡っている。

 四角い箱のようになった密室。太った男がひとり。テーブルと椅子、分厚い窓と扉。角刈りの頭に赤いシャツを着た男はたっぷり膨らんだ顔と体を揺らして、何か声高に話している。男の前にはテーブルから伸びたマイク。分厚い窓越しの彼はひどく楽しげだ。どんな話をしているのか、こちらには聞こえてこない。どこにも聞こえない独り喋りを続けている。太った男。赤いシャツは汗がしみて黒ずんで、額から湯気をあげて。唾を飛ばし怒り笑い、時に涙ぐんで喋り続ける男。男を見つめる窓から視線が遠ざかる。みるみる小さくなる小部屋。窓、壁、箱。虚無の暗闇にぼうっと浮かぶ小さな小部屋。中から漏れる明かりだけが真っ暗闇に伸びてやがてとけてゆく、その光も見えなくなったころ。男は、まだ喋り続けているのだろうか。

 黒く腰ほどまでの高さがあるゴミバケツから、黒い長髪をなびかせた男が上半身だけを突き出して歌っている。無精ひげ、血走った目、服は着ていない。下半身は見えない。両腕の指先から腰、背中、肩に至るまでびっしりとタトゥが施されている。それは密教のマントラに似ていて、しかしディフォルメが加えられており非常に絵画的だ。男の体を避けて(下半身は裸足にジーンズだった)バケツに潜ると、黄色いチューブに繋がっていた。この痩せた男なら楽に通れそうなくらいの幅のある長い管が何処までも続いている。中は意外と明るく、右に左に上に下に曲がりくねって進むチューブの軌跡が良く分かった。男の歌がチューブの中を反響してビリビリ響く。それを足の裏から背中にかけて浴びながらずっとずっと進んでゆく。途中、少し破れた小さな穴からチューブの外の様子が窺えた。そこには同じように上半身裸の男が天空高く飛び上がり、スノーボードでクルクルと回転しながら落ちてくるところや、どこか遠くの街の込み合う道路を乱暴に飛ばすタクシーが見え隠れしている。あれは何処の、誰の記憶なんだろう。そうしてこのチューブは何処に行きつくのだろう。そんなことを不意に思い立って曲がった先で唐突に黄色いチューブは終わっており、そこには反対側から裸の上半身を突っ込んだ歌う男がこっちを見てギラギラした目つきで笑っていた。

 薄暗い小屋の中は壁いっぱいに天井まで届くほどの棚が並べてある。そこには大小、種類も年代もキャラクターもバラバラの無数の人形・ぬいぐるみ・フィギュアが置かれていた。その造り物の目、目、目が一斉に入り口の方をじっと見ている。物言わぬ人形たちの眼差しは恨んでいるようでもあり、憎んでいるようでもあり、寂しげで、悲しげで、哀れみを乞うているのか、全てをあきらめたのか、そのどれでもないのか。小さな豆電球が濃いオレンジ色のぼわんとした明かりを灯したままキィキィと鳴って揺れている。右に左に揺れる影を縫うように見渡すと、その中の一つがころり、と転げ落ちて床の上からこっちをじっと見た。こいつらは、何処にどう転がっても置かれても視線だけは外さないつもりなのか。やがて棚の上にも床にも積み上げられた人形たちが音もなくころころと転がり落ちてきた。足元を埋め尽くす人形、ぬいぐるみ、フィギュアの目が全てこっちをじっと見ている。ひと際大きなお姫様のお人形。1メートル20センチほどのブロンドの人形の目は青く澄んでいて、私をじっと見つめていた。まるで吸い込まれそうな眼球の輝きに黒いヒビが入って、あっという間に砕けたかと思うと目玉の奥からは無数の蔦が伸びてきた。やがてそこいら中の人形の目玉がパン! パン! と爆ぜて、恐るべき速さで蔦が伸びて足に腕に膝から肩に絡みついてくる。抵抗しても逃げ出したくてもどんどん体が深緑の蔦で埋められていく。ついには首根っこを締め上げられて顔も指先もどす黒く膨れ上がりパンパンになってゆく。やがて喉元に食い込む蔦がひと際強く食い込んで、パァン! という音と同時に世界が真っ暗になった。

 サリンジャーの小説。真昼の土星。窓辺で読みかけて傍らに積む。ばさり、と倒れこむ本の塔を見て僕は何処か騒がしい場所に居たくなった。重たい身体を引き摺るように歩く。いつからこんなに醜くなったのか。いつから醜く産まれることが決まっていたのか。浮腫みきってなお膨れ上がる心が今にも胸元を突き破りそうだ。苦しくて仕方がない。だけど諦められなくて、太り続けることもやめられない。
 田舎のカラオケスナックの片隅に腰かけて、知らない人の歌を聞いていた。隣にいる女の子と踊りたいけど、手を繋ぐための言葉が出てこない。グラス越しに見つめる眼差しが歪む。震える指先は短く太い。乾ききった唇からやっと絞り出した言葉は
「ボク、カエル」
 逃げるように席をたって外を目指す。猥雑なホールを抜けて暗い通路に迷い混んで、分厚く冷たい扉を幾つも開いてゆく。
 そして最後の扉をバタンと開いたら、その向こうはよく晴れた麦畑。たまらずに駆け出した。麦の穂をかき分けて、泥に足を取られながら走る、息を切らせて。香ばしい乾いた匂いが鼻から喉へ、胸から肩へしみ込んでくる。やがてつんのめって顔から飛び込んだ泥は土のいい匂いがして、冷たく心地よいものだった。

 顔を上げると雨だった。
 何もかも白く溶けた濃い霧雨の草原に茫然と立ち尽くす錆び付いた観覧車。
 白く濁った土砂降りの空と海が溶け合って街も道も沈んだあとで、快晴の緑に埋もれた無数のスプリンクラーが規則的な動きを続ける。飛沫に反射した陽射しが細切れの虹になる。線路と水路と古い床屋。真新しいバイパスを流れる回遊魚たちのテールライト。
 目眩がしそうな蒙昧な思想。
 アイスクリームのような脳髄と精神。
 薄汚れた部屋。黒ずんだ壁。風もないのに微かに回る廃墟の換気扇。
 潮騒の音の波を泳ぐアルビノの雲雀。色彩(いろ)を失うほど思い出は美しくなる。
 幸せも不幸せもなかったことにするのには少し寂しい不思議。
 幸せも不幸せもその重さに腕が痺れてしまうまで抱えている。
 天井の扇風機がくるくる回るのを茫然と見ていた。窓の外は抜けるような青空。昔ながらの喫茶店のにおい、麻雀ゲームのテーブル、日に焼けた古いマンガ。そうだ、茫然としているんだ。このままじゃいけない、と思いながら。茫然としているんだ。
 近くて遠い手の届かない場所。遠くて低い暗い空の下に居る。こぼれたスープがシミを作って。
 傘なら要らない、濡れたまま走るから。
 傘など要らない、ずぶ濡れで構わない。

 メキシコへ。

 古びた改札を出ると、乾いてぎらつく陽射しが心の奥底まで突き刺さる。ほんのふた月も居なかったような遠い国の見知らぬ街に里心などつくものか。そう自分で自分に吐き捨てて、下を向いてただ走った。茫然とした風景の中にすっかり置き去りにされたプラットホームには、麻薬中毒の青年が4人ぼんやり立っていた。
 周囲はあっという間に荒廃し、街も家も何もない。遠くに海が見える。舗装路はとうに途切れ、石ころと草いきれの凸凹道を走った。息を切らして、喘ぎながら、泣きながら、汗も涙も流れるままに走った。

 メキシコへ。

 太陽光が反射して灰色の鱗をまとった海がゆっくりとうねりを作っては砕けているのを脳裏にまざまざと浮かび上がらせて、その海の向こうの国へ逃げ出そうと走り出してもうどのぐらいが経ったのか。すっかり止んだ雨のあとで、すっかり病んだ潮騒のなかで、すっかり病んだ空の色を今も覚えている。灰色の鱗をうねらせる巨大な平面生物がのたうち回るように波濤が押し寄せて砕けて、波打ち際に点々とする虹色の貝殻をさらってゆく。砕けて、割れて、音もなく海の底へ消えてゆくまで虹色であり続ける。光を浴びているから。靴底で踏みつけて叩き割って走る。
 バキリ! バキリ! と音を立てて砕けてゆく虹色の欠片。細かく、どこまでも細かくなって砂粒ほどの大きさになった虹色の欠片のことを思うと涙が止まらない。まるで自分で自分の夢から逃げ出して、自分で自分の未来を踏みにじって、それでも構わず振り切るように逃げ出した日々が蘇るようだ。嫌だ、嫌だ。どれだけ走っても漠然とした夢だけを頼りに生きていた頃の自分が今の自分を殺すために追いかけてくる。どこまで走っても。

 メキシコへ。

 栄光と挫折の太陽が真っ赤に燃えて、足元の石くれに火の手が伸びる。走り続けていないと黒焦げになりそうだ。体も心も。息が切れて死にそうだ。苦しい、けれど、息が切れるほど頭の中だけが冴えてゆく感触が唯一心地よくて。死ぬまで逃げ続けるしかない、と悟らせる。

 暗い暗い臓肉洞窟の奥深くで蠢く動脈。床を這いまわる管を束ねて、そのまた束を集めて縦横無尽に走っている。やがてこの丸い空洞の高い天井を見上げると、そこには巨大な心臓がゆっくりと脈動していた。海も、空も、星も、時も超えた肉の洞穴。その最奥に鎮座する黄金の脳髄。足元の管がどくりと脈打つたびに体がゆらぐ。居心地の悪い揺らぎ。
 黄金の脳髄はそんなことはお構いなしにしんまりと黙ったままそこに置かれている。そこに拳を一発、また一発と叩き込む。迷いも苛立ちも憎しみも後悔も全部左右の拳で握りしめて繰り出すと、だんだんと全ての感情が吸収され飛び散っていくようだった。脳髄が冷たいたんぱく質の欠片になってゆくのを心だけが茫然と見ていた。だが体のほうは一向に止まらない。痛くも柔らかくも無い、ただ冷たいだけの肌触りが今はひたすら心地よく、それでいて感動しない。今はもう頭にも顔にも心にも何も浮かばない、ただ恍惚と茫然の混じり合った感触が拳からしみ込んでくるだけ。時折重く低く響き渡る呼吸音と生臭いにおいが息苦しそうに繰り返される。脳髄の上に鎮座するアーモンド形の眼球が苦し気に充血し白目を剥く。眼窩から勢いよく溢れた涙と血膿が足元を流れ、やがてそれは洞窟の中いっぱいに満ち満ちてゆく。揺れ動く透明な液体がさざめく潮騒。塩辛い匂い、いつの間にか眼球のあった場所にぽっかり空いた穴から絶えず吹く風。この嫌なにおい。膝から肩へしみ込んでくる塩水。息が出来ない、苦しい。ごぼ、と大きなあぶくを残して。暗い洞窟が満ち潮を迎えた。

 夏のわすれもののような蝉しぐれと蒸し暑い緑のにおいを吸い込んで歩く。手を繋いでいる小さな男の子は白いもち肌に汗をかきながらも楽しそうに階段を昇ってゆく。いちに、いちに、と自分で掛け声をあげながら。疲れる様子もなく、ひたすら草の生えた遊歩道を昇る。繋いだ手のひらに汗がにじんでヌルリと滑る。指先にぎゅっと力をこめると、小さな指先が器用に握り返してくる。高くよく通る声のいちに、いちに、という響きが夏の終わりの青空に溶けてゆく。鬱蒼とした森の中、曲がりくねった遊歩道をくねくね歩く。木の根っこが地面を持ち上げるようにして伸びてゆく。それが絡み合って束になって、やがて唐突に現れた広場の中央に繋がっている。苔むしたまま壊れた時計が一本、広場の中央で立ち尽くしていた。時刻は7時37分ごろを指しているが汚れているせいでよく見えない。おまけに根っこが基礎ごと持ち上げてしまっているせいで右に傾いている。
 広場には傾いた時計のほかに朽ちかけた東屋と苔むしたベンチ、蛇口の取り去られた水道、そして根っこの集約された地点には巨大なクスノキが立っていた。幹の中ほどにすっかり取り込まれて埋まったままのブラウン管のテレビ画面が見える。50インチほどの大きな古いテレビ。近づくとブンッと懐かしい音がして画面が点灯する。そこには何の変哲もない、通勤ラッシュでごった返す京浜東北線桜木町駅の改札口が映し出されていた。

 改札を出て左手、ランドマークタワー方面に歩き出す人ごみが綺麗に二つに分かれてまた合流して通り過ぎてゆく。その分水嶺の真ん中にドンと鎮座していたのは、等身大かつ多面体の肉の塊だった。高さ170センチほどの大きさで、ダイスのような形だ。それがごくわずかにズリズリと移動しながら、赤くまだらになった(文字通りの)肉体をひくひく震わせている。

 ゆっくり、ゆっくりと床のタイルを這いながら券売機に向かう肉塊。周囲の人間はみな通り過ぎるだけで、邪魔くさそうに避けていくものこそ居てもそれを特別気にするものは居ない。まるでゆっくり歩く老人を邪険にするように顔をしかめ、自分の朝を妨げるものはみな自らのSNSアカウントで断罪すべき対象であると言わんばかりの表情を浴びせて去ってゆく。便利なICカードも液晶端末も流行りの髪型も、全てはそんなことのために費やされてゆく。

 肉塊の這った後には薄白色の粘液が残っていた。ナメクジやカタツムリと同じように肉塊も己を粘液で薄く包み込んで生きているらしい。やがて角ばった多面体の肉塊が券売機の前までやってきた。すると券売機の液晶画面に向き合った表面の肉の地層のようになった一面がほどけ、ぎくしゃくと皮下組織をむき出しにしたような腕が伸びて液晶に触れた。ぴとり。粘液まみれで湿った音を立てて、ぎくしゃく動く肉の腕がボタンを押してゆく。まるで赤ん坊の手のように短く、出来損ないの粘土細工のようにいびつな手指をゆっくり動かして。よく見ると、券売機に正対している面にうっすらと目玉のような模様が見える。肉塊はそのむき出しになった体組織を自在に変化させ、不器用ながらも様々な場面に対応しているようだ。やがてその小さな手で切符を握りしめて、肉塊は改札を通り抜けてゆっくりとエレベーターに向かっていった。

 テレビ画面は徐々にノイズが混じり始め、肉塊がエレベーターに無理やり自らを押し込んでドアを閉めた瞬間、その鋼鉄の箱が勢いよく落下し中から断末魔の悲鳴が上がったところで完全に砂嵐になった。呆然と立ち尽くしていた私の手を、小さな手指がぎゅっと握って引っ張った。
 ああそうだ、男の子を連れていたんだ。
 そう思って手を引く方に顔を向けると、そこには小さな子供と同じぐらいの背格好の肉塊がむき出しの腕を伸ばして立っていた。ぬるり、と滑る手指を覆う粘液に木漏れ日が反射してにぶく光る。ひっ、と引っ込めようとしたその手を強く握って、構わずに森の奥へと導いてゆこうとする。最後にクスノキを振り返ると、テレビ画面は赤黒い砂嵐のまま静止していた。よく見ると、それは砂嵐ではなくアップになった肉塊だった。接写された体組織が歪んで膨らんでめくれあがって、やがて大きな目玉になった。右目でも左目でもない、もしも額にもう一つ目玉があったらこんな形がいいな、といったような綺麗なアーモンドアイが、ぱち、ぱち、と瞬きをしてコチラをじっと見つめている。手を引かれるがまま歩き出した背中に、その視線が暫く突き刺さっているようだった。

 森の奥深くへと進んでいく。時折吹き抜けてゆく風が青臭く冷たくて心地よい。弾む息も流れる汗もそのままに肉塊小人(ニクカイコビト)の導くまま走り続けた。モニターに映っていた桜木町の個体と違って、元が子供だからか足が早い。あのずんぐりむっくりな肉の塊が、どうやってあんなに早く走れるのか。やがて小石を蹴飛ばし、草いきれをかき分けてたどり着いたのはさらなる森に包まれた神社だった。森の中に丸く、大きな空間があった。少しだけ樹木の群れが途切れたその向こう、光のカーテンの奥にこんもり聳える鎮守の森。境内には大きな舞台があった。

 朱塗りの手すりに囲まれた舞台の上で4人の女が踊っている。4人とも赤い着物に黒いおかっぱ頭で前髪をパツンと揃えた髪型をしていて、それが右に左に首を振り身体を揺らすのに合わせて、ふりふりと膨らんでは靡いている。着物の裾から覗く白い素肌が鬱蒼とした鎮守の杜に差す木漏れ日を浴びてまぶしく光る。四隅のかがり火に照らされて、時折火照った頬を伝う汗が光る。音も歌もなく、踊り続ける4人の女。
 太い眉、紅を差した唇、切れ長の目。4人の女は似通った顔たちをしていた。着物に包まれた体つきも細すぎず太ってもなく、ただ白い足がすべらかに伸びていて美しい。

 女たちの踊りに引き寄せられるように足が勝手に舞台に向かう。肉塊小人がよたよたと、なんとなく楽しそうに走っていって踊り続ける女のひとりに縋りついた。足元が狂った女がよろめき、他の3人ともつれて倒れた。舞台に駆け上がり、すべらかで上質な床板を土足でドタドタ踏みながら女たちの元へ。
 大丈夫か、と差し出した手を掴んだ手指は、剥き出しの肉。あっ! と思う間もなく立ち上がる着飾った肉塊が4つ。先ほどまでの流麗な踊りとは似ても似つかない、ぎこちなく不格好な動きで筋張った腕らしきものをぎくしゃくさせながらこちらに向かってにじり寄ってくる。それはひどく緩慢な動作でありながら信じられないほど速く、あっという間に私を取り囲んでしまった。4つの肉塊はそれぞれがポリバケツほどの体積で、しゅうしゅうとどこからか漏れる呼気はひどく生臭かった。朝、寝起きで歯磨きもしていないときの口臭に似ている。
 4つの肉塊は体をぶるぶると震わせながらさらににじり寄り、距離を詰めてゆく。私に接触する前に、肉塊同士がぶつかる。するとそこが見る見る癒着していく。始めは粘液がにちゃっとくっ付き、次いで表面の肉組織がほどけて絡み合い、例の剥き出しの腕同士が繋がったと思ったらそのまま繋ぎ目が無くなって融合していく。そうして出来上がったいびつな肉の輪の中心に私は居る。ふと見ると肉塊小人が輪の外側で楽しそうに飛び跳ねている。低く、ごくわずかな高さだがコイツは飛び跳ねることも出来たらしい。
 それが無性に腹立たしくて、目の前で結合した棒状肉塊を下から蹴り上げてぶっ千切った。
 ギィィィ! という断末魔の悲鳴とバブチブチブチィ! と物凄く嫌な音がして、赤や白や薄黄色の体液と粘液が飛び散った。切れたホースのようにめちゃくちゃに液汁をまき散らしながら腕を引きちぎられた肉塊が痙攣を続ける。ビクビクと震える肉体から見る見る体液が抜けてゆき、萎んでいった。肉塊小人はワナワナと小刻みに震えている。他の肉塊どもも同様だったが、なまじ結合してしまったせいで残り3体の分の体液も千切れた腕から際限なく垂れ流しているため徐々に衰弱しているようだ。

 長い時間が経ったような、あっという間だったような。
 朱塗りの手すりに囲まれた舞台の上で4つの肉塊が萎びて死んでいる。黒ずんで紫色になった、もと肉塊だったなにか。その輪の外で茫然とする小さな肉塊が震えながら、剥き出しの腕をぎくしゃくと差し伸べてきた。許しを乞うのか、復讐をするつもりか、それとも私に触れたら融合を始めるつもりなのか。
 私は両手に持っていた大きな鉄のハンマーを持ち上げて、躊躇うことなく肉塊小人の頭上に向かって真っすぐ振り下ろした。どちゃっ、と、ごきゃっ、とが混じり合った鈍くて湿っぽい音。ぐぎゅ! という中途半端な悲鳴。陥没した肉塊の天蓋部分から砕けた骨と醜悪な内蔵組織らしき管や袋が見え隠れしている。
 まだわずかに脈動する管の奥に黄金の脳髄がある。ハンマーを引き抜いて、ぽっかり空いた穴に拳を突っ込んで脳を打つ。
 どちゃ、ぐちゃ、びちゃ、嫌な音がしてひんやりしたタンパク質混じりの粘液が飛び散る。半分潰れて崩れかけた脳髄を引きずり出して、肉塊内部の奥深くに繋がった管という管をすべて引っこ抜いて千切ってしまう。何故か小脳に直接生えている目玉がかろうじてきょろりと動いた。それがまた腹立たしくて、床に叩きつけて踏みつぶした。元は脳だったタンパク質の塊が舞台の板にしみ込んで蒸発していく。肉塊小人もまた死んだ。私は舞台を降りて再び歩き出した。何処へ?

 メキシコへ。

 鎮守の森を出て、外郭の樹海へ差し掛かったとき。背後でズン! と腸(はらわた)に響き渡るような音がした。振り返ると舞台も神社も業火に包まれて燃えていた。ごうごうと立ち上る黒煙が渦を巻いて空へと昇ってゆく。なんの感慨も湧かずに前を向いて空を見上げる。遥か森の向こうに雲の切れ目から光がさしている。あそこへ行ってみようか。理由もなくそう思った。その瞬間には歩き出していた。
 足をゆっくりと踏み出しながら、やめておこうかな、別の方向でもいいんじゃないかな、という思考は働くのだが、それが体の末端に伝わる前にどこかでウヤムヤになっているようだ。
 少し濡れた草むらをガサガサと歩いていると、気持ちにまで湿気が沁み込んでくるような気がして。走った方がいい、走り出してしまおうか。

 森の中を一心不乱に駆け抜ける自分の姿と、いつか一度だけ通って何故か今更思い出した知らない街の交差点の情景が脳髄の少し手前で交錯する。
 どんよりと重苦しい灰色の空、高くも低くも無いビル、軽自動車とトラックが並ぶ対向車線。こちらには私ひとり。交差点が頭から離れず、何度消しても蘇ってくる。帰り道。そうだ私は家に帰るんだ。あの交差点から私の家までは、まだ100キロ以上あるはずだった。街に居ると事あるごとに電話が鳴る。出れば決まって不動産屋の営業。プチセミナー、家賃収入、新築物件。軽い気持ちで電話をしたことは謝るから、もう連絡しないでくれと告げてから半月以上経っていたがお構いなしだ。それも夜遅くに。こんな時間まで残業して、私以外にも電話をかけているのだろう。まことに恐れ入るがしかし私にはもう何のつもりも無いのだ。

 余計なことばかりが思い浮かぶ。市外局番と見知らぬ番号を表示して痙攣を続ける端末を胸ポケットに戻して私は走り出した。アスファルト、自転車道、面白くも珍しくも無い街角で突然駆け出すことは非常識だろうか。信号機の地名表示には半城土と書かれていた。何処だ。どんよりした雲からは雨が降り出した。すぐに強く、激しく降り出してアスファルトを叩く。つま先が、くるぶしが、膝が沈んでゆく。走りながらどんどん深みに入り込んでいく。道路わきの側溝がゴボゴボと音を立てて溢れている。マンホールが浮き上がるぐらいの濁流が地面からも湧き出てくる。行き場のない感情の激流で、とうとう腰まで浸かってしまった。あれほど通っていた車もトラックも見かけない。ただ幅の広い片側3車線のバイパスが白く煙った街に向かって伸びている。真っ白になった空と地面が溶け合って、やがて全部が白い海へと沈む。私の口から銀色のあぶくが幾つも飛んで行った。

 メキシコへ。

 スコールの中で目を開けると、眩しい太陽が照り付ける往来が蘇る。雨に溶けた喧騒がじわじわと集まってきて固まってくる。それがまた雨上がりの熱気で蒸発して辺りに充満し、いつもの街に戻ってゆく。リキッド、ソリッド、ソリダスの順に構築されてゆく追憶。砂埃と人いきれ、生ごみと肉の焦げた匂いとドブから溢れる洗濯排水、クラクションと不完全燃焼の排気ガス。脳タンパクの土壌にしみ込んだ匂いたつ記憶たち。それらを蘇らせては洗い流す見知らぬ街の土砂降りの雨。私は、まだ半城土の交差点に居た。
 
 上張りが破れて板の見え隠れする古い襖の前に、白いシャツと紺色の吊りズボンを身に着けた男の子がちょこんと正座している。このひどく色褪せたカラー写真は前世紀のメディアの成れの果て。忘れ去られた記憶のコラージュ。

 堕胎と人権、理想と罵声、傷口に降り注ぐスコールに何度洗い流されても湧き上がる記憶の血膿。四肢を持たずトカゲのような顔をして生み出された生命。部屋中に充満する加湿器の蒸気にのって異臭がソファにカーテンにシーツにしみ込んでゆく。もう耐えられない。愛しさも憎しみも記憶を消してしまいたい。お願いイレイザーヘッド、ヒーターの赤い光で照らされた天国へ連れて行って。このまま何も考えずに済むように。

 荒れ果てた廃墟の襖の前に座る小さな男の子の写真。それをじっと見つめていると、やがてボロボロの襖がゆっくりと開いてゆく。初めは目の錯覚かと思うほど、ゆっくり、ゆっっくりと。照れくさそうにニコニコと笑うおかっぱ頭の幼子のすぐ隣から黒い隙間が生まれ、緩慢な動きで広がったその向こう。そこには同じようなおかっぱ頭で白いシャツと紺色の吊りズボンを身に着けた子供たちが二十畳ほどの和室で畳の上にびっしりと整列し、体育座りをしてこちらをじっと見ていた。女の子は白いシャツに紺色のスカートだ。靴下は男女とも白。ふくらはぎまでの、いい子ちゃんが身に着ける格好そのままだが、みな一様に青白く無表情な顔をしてこっちを見つめている。そのずっと手前に座っている少年は相変わらずニコニコと笑っている。両目がデロリと垂れ下がり、赤黒い血涙が溢れ出していること以外は。
 オギャア!
 と脳裏をつんざくような泣き声が響いた。ハッと気が付くと写真は元通りだった。子供は無邪気に笑っている。襖はぴしゃりと閉まっている。そしてどこかで赤ん坊が泣いている。
 ンギャア!
 ンギャア!
 アギャア!
 一向に止まる気配のない泣き声の出どころを探して狭い部屋を見渡す。どこにも赤ん坊なんて居ない。襖の向こう側を調べたいが、写真の中に手を突っ込むことが出来なくなっていた。さっきまでは襖をあけたり、小さな子供の目玉を潰したりすることも出来たというのに。
 ギャアア!
 ギャアア!
 ビャアア!
 うるさい! 
 写真を真ん中から縦に引き裂いた。ビジュ! と嫌な音がして写真の裂け目からどす黒い血があふれ出した。さらに引き千切ると、地の底から響くような断末魔と共に鮮血が部屋中に飛び散って壁も天井も畳も体も顔も真っ赤にしてしまう。それなのに頭の中には血が足りなくなってきて、錆びきった鉄と腐った塩水の匂いの中でクラクラと立ち尽くしている、この無為無策の貧血。眩暈と悪臭が遠ざかってゆく。意識なんてあるから、意識がここにあるから、意識が残っているから……。

 気が付くと古ぼけてすっかり黄ばんだ畳の上で仰向けだった。すっかり寝てしまったらしい。いつから……? 記憶が曖昧だ。ここは何処だ。辺りを見渡すと二十畳ほどの和室で、部屋の周囲は襖で仕切られている。起き上がると腰や背中が重く痛む。襖を開けると狭い土間がこの部屋を囲んでいて、目の前にはトイレのドアがあった。下駄箱を探し、自分の靴を履いた。土間は部屋の周囲をぐるりと一周しているようだったが、歩いてみるとちょうど建物の奥の部分だけが行き止まりだった。この向こう側にもう一部屋あるようだ。仕方が無いので逆戻りして、引き戸を開けて外に出た。

 リーーー。
 リーーー。
 虫の鳴く声と街灯のポツンとした灯りだけの静かな空間。周囲は畑と竹藪ばかりで、建物はほとんどない。ここは集会所か公民館のようなものらしい。部屋の電気も点けっぱなし、引き戸も開けっ放しでそのまま歩き出した。里山から街の灯りが見渡せた。映画館のスクリーンのような真っ暗い夜空に、メキシコにも、半城土にも行っていたことが次々と映し出されてゆく。風車の群れ、踊る女、改札口と肉塊。ひとつひとつ思い出しながら、見上げた月に向かってため息を吐く。
 ごぼり
 と音がして夜空にあぶくが昇って行った。
 夢じゃなかった。良かった。


暗黒大陸メキシコ・完

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