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世界宣教に召されていること ―教会への召し―

兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 (1コリント書1章26節)

伝道者の条件は何か?第一に挙げられるのは、おそらく「召し」。私も、その召しを確信したからこそ今の働きについたわけで、派遣の条件としても送り出す側が何を信じて派遣するかといえば、この「召し」だろう。

「召し」が具体的にどのように人に与えられるかといえば、たとえば旧約聖書の時代の預言者には、神が直接語りかけて人々を召したことが、それぞれの預言書などから見て取れるし、新約聖書の時代の使徒たちは、主イエスがこれまた直接に声をかけて召しだしている。パウロにしても、天からの主の言葉があって召されたのだから、全く同じ。

それでは、現代はどうなのか。「直接」天から語られる声を聞いてはじめて、人は伝道者になるのか?もちろんそんなことはなくて、聖書から聞き取ることになる。その「声」は、聞く側で自分勝手に解釈されてはならない、神の言葉たる聖書にあることを忘れてはならない。

それでは、同じ聖書箇所を読んで、ある人は「召し」を知り、ある人は全く何も受け取らないのはなぜか。これを神の選びの結果だとするなら、そして、なぜ神がその人を選んだのかの理由を知りえないとするなら、それ以上は私たちは何も言えないままで終わってしまう。

確かに、預言者たちや使徒たちの「選び」と「召し」を見ていると、なぜその人たちが選ばれ、召されたのかの理由は、明らかにされていない。80歳になったモーセが燃え上がる柴の中から声をかけられてエジプトに遣わされ、エレミヤはまだ母の胎の中に造られる以前に神に知られ、立てられて預言者となった。パウロはクリスチャンの迫害に懸命になっている最中に召されて福音の宣教者となった。そこに、私たちも神の一方的な恵みを見るわけだ。

現代の伝道者も、預言者・使徒と同様な「選び」と「召し」があって、立てられているものなのかどうか。これらは類比しやすい立場にあるものとは言えるけれど、厳密にそうなのかどうかについては、精査が必要だろう。

ここでは、新約聖書に現れている「召し」という言葉に注目するにとどめたい。使徒以外に、個人的に「召し」が語られているのは、テモテについての以下の記述ただ一つだけ。「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」(1テモテ6:12)

これは、テモテが伝道者に召されたことを言っているのか。文脈を見ると、パウロがテモテについて言っていることは、「信仰の戦いを立派に戦い抜いて、永遠の命を獲得」することのために召されているのだ、ということ。そのような目標のもとに召されているからこそ、多くの証人の前で、立派な証しをしたのではないか、と回想を促しているわけだ。「伝道者への召し」を直接的に言ったものであるのかどうかは、ここだけをみる限りでは明確ではない。信仰の戦いを戦い抜くことや永遠の命を獲得するために召されているというのは、すべてのクリスチャンに当てはまる内容だからだ。

「召す」という言葉は「KALEO」というギリシャ語で、ヘロデ王が東の博士たちを「ひそかに呼び寄せた」ところでも使われているし、イエス・キリストが弟子を一人ひとり「招く」場面でも使われている。それに対して、パウロがこの言葉を最も多く用いているのが、教会に関して。教会は神に呼び出されたものだ、という観念が非常に強い。諸教会への手紙の中で30回、テモテへの手紙の中で2回だけ現れるが、その32回のうち31回は教会への召し・招き。

実際、冒頭の御言葉も、「兄弟たちよ」という呼びかけと共に使われているもので、教会に対するパウロの言葉。教会の中の特定の人物に対するものではない。たぶん、多くの教役者は、この御言葉に続く「無きに等しい者を、あえて選ばれた」(1コリント1:28)に感動を覚えるはず。直接・間接に、伝道者としての召しへの確信を支えてくれる御言葉だろう。僕自身、何度、これらの御言葉に励まされて奉仕を続けてきたことか。

気になるのは、教会の中で「自分は召されていない」と思っている人たちに対して、こうした御言葉は本当に無関係なのだろうか、ということ。パウロの手紙に繰り返される「召し」は、個人に宛ててのものではなく、教会に対するもの。教会全体が受け止めるべきなのに、特定の人だけでとどまってしまっていないだろうか。世界宣教への召しは教会内の特定の誰かに対して与えられているものではなく、教会全体へのもの。

伝道者だけが召されているのではない世界宣教。地方教会の一体性という中で、そこから次に、自分はどの働きを担うべきか、自分にはドンナ賜物が与えられているのか、ということを考えなければならない。教会への召しを確信した人に対する神様のお取り扱いは、続く。


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