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いま、「裸足で逃げる」沖縄の少女たちの目線で

上間陽子「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」をやっと読む。

私たちは生まれたときから、身体を清潔にされ、なでられ、いたわられることで成長する。だから身体は、そのひとの存在が祝福された記憶をとどめている。(「裸足で逃げる」p.6)

冒頭から、ものすごい表現にふるえるように読み始めた。人間の生命が(身体が)大事だなんて、ほんとうは息をするように当たり前のことなのだ。それを思い出すための言葉が改めて必要になるほどに、彼女は多くの人に出会い、そばに立ちすくみ、涙を流してきたのだろう。

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「裸足で逃げる」はどのような本かといえば、帯にはこう書いてある。

沖縄の女性たちが暴力を受け、そこから逃げて、自分の居場所をつくりあげていくまでの記録。

夜の仕事でお金を得ながら、DVを受け、公的なセーフティネットからこぼれ落ち、シングルマザーとして子どもを育て続ける。そんな沖縄の、"裸足で逃げ"てきた女性たちの言葉のひとつひとつがそこにはある。

家出するさ、家出して男のところ行っても、にぃにぃに見つけられて、くるされて、それが怖くて、また逃げて……いつも逃げる、いつもだよ。怖くて逃げる。逃げて、くるされる。……なんで私はいつも逃げるかね……。(「裸足で逃げる」p.41)
もうわからんさ?もう意味わからん。なにいっているかわからんし。なんか「こっちでは、(中期中絶は)扱ってないわけさ」みたいな。「だから他の病院探さないといけないけど。たぶん、でも、若いからね」っていって。「若いから、なんかいろんなところ、難しいはずよ」みたいな。こんなこといわれてもさ、「知らんし」って思ってから。(p.178)

そうして生活保護申請に訪れても、シェルターに入れてもらおうとしても、警察でも、冷たくあしらわれる彼女たち。

彼氏彼女の関係で、籍は入ってないから、っていう時点でもうだめなんですよ。「今日おうち帰りたくないから、帰ったら殺されるから。おうちに帰りたくないから、ここに置いとかして」って、その(警察署の)入り口入った待合室でいっても、それもだめ。………だめなんですよ。(p.102)

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こうした生活史に触れると、私は何度もその膨大さのようなものに圧倒され、目を背けてしまいたくなる。

何度目かの引用になるが(好きなのだ)、社会学者の岸政彦は子どもの頃、道ばたの小石を拾い上げては観察する癖があったという。それを述懐して、彼はこう述べている。

「手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの『この小石』になる瞬間が訪れる。」
「私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、『この小石』になる不思議な瞬間である。(中略)そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。」(岸政彦「断片的なものの社会学」

人ひとりの人生が確かに存在しているということ。その膨大さ。自分ひとりの人生ですら、この手で抱えこむには難しい。上間陽子はしかし、その人ひとりの人生を隣に立って受け止める。膨大さの前で、彼女は確かに、誠実に人ひとりに向き合う。

その描き手への、あるいは被描き手への畏怖というのか、悔しさというのか、申し訳無さというのか、羨ましさとでも表現しえてしまうのだろうか、もうとにかく、私はその有様の膨大さの前で、立ちすくんでしまうのである。

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そこで、目線をいま私から見えている世の中に戻してみる。

今日は2020年4月18日。私から見えている世間はもうしばらくずっと、COVID-19のことで溢れている。政府もその対策に忙しく駆け回っているように見える。

そしてふと彼女たちの目線を思い出すとき。

政府の決定から、"裸足で逃げてきた彼女"たちの目線がいかに抜け落ちているか思い知らされる。恐ろしいほどに。その選択のひとつひとつが。まるで狙い撃ってでもいるかのように、彼女たちに寄り添える選択の真逆をゆくのだ。

内田樹「ためらいの倫理学」は怒りの代行を批判しているのだったなと思い出しながら、以降を書く。

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2020年3月30日、東京都は「夜間~早朝の酒場などへの出入り 当面自粛を」とのメッセージを出した。

そしてこの外出自粛は、"平日夜間と土日祝"の仕事を、すなわち夜間の飲食業や観光業を狙い撃つことになった。補償なしに。

"彼女たち"の目から見れば、まるで政府が公に、「昼間の仕事はまともで重要な仕事」であり、"彼女たち"の仕事は「不要不急な仕事だ」と切って捨てたことに他ならないように、今の私には感じられる。

そして「不要不急の仕事」だから、自粛してくれても補償は出さないよ、とでも言うのだろうか?

この繰り返される静かな夜の裏側で、一人で夜の仕事でぎりぎりの稼ぎを得て、子どもを育てる沖縄の女性たちは、一体どうしているのだろう。

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そして4月3日、思い出しても怒りでふるえるような情報がSNSを飛び交った。

子どもの世話のために仕事を休んだフリーランス向けの支援金支給要領で、「風俗営業などの関係者」が支給除外されていることがネットで波紋を呼んでいます。

なぜ"彼女たち"が風俗やキャバクラで仕事をするのか、休業補償の対象外と決めた人たちは、興味すらないのだろう。

この調査でお会いしたシングルマザー全員が、自分のパートナーであり、子どもの父親でもある男性との関係を解消したあと、慰謝料も養育費も一銭ももらえず、単身で子どもを育てることを強いられていた。子どもを引き取った彼女たちは、スーパーやコンビニのレジの800円程度の時給よりも高い2000円前後の時給のキャバクラで働くことで、子どもの面倒を見ることと生活費を得ることを両立させようとしていた。つまり、沖縄のキャバ嬢たちは、子どもをひとりで抱えて、時間をやりくりして生活する年若い「母」でもあった。(「裸足で逃げる」p.58)

夜の仕事を選択するのは、そうしたいからじゃない。そうしなければ、生活が成り立たないからするのだ。養育費ももらえず、児童手当や生活保護からもこぼれ落ちた彼女たち。

既にそれをずっとずっと見過ごしてきたというのに、彼女たちを更に足で踏みつけるようなことをするというのか。休業補償は、こうして誠実に子どもと向き合っている人のための制度ではないのか。

この後SNSでの批判や銀座のママたちの奮闘( https://www.fnn.jp/articles/-/30600 )の甲斐あってか、4/5には無事、風俗業などで働く人たちも休業補償対象とする方針が示された。

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そして無事、現金30万給付など以降の支援策についても、4/5には風俗業などで働く人も対象に含まれることになった。

しかし、ここでも"彼女たち"の目線がないことが、制度設計にありありとあらわれている。現金30万給付は、「世帯あたり」の給付であり、「要申請」だという。

「生活支援臨時給付金(仮称)の概要」(令和2年4月16日時点)には、こうある。

問5 夫婦共働きの場合は2回受給できるのでしょうか。
 1世帯当たり1回まで受給することができます。原則として、世帯主の方に申請を行っていただき、給付を行います。

なんて馬鹿なことを…!と思ってしまうのは、「裸足で逃げる」を読んだ後だからだろう、というならば、異論はない。

"彼女たち"は結婚/同棲している間、世帯主からDVを受けてきた人も相当多い。

生活もまわらなかったんですよ。要はカードのローンがあって、給料全部カードのローンに消えるみたいだから。
―あっちが使うんだ?飲み屋で?
そうそう。何に使ってるかわからないけど、カードの明細みても、自分ってカードもったことがないからわからないんですよ。(「裸足で逃げる」p.74)
―帰ってきてなぐるの?
そうそうそう。無理やり馬乗りされて、蹴られたり、なぐられたりとか。(p.75)

それでも離婚を考えられないような状態に置かれている人が、この日本にはいるのだ。この"世帯主の口座"に30万を給付したその後のことは、想像に難くない(これが仮に一律10万給付になろうと、振り込まれるのが世帯主口座になれば、同じ話ではあるのだけれど…)。

そしてもうひとつの懸念点が、「申請が必要だ」という点。

収入状況を証する書類等を付して市区町村に申請(申請者や市区町村の事務負担を考慮して、可能な限り簡便な手続きを検討することとしている。また、申請方法は、申請書類の郵送を基本としつつ、オンライン申請を検討する。やむを得ず窓口で申請受付を行う場合は、受付窓口の分散や消毒薬の配置といった感染症拡大防止策の徹底を図る)
(生活支援臨時給付金(仮称)の概要)

もう、この文章を読むだけでも気が滅入るだろう。世帯主の月間収入(本年2月~6月の任意の月)を昨年度のそれと比較して示す必要があるらしい。

一体、この緊急時に、お金がなくて困っているどこの誰が、のうのうと前年度の収入を確認している余裕があるというのだろうか?

そしてこうして困っている人たちこそ、"申請という行為が可能な人たち"から最も遠く離れたところにいることを、制度を設計した人たちが想像することはなかったのだろうか。そもそも、"彼女たち"の手元に収入を示すデータが残っていないケースは、決して稀ではないというのに。

そして窓口に訪れてすら、彼女たちはセーフティネットからこぼれ落ちるのだ。

優歌の現在の状況と、家に暴力をふるうきょうだいがいることを聞いた保護課の職員は、「世帯分離ができていないので、生活保護の対象にはなりません」と話し、生活保護の申請用紙すら渡そうとしなかった。(「裸足で逃げる」p.47)
「……日本語って難しいね。半分もわからなかったよ」と泣いている優歌にいわれる。優歌、ごめん。こんなひどい場所に連れてくるべきではなかった。(p.48)

風俗業などに従事する女性たちは行政に対して恐れや敵愾心を抱いていることもある、と述べていたのは、鈴木大介「再貧困女子」だったか。

現場のセーフティネットですら、ほろほろとこぼれ落ちてしまう人々がいるというのに。アウトリーチどころか、セーフティネットを求めて窓口に訪れた人をすら冷たくあしらう現場で、誰が"申請"できるというのだろう?

この1世帯あたり現金30万給付も多くの指摘から一旦後退し、「10万円一律給付」へと舵が切られた。それでもまだ、政府は「今回は要望されるかた、手をあげていただいた方々に給付する。」などといっている。

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政府のひとつひとつの決定。こうして"裸足で逃げ"てきた女性たちの目線を持って眺めるとき、それはなんと悲しく響くものばかりなのだろう。こうして長い時間をかけて、私たちは、ああ、もうどうでもいいかあ、と思わされてきたのだろうか。

それでも、この数週間の動きを見て。政府の決定は変えていけるのだと、それを体感した人も少なくないはずで。

声をあげることで、批判することで、この有事のなかでも物事はひとつひとつ、少しずつ変わってきた。

微力であろうし、私自身も周囲に困っている人を知っているわけですらない、もしかしたら当事者から見たら関係ないやろと怒られてしまうような、余計な代行的義憤かもしれない。

でもこうして上間陽子氏の著書を通じて彼女たちの目線をわずかにでも知ったいま、私にもできることがあるなと今は思う。起こせることがあるなと思う。

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春菜が車の助手席に乗り込んだとき、ふんわり音がするような感じがした。車を出して、「ここ、左でいい?」と家の方角を尋ねると、助手席にすとんとおさまった春菜は、もうくつろいだような顔をして、「うん、左」といった。
(中略)
ああそうか。四年間、途切れることなく客をとる日々とは、こうやって知らないひとの車に乗り込んで、そのひとの目の前でくつろいでいるような顔をして、その実、相手のほうをリラックスさせる日々だったことを了解する。(「裸足で逃げる」p.208)

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ほんとうの多様性は遠い。「多様性をつくる」などと言ううちは。

多様性が真に目指す本質に近づくとき。それは色々な目線を持つというよりもむしろ、それは時間軸の極限をとるとき、最後には単に、その一人ひとりと向き合うことを意味するのだろう。

その意味において、私が"「裸足で逃げる」沖縄の女性たち"なんて、ひどくおおざっぱなくくりをしているうち、多様性を叫ぶ私の目線は、わずかに細分化されるにすぎない。

それでも細々とでも、私はその歩みを止めるまい。その一歩を恐れるうちは、春菜のようにふんわりと車でくつろぐことはできない、と私は思う。









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