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聖書の教え方

聖書は決して読みやすい文書ではない。時代も、地域も、遠い世界のものであり、さらに、神のお働きにかかわる話。難しくて、深い意味がある文章を、子どもに教えることはなおさら難しい。だからこそ、それを解き明かす訓練された人が必要となる。それが「教師」(エペソ4:11,1コリント12:28,使徒13:1)。

どのように聖書を読んだらいいのかは、そうした、先に読み方を知った人(先生!)と一緒に読むことによって、次第に身についてくる。

ある人と長く付き合うほどに、その人の人格をより深く知ってくるように、じっくりと聖書を読むほどに、神の「人格」をより深く知ることが出来る。「心」を知るのは、「言葉」による。神の御心を知って、自分に与えられている神からの賜物を知り、この世で自分が何をなすべきかを知るようになるのは、「御言葉」から。

さらに、聖書は読むものに「信じる」ことを求めてくる書物。何を信じるか、と言うことと同時に、どのように信じるか、信じるとはどういうことか、を理解しなければならない。

それに関しては、教えるものと教えられるものとの間の信頼関係そのものが、聖書を信じる信じ方を規定するだろうことを思い見るべき。人格的な信頼関係が、神と私たちとの間の関係であるはずだ。神の言葉を信じること、神の心を信じること。そのように、聖書は学ばれなければならない。

本来、こうした人間関係における信頼というものを学ぶのは、基本的には家庭においてであり、親と子供の信頼関係から、人は信じることを学んでいくはずだ。けれども、すべての親が神への信頼をもっているわけではなく、神の御言葉に従って歩んでいるわけではない。そこで、教会の聖書教師が必要となる。聖書から、また聖書教師から、神に信頼することを学ぶ。あくまでも、絶対的に信頼すべきなのが神であることを忘れてはならない。(マタイ23:8)

聖書は、そのような書物だ。

聖書をなぜ読まなければならないか。神の被造物として、さらに、新しく生まれ変わった神の子とされた人間として、神の御言葉は生きるために必要不可欠のもの。聖書は、神の御言葉そのものである。人格的な交流とは、コミュニケーションがあることだ。これは大人も子供も同じ。

ところが、この世の宗教観念、信仰というものの理解では、神との人格的交流、コミュニケーションを、書物と言う書きとどめられたものを通して行われるなど、思いもつかないことだ。そうした否定的考え方が、思いをしめているし、習慣となっている。

聖書を読むことで、神が本来人間に求めておられるコミュニケーションがなされることになる。そこが教えられなければならない。

それを、たとえ生まれ変わったとしても「罪人」の習慣にどっぷりとつかっている人、特に、知的・身体的・社会的成長の特定のある段階に位置している者に、それぞれ、どのように伝えるべきかは、それ相応の方法が求められる。それを一緒に考えながら、実践しながら、神の御霊のお働きに私たち自身が参加していこう。

そのために、聖書の真理を、具体的に生活に適用する個人的な応答をすること。そのための訓練が、日曜学校のクラスでなされる必要がある。その訓練を十分に受けてはじめて、礼拝の説教を、十二分に受け止める準備ができたといえる。

神の御言葉に応答する教会を育てるための学び。応答することを学んで、礼拝者として生きることを学び、礼拝で語られる説教に応答する者となる。

参考書:創造的な聖書の教え方
(ローレンス・O・リチャーズ; Creative Bible Teaching, Lawence. O. Richards, 1970)


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