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愛 ―強いられてではなく自ずから―

愛が一つになることへの強い思慕と言う時、相手を無理強いすることはできません。相手にも自ずから愛が生まれるように接するのが愛。無理強いするのはただの占有欲にすぎず、愛と真逆のものです。

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3千年前に書かれた旧約聖書の「歌の中の歌」と呼ばれる雅歌に、こんなワンフレーズ。「ソロモンの知恵」で有名な、ソロモン王が書いたものです。

エルサレムの娘たちよ、 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、 あなたがたに誓い、お願いする、 愛のおのずから起るときまでは、 ことさらに呼び起すことも、 さますこともしないように。雅歌 3:5

そんなこと当たり前だろう、って思うのですが、現実世界は、そうではないことが横行するところ。

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旧約聖書の重要人物の一人ダビデ王に、アムノンという男の子供とタマルという女の子供がいました。この二人は異母兄妹。アムノンはタマルに恋をしてしまいます。王家の一族ですから、普段の住居は別にあり、しかも昔のことですから男女が自由に会うことなど許されない社会。それでアムノンは仮病を使ってタマルが自分の寝室に来るようダビデ王に願いを出し、料理を持ってやってきたタマルを犯してしまいます。しかも、すぐに恋の熱は冷めてしまって、今度はタマルを追い出すのです。タマルの実兄はこのことで数年後にアムノンに復讐し殺すという、更に大きなスキャンダルに。(サムエル記下13章)

ちなみに、ソロモンも彼らの異母兄弟でした。

自分勝手に好きになっても、相手がどうにも思い通りにできないとき、力づくの手段に出てしまう。しかも、熱くなった感情はすぐに冷めてしまう。遠い国の遠い歴史の出来事とは思えません。

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この猫が好き、この食器が好き、この車が好き、この風景が好き。好きなものをいつも身近においておきたかったら、好きなところに住んで、好きなものを身の回りにおいておけばいい、のですが、猫だって、嫌だったら逃げてしまうかも。なおさら人間は。物を扱うようにはいかないのが、心です。

愛する気持ち、感情と言っていいでしょうが、でも、感情だけに収めきれないのが、聖書の教える愛です。感情の流れに身を任せるのではなく、愛はまず学ばなければならないことが、聖書を読み続けているうちにわかってきます。神が自分を愛してくれていることは、聖書からだけはっきりと知ることができるものです。神が自分と一つになりたい、という強い思慕を持っていて、でも無理強いにではなく、愛が生まれるように、聖書を与えてくれている、のです。

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全能の神であるなら、いくらでもやりようはあるだろうに、と思ってしまいますが、そうじゃないところが真実な神の真実さだとじわりとくるところ。ただ、真の衝撃は神の愛からくる犠牲の大きさを知るときに受けることになります。それが、はじめ聞いたときには、なかなかわからなかったのですが。数年かかってようやく心にストンと落ちたとき、何故かあふれる涙を抑えられなかったこと、忘れられません。

キリストの贖いの犠牲。そこに愛があるなんて思いもよらないじゃないですか。

わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ人への手紙5章6-8節)

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