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キリストの終末預言(4) 苦しみに会う時

マタイ24章9-14節

「世の終わり」でイメージするのは、どういうわけか、良くないことごとが多いような気がします。

たぶん、聖書の「預言」と言ってすぐに思い起こすのは黙示録なのです。「地獄の黙示録」という映画があるほど、「黙示録」には悲惨なイメージがついて回ります。様々な災害が、実際、描かれているからです。

それらは「血の報復」(黙示6:10)に神の怒り(黙示6:16)が盛り尽くされる時だからです。

誰の血に対する報復? 誰に対する怒り?

出来事の予告

産みの苦しみの「はじめ」は前兆についてでした。苦しみそのもの、「そのとき」が来ると何が起きるか、ということが、ここから箇条書きのように語られます。

想定外の災害が突然襲ってきたら、恐れや動揺はそれ相応に大きく、また、後を引きます。あらかじめ想定していたら、その事態になった時に、心備えも実際の対処も、かなり違うはずです。

さて、これらは弟子たちに向けて語られているのですが、前提には、旧約預言を知っていることがありました。弟子たちは、ある程度の予備知識があったからこそ、「終わり」について質問してきたのです。

その前提は、ダニエル預言です。15節にはっきりその名が出てきます。9-14節は、その前の部分の事柄だ、ということです。

彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
ダニエル書 9章27節

「一週の間」に起きることごと。その週の半ばに変化があり、「荒らす者・憎むべき者」が登場します。つまり、「週の半ば」の前が、キリスト預言のこの箇所だと考えられます。

そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
マタイ24章9-14節

出来事を箇条書きにしてみます。

(1)苦しみにあう:殺害、全ての民に憎まれる(9節)
(2)多くがつまずく: 互いに裏切り憎み合う、偽預言者が多くの人を惑わす、不法がはびこり愛が冷える
(3)患難時代には終わりがある: 終わりまで耐え忍ぶ者は救われる、御国の福音は世界中に伝えられる

ここに描かれていることは、現在も起きるようなことに見えます。

弟子たちが迫害され、殺されるような事態は、日本でも歴史に残っています。

もっと早い時期、キリストが昇天して間もなく、使徒たちへの迫害が始まり、数年もたたないうちに、その一人が殺されます。それを皮切りに、現在に至るまで、世界のどこかでキリスト者に迫害が襲い続けています。

けれども、「世界戦争」同様、世界規模で同時に起きることの預言だとしたら、話は違ってきます。ここは、世界規模で組織的、計画的に迫害が進むことを言っているのだろうと考えられます。「すべての民に憎まれる」のです。

つまり、新しい時代が始まる前の産みの苦しみの時は、世界規模での迫害、弟子にとっての患難時代だ、と言うことです。ダニエル預言の人物による一週間の堅い契約の期間です。

「あなたがた」って、だれ?

ところで、産みの苦しみに遭う「あなたがた」とは、だれのことなのでしょう?

オリーブ山で質問しにやってきた弟子たちに、面と向かってこれらを言っていたのですから、聞いていた弟子たちは、夢破れて、という思いになったかもしれません。そんな苦難を経ないでは新しい時代にならないのか、と。

でも、2千年の間、世界規模での迫害はまだ起きていません。その時を迎えることになるのは誰なのか。

大きく、二つの考え方があります。キリストの弟子と呼ばれる人々のすべて、というのが一つ。もう一つは、キリストの弟子はこの患難期の前に天にあげられ、残された人の中からその期間に回心した新たな弟子たち。

二つ目の考え方の中心にあるのは、イスラエルです。いわば、第二のバビロン捕囚と言えるような試練の中に置かれて、ずっとイエス・キリストを認めなかったイスラエルが最終的に認めるに至る、というものです。

イスラエルに話を限って言うなら、一つ目の「キリストの弟子と呼ばれる人々のすべて」の中に途中からイスラエルも加えられることになる、という可能性もあるわけです。

カギは、32節以降の教えだろうと思います。この問題は、そこでもう一度考えてみます。ここでは、最後にこの患難の意義を振り返っておきます。

神の呪いと誓いと怒り

イエス・キリストに世の終わりのことを質問してきた弟子たちの脳裏にあったのは、ダニエル預言だっただろう、と考えられます。

ダニエル書の9章は、ダニエルの祈りで始まっています。その祈りの中に、神に背いているイスラエルに対する神の呪い、誓いと怒りが言及され、あわれみによる赦しを乞い求めています。

ダニエルの自覚しているイスラエル民族の罪がまず宣べられています。

「われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。 6われわれはまた、あなたのしもべなる預言者たちが、あなたの名をもって、われわれの王たち、君たち、先祖たち、および国のすべての民に告げた言葉に聞き従いませんでした。」(9章5,6節) 

その当然の結果を告白します。

「まことにイスラエルの人々は皆あなたの律法を犯し、離れ去って、あなたのみ声に聞き従わなかったので、神のしもべモーセの律法にしるされたのろいと誓いが、われわれの上に注ぎかかりました。これはわれわれが神にむかって罪を犯したからです。」(9章11節)

赦しを乞う祈りになります。

「主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。」(9章16節)

バビロン捕囚というイスラエル民族の患難に対する、ダニエルの認識と赦しの祈りは、終末の預言にも無関係ではないだろうと考えます。世界規模の患難の意義は、この世に対する神の怒りの現われであり、あらかじめ記されているのろいと誓いの成就でもある、ということです。

その怒りの中心にいる「弟子たち」とは、その時点まで背き続けていた人たちなのでは、と思えるのです。

続き


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