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免許更新(エッセイ)

人生で初めて免許更新に行った。試験場の中って、どうしてあんな監獄のような雰囲気なのだろう。照明は暗く、人々はみんな死んだ目をしている。かくいう僕も、眠気とだるさからその目は死んでいた。本音を言えば、誰も試験場なんか来たくはないのだ。人々のそういうネガティヴな気持ちが、刑務所のような雰囲気に一役買っているのかと考えつつ、僕は3850円を支払った。

目のテストを終え、いよいよ講習の時間が始まる。ゴールド免許の人からすれば、講習なんて30分で終わるイベントだろう。しかし、初回は違う。2時間かかる。マジで?2時間?ちなみに違反者講習も2時間。初心者は違反者と同じ扱いという訳だ。

「2時間もありますからね、飲み物でも飲みながら聞いてください。」禿頭の職員が笑顔でそう言う。しかし、その瞳は黒く塗りつぶされていた。幾度となく繰り返される講習は、無限ループの苦しみだろう。その目からは、何の感情も見えなかった。感情を殺さないと、やっていけない仕事なのだろう。

飲み物を買いに自動販売機の前に立つ。お茶、水、カルピスウォーター。僕はカルピスウォーターを選んだ。甘いものでも飲まないと、やっていられなかったからだ。これから、2時間あの禿頭のつまらない話を聞く。しかも、眠ったりスマホをいじったりすると、退出させられ次の講習に回される。この講習で何か変わるのか。事故は減るのか。そういうところをキチッと精査してから、本来やるべき事ではないか。頭の中で愚痴が止まらない。僕がカルピスウォーターを買ったのは、こういった頭の中の澱みを洗い流す何かが欲しかったからだ。

カルピスを買って講習部屋に入る。初心者は案外多いらしく、100つの死んだ目がそこにあった。皆同じ気持ちでここにいるのだ。

しかし、僕はふとこの場にいるのがいたたまれなくなった。その理由は皆の飲み物だ。お茶か水しか飲んでいない。カルピスなんてチャイルディッシュなものを飲んでいるのは、僕しかいない。僕は急に、自分はこの場にいるに相応しくない人間ではないような気がした。僕は出来るだけ小さくなる事しか出来なくなった。

講習が始まる。決まり文句が並べてあるであろう紙を、禿頭が読み上げる。禿頭が読み上げ終わる直前、1人の若い男が入ってきた。目をぎらつかせた、この会場では見ない顔つきの男だ。明日を愚直に信じる、生きている目。この場所でそんなものが見られるなんて。私はとても驚いた。そんな彼が僕の斜め前に座った。私は、また驚いた。

しかし、そんなものはまだ序章だった。彼はカバンから何かを取り出した。それは、ライフガードだった。彼はそれを、命の水のようにゴキュゴキュと飲んでいった。

それを見て思った。自分は何で小さな事に悩んでいたのだろう、と。斜め前に座る男が喉にライフガードを入れるのを見て、自分がカルピスで悩んでいた事がアホらしくなってしまった。自分の目も、正気に戻ったのだ。

その後の講習は退屈だった。けれど、来て良かったと思っている。男がライフガードだけで世の中に自分の存在を見せつける様をみれたのだから。免許試験場に、「ライフガードの男」という噂がたってもおかしくない。馬鹿にされてもおかしくない。それなのに、彼はライフガードを飲んだのだ。これは、勇気だ。

そんなものが見れたので、とても満足のいく講習だった。まあ、講習内容は全く覚えていないが。



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