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宗教のシンにある神の真理

マタイ26:57-68

インドネシアでは、長い間、公認宗教が五つに定められていました。(今では六つになっています。) 国民は、そのどれかの宗教に所属していることを記載しているIDカードを持っています。外国人も、必ず何の宗教か、携帯するカードに記載。

そういう国で、日本には無宗教を標榜する人がいる、と言うと、怪訝な感じをもたれます。

でも、「宗教」とは何か、という点で、一般には日本とは違った理解があるかもしれません。

インドネシア政府が言う「宗教」の要件は、唯一神の信仰と、経典があること。宗教の基本理解は、多数派のイスラム教にあるからでしょう。

日本で宗教というと、創始者となる人物がいて、その人の考えから始まったもの、と考えられる事が多いでしょうか。神が始めたもの、というよりも、人が始めたもの、というイメージが強いような。

それでも、人の心に、神を求める思いがあるのは、神の指が人の心をツンツンと突っついているからじゃないか、と思えてきます。

さて、イエス・キリストを捕縛し、死刑判決を出すための裁判が、ここから始まります。


 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。 ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。
 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。

マタイによる福音書26章57-68節

1.ユダヤ教の律義さ

イエス・キリストを殺そうと策略し、裁判をしているのは、律義なユダヤ教指導者たちでした。「りちぎ」は、律法の義、と書くんですね。「りちぎ」とは、義理堅い、実直、ということだそうです。

ユダヤ教は、とても律儀な宗教です。

旧約聖書で、「安息日」の規定はひとつだけで、「その日を聖とせよ、どんな仕事もしてはならない」というもの。追加されている規則と言っても、火を起こしてはならない、くらい。家族の中の料理担当する女性には、休息の日だったでしょう。

六日働いて一日休む。これが「安息日規定」でした。それが、キリストの時代には、1600もの細則が追加されていていました。どんなことが「仕事」とみなされるか、そのリストが増えていっていたのです。

なぜそれがここで問題かと言うと、イエス・キリストの裁判は、ユダヤ教の律義さのゆえに起こったことだったからです。イエスを殺さなければならない理由が、この宗教的律儀さでした。

紀元前600年ころ、イスラエルはバビロン捕囚を経験します。神殿は破壊され、おもだった人たちはバビロンに連れ去られて、国は消滅してしまいます。その原因は神の律法を無視していたことだった、という意識がユダヤ人を支配します。預言の通りだったからです。

70年後、神殿は再建されます。その時から、もう律法を破ることの恐ろしさが先に立ち、特に、「安息日」は絶対守るべし、となりました。

「仕事をしてはいけない」。それが律法。「では、どんなことが仕事とみなされるのか?」 神の怒りを買わないように、怒られるかもしれない行為を、民族全体で禁じる規則が宗教で作られていくのです。律義さの現れでした。

たとえば、医療行為。すぐに手当をしなければ死んでしまう場合を除いて、禁止。医者も休みが必要だから、ではなく、安息日を守るために禁止、なのでした。

ところが、イエス・キリストは、そうした規則を、全く無視します。いつだろうと、癒やしの必要な人を癒やしてしまうのです。

宗教規則に律儀な指導者たちは、それではまた神の怒りがくだされる、イスラエル民族の一致も破れる、と、イエスとその一派をなくす方策を探していたのでした。

でも、こうして作り上げられてきていた多くの宗教規則こそが、民衆を苦しめる重荷となってきていたことも事実だったようです。それらは、神からの規則のように見せかけてはいても、実は人間によって作られ、追加されてきていた教えの限界でした 。

そうした人々へのキリストの言葉をマタイは記録しています。

すべて重荷を負うて苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう
(マタイによる福音書11章28節)

人間の手を加えられていない、生きている神の真理が、私たちに永遠の安心を与えることを、キリストは表したのでした。

2.あなたは神の子キリストなのか

裁判の中で、なぜ、彼らはこの質問をしたのでしょう?

また、なぜ、私たちの多くは、この質問をしないのでしょう?こちらはたんに、イエス・キリストについてほとんど何も聞いたことがないからかと思います。

宗教家たちの質問の目的は、「そのとおり」と言うはずのイエスのその答えです。彼らの結論は決まっていました。「安息日を守らないお前は、キリストではない!なのに自分はキリストだと言う。」 偽証罪だ、神を冒涜している罪だ、と結審に持ち込もうとしたのです。

ところが、イエス・キリストの答えはそれ以上のものでした。

しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。
マタイによる福音書26章64節


これは、旧約聖書ダニエル預言に基づいた言葉です。

わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
見よ、人の子のような者が、
天の雲に乗ってきて、
日の老いたる者のもとに来ると、
その前に導かれた。
ダニエル7章13節

天に挙げられた人の事は、聖書に二人、記されています。けれども、天から雲に包まれて降りてくる「人」というのはあり得ませんでした。

「雲」は神の栄光を象徴するものであり、神の栄光に包まれて天から降りてくる方は、神ご自身以外にないからです。

大祭司カヤパは、自らを「神」だと言っているイエスの意図をすぐに理解します。

しかし、カヤパ自身は、 イエスこそが民衆を混乱させている張本人だ、極悪人だ、としか考えられなかったのです。そして即座に、周囲にいる議員達に、死刑の評決をするように促します。

人の行為、行動は、その人の信条を反映します。心にあることが、明らかになっていくのです。

「あなたは神の子なのか」。この問いを思いめぐらせることは、永遠への扉の前に立つこととなっていきます。それが、十字架の場面でよりはっきりするのです。

3,キリストよ、言い当ててみろ

イエス・キリストが世の終わりの預言をしたことへのあてつけでしょう。裁判の席にいた人々が何人かで、小突き回しながら侮辱し、こう言います。

「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。

これまで民衆の前ではやりたくてもできなかったことが、夜中の無謀な裁判が終わったところで、思う存分にやっているかのようです。

言い当ててみよ。

これもまるで、占い師のようなことがおまえにはできるんだろう、それともそんなこともできないのか、と侮辱の上塗りの言葉です。

あとで、イエス・キリストが十字架にかけられたときにも、「降りてみろ、そしたら信じてやる」となじるのですが、それと同じことをしているわけです。

こうなると、彼らの宗教のシンにあるのは何だろう、と疑問を持たざるを得なくなります。彼らも自分たちでもわかっていたかもしれません。誰にも知られないように夜中に裁判を開いたのは、民衆から余計な疑義が出ないようにするためだったのでしょう。

誰がたたいたかどうか、私たちにはなんの関係もないことです。それが誰かを当てられるとしても、その程度のことができたとして、それがどうだというのか、とも思えます。そんな言葉を発している彼らの宗教は、そのくらいのことだけの活動なのか、と。

一方で、イエス・キリストが発言している「人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、永遠の神でなければ意味のない言葉です。シンのある言葉として聞くかどうか。

最後に。

弟子たちのだれもが出席していないはずのこの裁判は、だれかが記録していたものをマタイが見つけて、福音書に載せたのでしょうか。復活したイエス・キリストが弟子たちに現れたときに語り伝えたのでしょうか。それとも裁判の席にいた誰かが、後にイエス・キリストを信じて、裁判の様子を知らせたのでしょうか。

不思議が折り重なっている話は、さらに続きます。

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