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はじロー(16)ユダヤ人をはじめギリシャ人にも

はじめて読むローマ人への手紙3章29-31節


ユダヤ人をはじめギリシャ人にも

神が唯一なら。

世界のどこかの民族に、固有の民族宗教で「唯一の神」というのはあるのでしょうか。ギリシャ神話、ローマ神話が常識だったはずのローマ世界で、「神が唯一なら」という仮定は、ありえないことでした。多くの神々が、そこここに据えられていたようですから。「唯一の神」などはむしろ、ローマでは非常識な考え方だったのです。

逆に、ユダヤ民族の「唯一神信仰」からすると、ユダヤ民族の神は割礼のある者の神であって、無割礼の者には無関係、のはずでした。だから、パウロが言う「異邦人の神でもあります」というのは、ユダヤ民族にとって、ありえないことでした。神が律法で定めた割礼が無視されるなんて、そんな非常識な考え方は絶対に納得できない。多くのユダヤ人は、パウロにそう反対の声を上げていたのです。

神が唯一なら、ユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあります。でも、このことは、世界中の人にとっては、非常識な考え方だったのでした。

ところが、神が唯一なら、この神は、割礼のあるものを信仰によって義と認め、割礼のない者も、ただ信仰によって義と認めてくださるのです。

私たちを愛してくれている神は、唯一、神の子を犠牲にしてまで永遠の命を私たちに与えようとしてくださった神。この神に信頼するだけ、この神の愛に信頼するだけで、義と認められる、つまり、正しい関係を結ぶことになるのです。

そもそも、律法は、人間関係を正しくするために定められたものでした。神と人間の関係、そして人間同士の関係。正しくない者には刑罰が課せられ、赦しの儀式の供え物をささげることが課せられることで、人は、不正に陥らないように仕向けられます。でも、本当の愛に気づかないままでは、いくら刑罰や犠牲を払う義務があっても、人は、変わりません。

イエス・キリストは、神の愛を完全に示し、律法の目的を私たちが満たすことができるようにしてくれたのです。そこには、ユダヤ人と異邦人との区別はありません。神は、唯一なのです。

民族それぞれの自由性を認めつつ、しかも、互いに愛し合い一つとなることを可能にしてくれるのが、唯一の罪の贖いを仕上げ、ただ信仰によって義と認めてくれる、愛の神。儀式が命を与えてくれるのではないし、儀式が愛を与えてくれるのでもありません。神の愛の言葉が、わたしたちのうちに愛のタネとなって植え付けられるとき、命が芽生え、育っていくのです。

わたしの心にストンと入ったそのタネは、通訳を通して語られたアメリカ人牧師の英語の説教でした。聖書の原典はヘブライ語とギリシャ語などで書かれているのですが、それらを覚えなければならない、というわけでもありません。たどたどしい外国語を使っても、心が通じるのが、人間です。それ以上に、神は、どんな言葉ででも、わたしたちのうちに命のタネを植え付けることができる方。

世界中のすべての人にとって、すばらしい神なのです。


ローマ人への手紙3章29‐31節

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。


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