マガジンのカバー画像

ドリアンのバイブル・ワールド

22
世界のロングセラー、ベストセラー、聖書を、日本の外に視点を移して読んでみたら・・・
運営しているクリエイター

#愛

ドリアンのバイブル・ワールド

こんにちは、インドネシアのドリアンです聖書を読み始めたのは、1980年頃だったかと思います。それから、40年。 聖書は読めば読むほど味わいが深まります。インドネシアに来て30年ですが、日本では味わえないことごとも合わせ、聖書への視点も変わったように思います。それで、自分なりに教わったこと、思ったことなどを書いてみようとはじめて20年くらい。HTMLの基本形でちまちまとサイトを自作してたのも今は昔。 また新しい媒体で、新たな気分で始めようと思います。古いコンテンツも、折々ノ

愛を信じられないのは、、、―ヨハネによる福音書―

信じることが大切で、何を信じるかはそれぞれでいいだろう、と思っていた。本当の神なんてそもそもいなくて、人がそれぞれに心に信じているだけなんだから、と。そんなことを考えていた自分は、それじゃあ、たとえば、親のことはどれだけ、どのように、信じていたんだろうか。 何をしても許してくれる、自分のことは信頼してくれている、と、信じていたんだろうか。だから、身勝手に何でも自分で決めて、勝手に行きたいところに行って、やりたいことをやっていたんだろうか。親は自分を愛してくれていると、信じて

「愛」の定義

人を好きになる、って、不思議です。一緒にいたい、という気持ちがこうじて、ずっと一緒にいたい、となっていくのですが、ずっと、となると、そこにはまたそれなりの問題が、、、、 インドネシア語で、kasih と cinta と二つの言葉があります。どちらも普通は「愛する」と訳されるもの。cinta は恋愛で、聖書で使われる愛は kasih がほとんど。教会の青年女子に、この二つの言葉はどう違うの、と尋ねてみました。そしたら、kasih は大きくて、すべての人に向けられるもの、cin

愛 ―強いられてではなく自ずから―

愛が一つになることへの強い思慕と言う時、相手を無理強いすることはできません。相手にも自ずから愛が生まれるように接するのが愛。無理強いするのはただの占有欲にすぎず、愛と真逆のものです。 3千年前に書かれた旧約聖書の「歌の中の歌」と呼ばれる雅歌に、こんなワンフレーズ。「ソロモンの知恵」で有名な、ソロモン王が書いたものです。 エルサレムの娘たちよ、 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、 あなたがたに誓い、お願いする、 愛のおのずから起るときまでは、 ことさらに呼び起すことも

愛 アガペー

新約聖書の中で、最初に「愛」という言葉が出てくるのはマタイ3:17 「これはわたしの愛する子」”ἀγαπητός アガペトス”(形容詞)です。名詞が ”ἀγάπη アガペー” 、東京駅の前に建つ「愛の像」にも「アガペー」の文字が彫りこまれています。 聖書のアガペーとは、一つになることへの純粋で強い思慕です。イエス・キリストの誕生に際して、マタイが引用している言葉にも、それが表されています。 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである

バッシング

bashing と bussing の2つがあるとは知りませんでした。前者は叩くこと。後者は下げること。カタカナにすると違いが全然わからないところが、なんだかおかしいですね。 「下げる」バッシングは飲食店の業界用語、だそうです。昔、ファミレスでバイトをしていたことがあるのですが、この言葉は聞いたことはありませんでした。空いた食器を下げること。ウエイターとは別に、下げ専門の人、確かにいますね。日本では見たことありませんが。(そういう給仕がいるレストランに入ったことがない、とい