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エロ本が道端に落ちているだけでワクワクさんになれたのに。

人生経験を積んだことによって『ワクワク』できることの幅が狭まってしまったような気がして、ふと寂しくなる瞬間がある。

小学生のころ、一か月に1回のペースで通学路にエロ本の切れ端が落ちていた。少し先を歩いている登校班の上級生が「お~い!エロ本あったで!」と教えてくれるので、その声が耳に入った瞬間に『ワクワク』が抑えられなくなり、ダッシュで向かって全員で食い入るように見ていた。もちろん当時は性に対する知識など皆無なので、エロ本の切れ端1枚1枚が未知との遭遇といった感じで刺激的だった。

こないだ、会社へ行くときに久々に道端にエロ本が落ちているのを見かけた。20年ぶりくらいの遭遇だ。でも、「あぁ、エロ本だなぁ…」くらいにしか思わず、普通に通り過ぎてしまった。小学生のころあれだけ『ワクワク』していたのに、大人になっていろんな経験(意味深)をしてきてしまったせいでほとんど何も感じなくなってしまったのだ。

「いつまでも道端に落ちているエロ本でワクワクできる人間でありたかった。だってそんなことでワクワクできるやつ、絶対に人生楽しいから。」そう考えてしまいやるせなくなってしまった。

このようなことを通して『ワクワク』できることの幅が狭まっていると実感するわけだが、その一方で、『ワクワク』できることの幅を”広げる”こともできていないと感じる。

大人になると『ワクワク』できることを自ら探さなければならないことが多くなる。たとえば「アメリカに行く」とか「新しく事業を立ち上げる」とか。でもそれは常にコストやリスクを伴うので『ワクワク』したくても怖くてなかなか踏み込めない。いろいろ考えて結局現状維持を選んでしまう。そんなことだから『ワクワク』することが起きず、毎日が楽しいと思えなくなる。この繰り返しだ。なんだか自分のことがしょぼい人間に思えてくる。

いつまでもエロ本で『ワクワク』できていれば楽だったろうが、もうそんなわけにはいかないのだから切り替えるしかない。コストやリスクを乗り越える生き方をしなければならない。

『ワクワクする』って本当にしんどい。

あ、でもキャンドル・ジュンが広末涼子の不倫相手の店を敵情視察したっていうネットニュースにはすごく『ワクワク』した気がするなぁ。

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