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はじロー(5) 怒りといつくしみ

はじめて読むパウロの手紙 ローマ人への手紙2章1-8節

怒りといつくしみ

あなたがたに実を豊かに結んでほしい、とパウロが願いつつ聖徒たちに書いている手紙。次は、不毛な砂漠が描かれます。互いにさばき合う人間模様です。

神に放っておかれている人の行着く先が死だ、で終わらず、わかっていても同じことをしているし、同意すらしている、裸にしたら人間はみな死に向かっている、とありました。

死に向かっている人のもう一つのしるしが、互いにさばき合っていることだ、と、パウロは続けます。

3章にいたるまで、あまり、読む気になれないような記述が続くのですが、自分もそうだから、というところが暴かれてしまうからでしょうね。検査を受けに病院に行きたくない気持ち、というところです。聖徒でも同じ、なのでしょう。

神が人間をさばくのはいいのか。って、それは当然、正しいことですよね。神は、人間のような、他人の非をあげつらいながら自分でも同じことをしている、などということはないのですから。

そして、私たちも、悪は正しくさばかれなければならない、とはわかっているのです。だからこそ、自分が悪と思うことに対して、非難の言葉をぶつけてしまう。

問題は、自分がしている過ちに気づかないままに、他人の非難ばかりに走ってしまっていることです。それを、神は決して見逃さない!それがパウロの警告です。もしかしたら、自分を聖徒だと思えば、思うほどに、その穴に落ち込みやすくなるかも。

でもパウロは、神のさばきへの警告だけじゃなく、神のいつくしみ深さに、目を向けさせています。悪に対して怒るだけに終わらないところが、神の神たるところ。

神の目的は、人間が自分の罪に気がついて、それを悔い改めることです。

怒りやさばきの厳しさをいくら言われても、どうやら、それだけで人間は心を変えることはないのです。

もとももとの問題が、天地を創造した神を崇めず、感謝もしないことでした。もし、神が力づくで人間に心を変えるように迫ったとしても、恐怖にとらわれるだけで、感謝や感動には至らないでしょうね。

神のいつくしみ深さだけが、人を悔い改めに導く、とは、本当にそうだ、というしかないところです。

はたからみていると、じれったい、という感じですが。でも、それが、自分にも起きたことなんだ、と、振り返ってみれば、「そのとおり!」なのです。

パウロの警告が、再び。神の怒りが現される日が来る、ということ。いつまでも、なんでも、ヨシヨシ、と言ってくれるだけのおじいちゃんのような神ではありません。

正しいことは正しい、悪いことは悪い、と、キッチリと一人ひとりの行いに対する評価がくだされる日がある、と、パウロは知っているようです。

神の正しいさばきが現れる日を、望むでしょうか。

望むのであれば、せっかくですから、永遠の命を求める生き方を目指しながら、というのがいいのではありませんか。

そんなこと無理?

第一のハードルだけをまず考えてみます。他人をさばいてばかりで自分のことを考えていないのではないか。神の雄大な被造物に目を向けている以上に大きないつくしみに目を向けているか。神の最後のさばきの日に臨む覚悟はあるか。

自分を他人と比べる、ではなく、神と自分との関係をじっくり考える機会です。

ローマ人への手紙2章1-8節

 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、利己的な思いから真理に従わず、不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。
ローマ人への手紙2章1-8節


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