ナスキーホール梅田ってあったじゃん

あ、なーつかしいですね!
プロレス、それも大阪方面の選手団体会場について話し始めるのにとっ始めのフレーズが三河弁ってどうなんだって話だけれども。当方このくらいのいい加減な混ぜこぜ加減でお送りしております。
でナスキーホール梅田だよ。知る人ぞ知る、今じゃ幻のプロレス常打ち会場。

知ってる人は知ってるので今更だけど、プロレスよくわかんねでココ見て下さった方にもご覧いただいたからにはご説明いたしますと
かつて大阪にご当地プロレス団体がありました。その名も「大阪プロレス」
でその大阪プロレスは大阪市内で何度か移転をし、その都度、自前のプロレス専用会場を設けておりました
初代社長にして現在は和泉市議会議員でもあるスペル・デルフィンさんの名を冠した
デルフィンアリーナ
と言う会場がありまして。これが道頓堀に移転したあとで
大阪ミナミ ムーヴ・オンアリーナ
と変わりました。そして最後の移転先であり常打ち会場がナスキーホール梅田、でした
で、このナスキーホール梅田、名前の通り梅田駅から上がってすぐのところにあった。あの賑やかな梅田駅の真上!?凄い!便利!!
私もそう思った。実際に行くまでは。

知ってる人はこれも知ってるだろうけど、あの梅田駅ってのは何処まで行っても梅田駅なのな!広い、長い、ホントにこれが地下街なのかってぐらい延々と地下。女神転生かウィザードリィみてえな、あの感じの四角い空間が縦横に伸びていて。
久しく行ってないからうろ覚えになっちゃうぐらいややこしかった。私そんなに方向音痴ってわけじゃないと思うんだけど、何べんか行ったぐらいじゃ覚えられなかった。泉の広場とかホワイティモールとか、なんかそういうのを通った気がする。
で地下街の出口を上がってくると、すぐ目の前のプラザ梅田ビルの8階にあったのがナスキーホール梅田だった。同じビルんなかにライブハウスもあったみたいで、よくバンドマンが覗きに来てたらしい。

多分、ナスキーホール梅田になってすぐの時に、松山勘十郎さんが最初の女子祭典を行ったのがココだった。エレベーターで8階に向かうと、そこはお客さんでごった返していた。どっかで見たなコレ、と思ったけど近い雰囲気だったのは新宿FACEとか後楽園ホールだった。新宿FACEは、もっと怪しくてくらぼったい感じ。後楽園ホールは古くて歴史がある感じ。ナスキーホール梅田は、小奇麗で明るかった。千日前にあったムーヴ・オン アリーナが割と天井の低い、薄暗い感じだったのを考えると段違いに華やかな世界だった。華やかな世界にプロレスオタクの連中がごった返してると場違い感ハンパないが、それが圧倒的大多数になると、もうそれが正しくなるから凄いよ。何が凄いか、外見も服装も自分の身の回りから放射するあらゆる情報に頓着を失くした連中が何百人とひしめき合ってるんだ。凄いに決まってるだろ。

でまあそこにひしめくマニアの皆さんのうちの一人だった私もプロレスオタクを醸して居たわけだが、プロレスを見るには実にいい会場だったと思う。わりと真ん中の席や前の方で見たけど、目線がリングに合わせやすくて、床に椅子を置いてリングを見上げるよりも格段にいい。床のパイプ椅子で見るプロレスには、それはそれで得難き情緒があるけれども。

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そんな記念すべき新会場の見やすいリングと客席で、私はメキシコ時代に同室だった心優しい先輩でもある松山勘十郎さんが、特撮映画の怪獣みたいに暴れまわるアジャコング様に豪快な裏拳フルスイングをブッ込まれる瞬間を目の当たりにしたのだった。

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出た!アジャコングだ!!

試合後、売店で思わず抱き着いて写真を撮ってもらった。

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松山勘十郎さんと私。

疲労困憊ながらも、どこか満足そうな勘十郎さんは性根の底からプロレスラーだった。私はそんな先輩の試合が、また見たくて楽しみでビルを出た。
さて何処へ向かって帰ればいいのかわからない。

プロレス会場よりオシャレで、プロレス会場よりさらに混み合ってひしめき合う人いきれの波をかいくぐるように地下街を彷徨い歩いた。
ナスキーホール梅田は、それから約数年で早々と閉鎖されてしまい、人混みの梅田駅よりも遠い場所になってしまった。正味のところ何年ぐらい存続していたんだろうか。
DVDや写真で見るくらいしか手元には残ってないし、あとは大阪プロレスのパンフレットとか、週刊誌の記事か……お手持ちの写真など御座いましたら是非お寄せくださいますと幸いです。皆さんの思い出の会場、試合は、どこですか???

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