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犬は吠えるがキャラバンは進む(エッセイ)

注 小沢健二さんの1stアルバムの話を期待して開いた方、すいません!犬は吠えるがキャラバンは進む、という言葉そのものについてのエッセイです。筆者も小沢健二さん大好きですが、今回は違う話です。なんか釣りみたいになって申し訳ないです!

さて、犬は吠えるがキャラバンは進む、という言葉である。アラブ系のことわざだ。日本では、小沢健二さんのアルバムタイトルとして有名だろう。

小沢健二さんはライナーノーツで、この言葉の解釈は「俺という犬が吠えても世間というキャラバンは進むというようにも、世間という犬が吠えても俺というキャラバンは進むというようにも解釈できる」としていた。当時中二だった筆者は思った。どっちなんだよ、と。テキトーかよ、と。

しかし、成長するにつれ、だんだん意味が分かって来たような気がする。要するに、人生には、犬の時もキャラバンの時もあるのだ。

自分なりに言葉を噛み砕くと、人生には主人公の瞬間とモブの瞬間がある、という事なのだと思う。学校の中で、だるいだの帰りたいだの愚痴を言っていても、学校は止まらない。この時、僕はモブであり犬だ。一方、文化祭でステージに上がって演奏をしたとする。色んな意見が出てくるだろう。しかし、気にせず演奏をする時、間違いなく主人公でありキャラバンの側に立っている。立場が逆転しているのだ。

どんな時に、犬になるかキャラバンになるかは分からない。ところで、このことわざは犬もキャラバンも否定していない。なので、別に犬だろうがキャラバンだろうが、どっちでも良いのだ。好きな方を選べば良いのだ。

この感覚は、新鮮だった。筆者がドラえもんのことわざ辞典で習ったことわざは、ある種方向を導くものだったからだ。例えば、餅は餅屋ということわざ。物事には、それぞれ専門の人がいるので、素人が手出しするよりも専門家に任せよう、という意味だ。この意味の裏には、素人が手出しして邪魔をするな、という強いメッセージがこめられている。生きる上で、こうするべきだ、という道標を作ってくれているようなイメージだ。同時に、他の道の可能性を叩き潰しているのだ。

対して、犬は吠えるがキャラバンは進むはどうか。道が二手に分かれている。犬であろうが、キャラバンであろうが、自由に決めなよ、というスタンスだ。Y道路の前に立たせ、そのまま何もしてくれない。この自由さが、日本のものとは全く違うと感じた。

どちらが正しいとか間違っているとか、そういう話ではない。ただ、面白いなあという話である。日本のことわざも、アラブ系のことわざも、自分に都合よく使い分けて、糧にして行けたらいいと思う。

あ、小沢健二さんのアルバムの方の、犬は吠えるがキャラバンは進むもおすすめだ。ご本人も言っていたが、天使たちのシーンという曲は、どんなに忙しい人でも13分半だけ時間をとって聞いて欲しい曲だ。冒頭に注まで入れたくせに、最後は小沢健二さんの話である。するつもりはなかったが、だって好きなんだもん!!!
(取り乱してしまい、すいません。)

https://youtu.be/rXyELkXgx04
↑天使たちのシーンのリンク。なんか、YouTubeの動画が上手く埋め込めなかったので、リンクで許してください。


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