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キリストの終末預言(3) 終わりの日の前兆

マタイ24章4-8節

日本での毎日の生活に、天気予報は欠かせません。

でも、インドネシアでは毎日の天気予報に関心が向けられることはありません。雨が降るのはだいたい午後以降で、しかも、急に積乱雲が発達して、狭い地域でゲリラ雨のように降るのが普通ですから。雨が降ったら、雨脚の激しい1時間くらい、雨宿りしてその時が過ぎ去るのを待って、また活動に戻る。それだけです。

何を着ようか、傘の備えは必要だろうか。そういう悩みを持ちえない生活では、天気予報は必要ありません。

それと同じく、これから自分の住んでいる世界はどうなるだろうか、ということに悩むことがなければ、その予測に関心を持つこともないでしょう。先行きのビジョンを真剣に求めている人であれば、将来の予測は必須。1年先とか、3年先とか。

40年先の事や2千年先の事となると、また、話は違います。しかも、終わりの日がある、などと、なかなか思い描けるものではありません。夜の後には朝が来るし、雨はいつかやむだろう、と、普通なら思うからです。それが、7年間、夜が明けなくなる、雨がやまなくなる、という話を聞いたら、どうするか。

弟子たちの質問は、この世が終わる、と昔から預言で伝えられてきていたことが、いったいいつ起こるのか、その前兆は何なのか、でした。その答えが語られます。

「気をつけなさい」

その教えの最初が、「人に惑わされないように気をつけなさい」です。

そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。(マタイによる福音書 24章 4-6節)

理由はいたって単純。「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう」から。

宗教は怖い、と思うのは、正しいことなのでした。惑わされないように気をつける第一は、こわいものだという認識です。車の運転でも、こわさを忘れるときに事故を起こすものですから。

イエス・キリストのこの警告をあらかじめ知っていたら回避できたかもしれない事件が、頭によぎります。

どうして、キリストの名を名乗る人が現われるのでしょうか。

ユダヤ人の場合は、イスラエルの独立を勝ち取るための「王」の出現を待ちわびる機運があるからです。西暦66年から、エルサレムで第一次ユダヤ戦争が起こります。70年にエルサレム陥落で終結し、一時、ユダヤ人はエルサレム周辺から追放されてしまいます。ところが、西暦132年に第二次ユダヤ戦争が起こったとき、指導者は「バル・コクバ (星の子)」と自称して、自らを救世主としてしまいました。

それで、クリスチャンユダヤ人たちは、自分を救世主だとしたこの人物から離れたのでした。「気をつけなさい」という警告があったからです。

一方、バル・コクバと共に反乱にかかわったユダヤ人は、最終的には皆殺され、エルサレムからはユダヤ色が全く消されることになります。1948年にイスラエル国ができあがるまで、ユダヤ人は世界中に再離散を余儀なくされたのでした。

「救世主」と言われる人の登場は、真の「世の終わり」のしるしが現われてからです。気をつけなければなりません。

「終わりのしるし」ではない事柄

気をつけなさい、という警告に続いて、こんなことがあっても世の終わりではないからあわてるな、という教えが語られます。

まず、戦争。世も末だ、という言葉がふさわしい凶悪事件が重なると、そんな気分も起きるものです。悲惨な戦争が何度も起きたら、さらにその念は強くなるかもしれません。

戦争が起こる。けれどもそれは世の終わりのしるしではない。

エルサレムに起こった2度の大きな戦いは、ユダヤ人の完敗に終わり、アッシリア捕囚、バビロン捕囚でうけた民族離散の悲哀を、再び味わうことになります。イエス・キリストを信じないで拒否したユダヤ人たちは、キリストの教えに従って反乱軍から離れ去った「クリスチャンユダヤ人」を裏切者だと決めつけてしまいます。ユダヤ人にとっては、世も末な出来事だったでしょう。

でも、「戦争」は、世の終わりのしるしではない、と語られます。

逆に言えば、この世から戦争はなくならない、世の終わりまで、繰り返し続くだろう、ということなのです。どんな戦争でも悲惨なことになってしまうものでしょうが、それでも、世も終わり、とは言えないのが、戦争なのです。

エルサレム以外で起こる数々の戦争の「うわさ」も同じ。

ただ、すぐ後で語られる「民は民に、国は国に敵対し」と言われる特別な戦争は違う性質のもののようです。

世の終わり、というと、世界の破滅をイメージしがちで、それは戦争によるのだ、という「うわさ」はつきものでしょうが、うろたえる必要はないのです。

産みの苦しみの初めとしてのしるし

「しるし」ではない事柄が語られ、次は「しるし」。終わりに近づいた時に何があるか。

民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。(マタイによる福音書 24章 7-8節)

それが、まず、「民が民に、国が国に」敵対する世界戦争だそうです。

世界の各地で戦いがあっても不思議ではありませんが、それらが一つの戦いとして行われるとしたら、異常なことです。巨大な帝国が、その周辺各地において戦いを繰り広げるとしても、一つの国と諸国間の、それぞれの地域でのバラバラな戦いに過ぎません。

それが、いくつもの国どうしが同盟を組み、その間の戦いが、世界各地で同時に起こった、というのは、第一次世界大戦で歴史上初めて生じた事態だったのだそうです。

当時の国境と今ではかなり変わっているのですが、現代の国境で分かれている国の数で、50ヶ国がこの戦争に巻き込まれたとのこと。

1世紀には想像することすら不可能だったような世界規模の戦いが、こんな短いフレーズで語られ、預言となっているのは、驚くべきことです。そして、その結果イスラエル国が誕生したというのは、偶然と言うにはあまりにもできすぎのような事柄なのです。

そのうえで、飢饉と激しい地震。

戦争に関しては「世界戦争」がしるしとされたのですから、飢饉と地震も、世界規模で起きるものとしていいのかもしれません。

折しも、地球温暖化問題が取り沙汰され、世界中で対策が競って行われようとしています。日本は豪雨が増えているように思えるわけですが、世界的には砂漠化の進行が大きな問題なのです。

マグニチュード9クラスの地震は、この300年間の記録だけで、100年間に5回程度起こっているそうです。太平洋を取り巻く地域です。もしそれが、世界の各地でポツンポツンとではなく、同時的に起きるとしたら、まさに異常なことです。

そうしたことが起こらないでほしいと願うばかりですが、もしあったなら、それが、「産みの苦しみの初め」だとわかるのでしょう。希望は、それが地球の破滅のしるしなのではなく、新しいことが産み出されるための前兆だ、ということです。

温暖化問題にも、世界的な取り組みはすでに始まっています。日本でも大地震の到来を予測して、備えようとの動きが続いています。同じように、イエス・キリストの警告に耳を傾けて、備えを始める必要があるだろうと思います。もしこれらの「産みの苦しみの初め」に遭遇したら、すぐにでも。


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