「汗くささ」について──佐藤泰志『きみの鳥はうたえる』と村上春樹『風の歌を聴け』
佐藤泰志について知ったのはつい最近のことだ。
とりわけ好きな作家というわけでもないのに定期的に初期の村上春樹成分を摂取したくなったり、あの感じは一体なんなのかと考えたくなることがあって、さまざまな検索ツールで「村上春樹っぽい」「村上春樹みたいな」「ムラカミっぽい」と検索をかけている。
大体出てくる固有名詞は似たりよったりで、多く場合村上春樹が影響を受けた作家か、村上春樹に影響を受けた作家が出てくる。
そんな中、佐藤泰志はそのどちらでもないながらも名前がよく上がる作家という点で目についた。彼は村上春樹とほぼ同世代で、デビュー時期も近いものの、賞レースには恵まれず、41歳の若さで自ら死を選んでいる。
検索した際も、彼を村上春樹の陰画のように語るのが一つのお決まりのようになっているみたいだった。
「〇〇っぽい」なんて不純な触れ込みで手に取った時点で、すでに読み手のバイアスは明らかだし、ここでそれを隠す気もない。
当然、佐藤泰志をよく知っている人物からしたら随分頓珍漢なこと、アンフェアなことを書いてしまうかもしれない。
ただ、そうやって読んだからこそ開けてくる視野というものも確かに存在していて、以下に記すのはそうやって見えた景色の断片だとでも思って欲しい。
荒い呼吸と毛穴から伝わる熱気
『きみの鳥はうたえる』では、本屋で働く語り手の「僕」が、同僚のガールフレンド佐知子を、一緒にルームシェアをしている友人静雄に明け渡す(奪われる、ではなく)までの一連の過程が描かれている。
と、同時にこの小説は「僕」という視点から見た、静雄というままならない現実を生きる一人の若者の再生と破滅の物語でもある。
さて、少なくない読者が、そして私自身が、この小説に何かしらの村上春樹を感じる由縁は、こうした物語の大枠に(ひとまず表面的には)求められるのではないか。
一方が身を引くことでもう一方との恋愛関係がスタートするという三角関係は、『ノルウェイの森』でのワタナベとキズキと直子の複雑な関係を彷彿とさせるし、語り手の「僕」にとって分身のような存在であるバディの破滅を描くという点で、静雄の存在は村上春樹の初期三部作に登場する鼠と重なる。
また『きみの鳥はうたえる』では、アラという正体不明のマスターがやっている店で登場人物たちが浴びるように酒を飲むが、これまた『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』に出てくるジェイズバーを思わせるだろう。
音楽への言及も多く、また、プレスリーやミンガスなど、チョイスされるアーティストのセンスにも近しさを感じる。
若者の青春とその喪失を、従来の日本の小説とは異なるタッチで描いたという点では確かに二人は共通しているし、同時にすごく80年代的だったのだろう。
ただ若者の実感を伝えるその言葉づかいは、両者の間で大きな隔たりがある。ほとんど正反対と言ってもいいかもしれない。
一言で言ってしまえば、佐藤泰志は汗くさいのだ。
アメリカの小説をそのまま翻訳したような、ウィットの効いた軽妙さが特徴の初期村上春樹の文体と違って、『きみの鳥はうたえる』は一読してその息の短さ、ひりつくような切迫感に思わずたじろぐ。
ちょっと引用してみよう。
捉えようによっては消費社会的な軽薄を感じさせもする村上春樹の文章と違って、いい意味で洗練されてない。生成りの麻袋のようにシンプルで、時に手触りに棘のような引っ掛かりを残す。
言葉を区切る間隔=感覚が速く、まるでマラソンした後のランナーの話を聞いているみたいだ。文庫版の解説でも詩人の伊坂洋子が触れているように、まるで畳み掛けるような緊張感が紙面に漲っている。
また、引用符を用いた会話に加え、間接話法をかなり多用するのもこの小説の大きな特徴だ。
あくまで会話の一部分だけを切り取ることで、語られなかった多くの言葉や時間の連なりの余韻を感じさせる村上春樹の会話文は、よく知られているように現実ではまずあり得ないような小洒落た言葉の応酬が一つの持ち味だ。
一方、佐藤泰志のそれはぶっきらぼうで飾り気がないうえ、省略可能に思えるようなやり取りさえ間接話法で執拗に拾ってゆく。その繰り返しがこの小説の痛切な切迫感を醸し出す大きな要因にもなっている。
取り繕わないのは語りの位相だけじゃない。身体にまつわる所作もまた気取りとは無縁なものばかりだ。
二段ベッドの下段でするセックス。人混みを駆け抜ける二人乗りの自転車。茂みでする立ち小便。安いジンが誘発する吐瀉。同僚の復讐によって切れた唇から流れ出す血液……… 。
「僕」や静雄、意地悪な本屋の同僚。彼らの毛穴から発散される体温が、汗や時に血の匂いと一緒に、漂ってくる。
ガールフレンドの佐知子が親友の静雄に心移りするのを別に止めるでもなく、むしろ積極的に手助けしているかのようでもある不可解な「僕」の態度も、語りは心理の襞に分け入ることなくことのないまま小説を閉じてしまうけれど、登場人物たちの放つ存在のアウラみたいなものを前にすると、不思議と説得力を帯びてしまう。
余談だが、作中の食べ物も一つの指針になる。
コーンビーフのサンドウィッチやチーズクラッカー、フライド・ポテトをアテにビールを飲む『風の歌を聴け』に対し、同じくビールやジン、アブサンなど洋酒を口にしながらも、この小説でつまみとして注文されるのは焼きうどんとなんとも土くさい。
果たして佐藤泰志は村上春樹の「陰画」か?
こうした要素を小説の「うまい/下手」に絡めて、一方を陽画、他方を陰画という図式に落とし込むのは簡単だろう。
それ自体が優れているかどうかは一旦置いて、例えば『風の歌を聴け』では比喩を多用した文体に加え、ラジオのディスクジョッキーやそこに寄せられる手紙、架空の小説など、異なる水準に属する言葉が多層的に語られ、また、時系列をシャッフルし、複雑な時間軸から物語ることで小説を立ち上がらせるの構成などにも技巧が凝らされている。
(村上春樹が初めて小説を書いた際に、時系列順に書かれたエピソードを入れ替えたり落としたりすることで初めて小説らしさの手触りが得られたというエピソードはあまりにも有名だ。)
それと比較して、『きみの鳥はうたえる』の、あくまで語り手の身体感覚に即した、現在完了形の直線的な語りや、終盤に唐突に起こる殺人事件を「素人くさい」と言うことは可能だ。現に芥川賞の選評でも滝井孝作には文章の出来を、丸谷才一にはそのベタに小説的な展開を、それぞれ批判されている。
作家としての経歴を見た時も、かたや村上は、世界的な読者を獲得し、ノーベル文学賞が発表される際は必ずその候補として名前が上り、新作が発表ともなれば出版業界はちょっとしたお祭り騒ぎになる。毀誉褒貶はあれど、古井も大江も亡き今、存命では最も大きな存在であることは間違いないだろう。
対して佐藤は、今でこそ再評価が進み、多くの小説が映画化されてこそいるが、存命中は賞に恵まれることもなければ、ベストセラーになって一世風靡することもなく、無名のまま自らその命を閉ざすことで筆を断たねばならなかった。
けれど今回『きみの鳥はうたえる』を読んで、この小説を下支えしている身体感覚が、後に村上が何年もかけて求め続け、『街とその不確かな壁』を書いた今でも手に入れるには至っていない、ある種の切実さを確かに備えているように思えてならなかった。
そしてその切実さは、少し飛躍して聞こえるかもしれないが、それが個々の生に根差した原初的なものであるが故に、小説を書くという営みに、今一度光を当てうるのではないか、とも思った。
私小説の伝統が確かにある一方で、長いこと小説は「技術」だともされてきた。
小説を可能にするのは何より語り=騙りの技術であって、著者の体験や実存ではない。どんなに特異な生を生きていようが、拙い語り口では小説にはならないし、逆にどんなに凡庸な生を送っていても、巧みに語れるのであればそれは優れた小説となる。
実際、ある程度はその通りなのだと思う。
けれど一方で、切って貼っての感情がタイムラインに散らばり、生成AIが既視感を巧みにズラしながら継ぎ接ぐこの時代において、それでも私たちが小説を書き続けること、読み続けることの意義は、必然的に技術以外の場所に重心を移さないではいられないのではないか。
その移動先は人によって様々だろうが、その一つに人間の個々の生の実感に今一度立ち返ることが挙げられるのは、容易に想像がつく。
(これはあくまで余談の域を出ないけれど、マイノリティ当事者や性加害のヴィクティムによる小説が広く読まれているのも、そうした文脈の中に位置付けることができるのではないか)
その意味で、佐藤泰志は今こそ読まれるべき作家だと言えるだろう。
だから彼と真に比較すべきはむしろヘミングウェイやレイモンド・カーヴァー(二人とも村上と関わりの深い作家であり、後者に至っては自ら翻訳もしている)、あるいは吃音という身体と内面の不和に根差した小説を書き続けた金鶴泳の方かもしれない(ちなみに彼もまた自ら命を絶った作家として知られている)。
これを書くにあたって村上春樹の『風の歌を聴け』を多分十数年ぶりに再読したが、小説の冒頭と終わりにある言葉を読んだ際、小説の文脈を超えてどうしても佐藤泰志のことを思わないではいられなかった。
それはちょうど、こんな風に始まって、こんな風に終わる。
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