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アスタラビスタ 8話 part3


 頬が熱かった。熱い。暑い。恥ずかしい。彼に右手を引かれながら、私は左手で自分の頬を押さえていた。少しでも左手へと熱を放出したいのに、頬に当てている左手まで熱い。熱がこもる。 
 辿り着いたのは、彼らの家の近くにある公園だった。遊具は滑り台とブランコのみで、公園の周りには木がうっそうと茂っていた。それでも、団地が密集するこの住宅地では、大切な子供の遊び場になっているようだった。
「ごめんな、昨日出かけようって話していたのに、こんなことになって」
 木の葉が風で騒めく中、彼は私の手を離し、申し訳なさそうに呟いた。
「い、いいえ。大丈夫です。私は」
 私は赤くなっているであろう頬を風で冷まそうとしていた。
「組織から連絡が来たんだ。今日、お前を連れて来いって」
 雅臣がどうして悲しい顔をしているのか、私には分からなかった。私が彼らの世界に突然飛び込んで、彼らに危害を加えようとしたのに、未だ野放しにされていたことの方が不思議なくらいだったのだ。今まで自由にしていたことの方が……異常だったのだ。
「俺は組織の命令を拒否しようと思っている」
 彼の言葉に、私は「え?」と目を見開いて聞き返した。
「お前は一般人だ。ましてや組織の人間に無理矢理憑依された被害者だ。過失は組織にある。お前に説明責任はない。それなのにお前を呼び出すこと自体、おかしな話なんだよ」
 ……本当にそうだろうか? 違う。違うと思うのだ。私は、説明しなければいけない。
「私は、説明しなければいけないと思います」
 私は彼を直視できなかった。視界の隅で、雅臣がショックを受けた顔をしたのが分かった。
「俺は……お前を組織に関わらせたくない」
 風が吹いた。私と彼の間を木の葉が落ち、地面を滑って行った。
「いや、違う。俺は……」
 こんな歯切れの悪い言い方をする雅臣を、私は見たことがなかった。いつも簡潔に自分の思っていることを話す雅臣が、今ははっきりしない物言いをしている。
「私は……雅臣さんに迷惑をかけたくないです。私のために、組織の命令に逆らってほしくないです」
雅臣は私の言葉に、下唇を噛み、俯いた。彼は私を心配してくれていた。命令に逆らってまで、私のことを考えようとしてくれている。
「それに、命令に逆らえば、雅臣さんの立場が悪くなっちゃいますよね?」
彼が苦笑いした。
「俺の立場なんてどうでもいいんだよ……」
 私が彼に出会うまでの孤独だった時間は、ほんの数カ月だった。だが孤独だった時間の流れは遅く、何年にも、何十年にも感じた。まるで自分が生まれた時から、この孤独と共に過ごしてきたかのような絶望を抱えていた。
 そんな私にとって、彼の優しい言葉は救いにもなり、毒にもなる。人との繋がりが乏しい私には、彼の小さな気遣いも、特別な人間へと向けてくれる優しい囁きだと勘違いする。
「これは俺の我儘だ。お前の精神的負担を考えても、巻き込まれた経緯を組織に説明して、組織との関係を終わらせるのが一番いいって分かってる。でも、組織の命令に従ってお前を連れて行ったら、お前がまた二重に巻き込まれる気がして……」
 彼は優しい人間だ。優しい人だから、誰に対しても気を遣って接してくれるのだろう。決して、私が彼にとって特別だからというわけではない。
 私は理解していた。だからいくら彼と仲良くなったとしても、私は彼と心の距離を取らなければならない。それは、すぐ自分の都合の良いように勘違いしようとする自分のために。
「……俺は最低だ」
 雅臣が小さく呟いた。風の音に掻き消されてしまうほど、小さな声だった。
「お前を巻き込みたくないなら、組織の人間である俺もお前の近くにいるべきじゃないんだよ」
 彼とは距離を……。
そう思っていたはずなのに、彼自身からその言葉を口にされ、私は眩暈にも似た絶望を感じた。
雅臣は自分に呆れたように弱々しい笑みを浮かべていた。まるで私に「自分を馬鹿にしてくれ」と訴えているようだった。
「でも、頭ではどうすればお前と一緒にいられるのか考えてる」
 その言葉に私は目を見開き、彼を真正面から見つめた。
「俺、嬉しかったんだよ。昨日お前が夜中に電話してきてくれて。お前は何気なく俺を選んだのかもしれないけど、俺は頼られて嬉しかったんだ」
 ……ダメだ。私は誤解してしまう。
「私だって……」
どうして彼は、私に勘違いをするよう促してくるのだ。まるで、彼が私を……。
「私だって、雅臣さんともっといろんなことがしたいです。手合せだけじゃなくて、遊んだり、いろんなことを一緒にしたいです。近くにいるべきじゃないなんて、言わないで……」
 永遠に続くものなんてない。気持ちだって、刻一刻と変わっていくものだ。他人に対して、ずっと同じ気持ちを持ち続けることなんて、到底不可能だ。
 そんなことは知っている。それでも、今この時が良ければ、それでいいやだなんて……。
 敬語を捨て、醜く弱い、そのままの自分の感情を晒した私は、奥行きのない、つまらない女だ。誰にだって利用される。すぐ裏切られる。でも私はそうすることで、彼に見てもらおうとしていた。
 雅臣の左腕に右手を伸ばし、彼の着ていたシャツを掴んで呟いた。
「……独りにしないで」
 恥ずかしくて俯こうとする。でも彼の表情が気になって、目線は彼へと向ける。頬が熱くなる。いろんな感情が込み上げてきて、今にも泣きそうだった。

紅羽 顔赤い

 
 いつも冷静で涼しい顔をしていた雅臣の表情が崩れた。目尻が下がり、色白の肌が紅潮していくのが分かった。
「あぁ、分かってるよ。独りにさせない」
 初めて彼と出会った時を思い出す。彼の髪色と同じ、夕焼けの空が広がっていた。彼は冷たい印象だった。どこか目も鋭く、近寄りがたかった。そんな彼が、こんなにも優しい目をして私を見ている。想像もしていなかった。
「私を雅臣さんの組織に連れて行ってください。それで教えてください。もっと、雅臣さんのこと」
夕日の色は一日の終わり、暮れの色だ。でも私にとって夕日の色は彼の、雅臣の色だ。彼の夕日の色の髪が風になびき、長い前髪が流れ、彼の顔が良く見えた。
「……分かった。連れて行く。安心して。絶対不安にさせないから」
 彼の言葉に、私は笑みを返した。怖いと言ったら嘘になる。それでも、私は彼のことが知りたかった。私を孤独から救ってくれた彼がいてくれれば、大丈夫だと思えた。
 私は、もう気づいていた。少しずつ、悲しい記憶が上書きされるような感覚を。

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