読書日記#1 隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』

「読書日記」です。直近で読んだ、面白かった本について書きます。書評でも、読書感想文でも、要約でもありません。強いて言うならエッセイみたいなものですが、「エッセイ」はなんだか小っ恥ずかしいので、「読書日記」。

昨日の日記にも書いたけれど、急に新書を浴びたくなったので、大学の図書館で新書を借りました。そのうちの1冊。隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018年)です。

本書の主題はタイトルの通り。第1章では西欧社会の学術史において「人文」「社会」「理工医」に分かれる経緯が語られる。第2章では明治時代に日本にもたらされた西欧の諸学問の受容史と文理の分化の経緯が語られる。第3章では産業界との関係、特に文理それぞれにおける大学生の就職活動や修士・博士の採用、イノベーション政策と産学連携について。第4章では文理という区分とジェンダーとの関係。ここでは社会における「女子は文系、理系は男子」というステレオタイプだけでなく、男女の認知機能に関する研究の歴史にも触れる。第5章では現在進みつつある「学際化」、諸学問の変容や統合の動きについて。

私自身は完全に文系、特に人文系で、理系とは縁遠い人生を送っている。中高生の頃は明らかに理系の出来が悪かったから、全然興味もなかったけれど、大学生の今は理系にも興味が出てきた。学び直そうかな、とすら思いかけている。そんなだから、ある時期までは文系と理系の区別は当然と思ってきたし、最近は統合こそ学問の未来を切り拓くとか思っていた。でも、どっちもそんなに簡単な問題じゃない。そもそも理系と文系では、というか理工医と人文と社会では、対象が違うだけじゃなくて、世界の捉え方が違うのだ。

まず、諸学問の中には、「人間」をバイアスの源と捉える傾向と、「人間」を価値の源泉と捉える傾向とが併存しています。前者の視点は、自然科学の営みにおいて特に成熟しました。後者は、主に人文社会科学に深く関わっています。この両者は、その成り立ちから言って、容易に統合できるものではありません(第一章)。

隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』(星海社新書、2018年)、p.246-247

自然科学では、それぞれ異なる人間の主観を導入するわけにはいかず、数字や器具を使って”客観的に”捉えようとする。人文社会科学では、人間の主観に拠るところの価値や意味を捉えようとする。ここに共通するのは、「神」からの自立という姿勢。しかし、このフェーズはもう何百年も前に終わってしまった。これによって近代が始まったが、現代ではもう常識。

政策や研究のことはよくわからないし、直接に統合したりすることも容易じゃないのだろう。私は研究者になる気はないけれど、だからこそ「素人」としていろんなことを考える人になりうる。などと綺麗事を言ってみても、学知のなさは致命的。

とはいえ研究者でもないのにいろんな分野の学問に精通した人というのはいるもので、サウイフモノニ ワタシハナリタイ。

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