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はじロー(21)心から信頼する相続者を召しだす

はじめて読むローマ人への手紙4章17-22節

心から信頼する相続者を召しだす

人は外部から見えるもので判断するけれど、神は心を見る。その神がアブラハムの心を見て、多くの国民の父としたのでした。

どんな神だったか、というと、「死者を生かす」「無いものを有るものとして召される」神だ、とパウロは言います。

アブラハムに声をかけ、呼び出したとき、アブラハムは星が燦然ときらめく天を見るように言われたのです。

その神が、100歳になろうとしているアブラハムに、子どもが生まれる約束をしました。通常なら何人もの子供がいて、孫やひ孫がいる年齢になっていたのに、まだ子がいない。その状態をひっくり返すことができる神の約束を信じたのです。

神がいる、ということを信じただけではありません。死んでいるに等しい自分のからだを生かしてくれる神を信じたのでした。

この頃は自分を信じることがはやりです。他人を信じることに疲れて行きついた先が自分なのかとも思ってしまうのですが、それは、私自身が自分を信じることに諦めた過去があったからでしょうか。アブラハムには、自分の相続問題があり、その解決のために最も信頼のできる「しもべ」を相続者として立てようと心に決めかけていたところでした。ましてや自分を信じて努力し続けるということは無意味。そこに、神が天から呼びかけたのです。

誰を信じて、自分の将来、自分の死後の将来までもゆだねることができるのか。アブラハムは、神を信じたのでした。自分では望み得ない時に、望み得ないことを、神の約束の言葉を聞いて、望みを抱いて信じたのです。

アブラハムのどのような「信仰」が神によって義と認められるに足るものだったか、というと、神がまっすぐに見たのは、アブラハムの心に芽生えた神への人格的な信頼だったのです。「神には約束したことを実行する力がある」と確信していました。

約束を疑うことはこの世の知恵です。リスクを想定しながらじゃないと、この世を過ごすことはできません。それは、自分自身が、約束をいつも守っているわけではないことからもわかっていることです。守れないだけでなく、偽ることだってあるのですから。そういう世界の中で、約束を信じる、約束を守るという方を信じる、さらには、ありえない約束が必ず実行されると信じることは、相手が神だからこその信頼感です。

宗教を信じるというとき、奇跡を見て信じる場合があります。その体験が、宗教への確信となり、どこまでもその宗教につき従っていくことにもなります。その結果、重大な事件が起こったことがありました。それで、人の考えを狂わせてしまう宗教への恐れが広く行きわたったこともあります。世界に起こっている争いでも、宗教がらみの争いも目につきます。いったい、何を信じていいものかわからなくて、行きつく先は、自分を信じるだけ、となりそう。

宗教団体を信じるのでもなく、宗教の創始者を信じるのでもない。奇跡を体験してから神を信じるのではない。アブラハムが信じた天の神を信じることが、私たちのスタート地点になるのだろう、というのが、今の私の結論です。

神なしには、天国もあり得ないのですから。私たちの相続地は、天国なのです。


ローマ人への手紙4章17‐22節

「わたしはあなたを多くの国民の父とした」
と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、
「あなたの子孫は、このようになる」
と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。
彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。
(新改訳2017)


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