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「『タカラジェンヌである前に一舞台人である』前にタカラジェンヌである」ということ~ひとまず『鴛鴦歌合戦』について

本当にしつこくて申し訳ないのだが、退団公演の大千秋楽で「舞台は生き物だから」と言った真彩希帆を「生き物じゃなくてなまものだよ、まあやちゃん」と幼き者を教え諭すようにやんわりとしかし有無を言わさず諌めた望海風斗には、生田大和との対談で「わたしは宝塚に関しては中華思想」などと言っておきながらさっさと退団した上田久美子と、連載コラムで謙遜のあまり自らを不美人と称した早花まことともにいまだほんのりとした怨嗟を抱いているし(なんなら孫子の代まで語り継ぐ勢いで)、一瞬時間を停止させつつも「あーそうですね勘違いしてましたたしかになまものでしたね!」とあわてて、かつて自分の口からその言葉が吐かれたという事実ごと遡って打ち消すかのように、なおかつその経緯にほんのひとさじの疑念を差し挟む余地が生じる隙さえ誰にも許さぬかのような執拗さをもってだいもんの指摘を受け入れたという身の証しと望海風斗という人物の絶対的な正しさをアピールする真彩希帆の多動的な仕草に存在論的哀しさのようなものを読み取ってしまったことを、昨今の真彩希帆によるやはり多動的とも言えるinstagramの日々の更新のなかの何気ない画像の端々からどうしようもなく滲む得も言われぬ寂寞さを勝手に感取しながらふと思ったりもするのだった。

ところで2023年といえば宝塚にとって記念すべき110周年の1年前であり、翌年にはどうせメモリアルでイヤーンでボーンな宝塚的ブロックバスターばかりを連発していくのは火を見るより確定的に明らかなのだから、それまでの猶予を雪組『BONNIE & CLYDE』と花組『鴛鴦歌合戦』を心の拠り所に耐え忍ぶしかないと覚悟はしていた。そのような意味では先日発表された2024年前半の怒涛のラインアップには何の驚きもなかったのだが、とはいえ宙組の! 大野拓史作演出による! 藤原定家に想を得た! 新作和物ショー!! の発表にはさすがに雄たけびを上げたし、月組の正塚晴彦大劇場新作は素朴に嬉しいし、そういえば今年も博多座ミーマイがあるなー、伝説の霧矢大夢ミーマイ@博多座の記憶がよみがえるなー、何らかの布石なり先触れだったらよいなー、という感じに何のかんので結局それなりに忙しない日々を過ごしそうな予感もあるが、それはともかく花組『鴛鴦歌合戦』『GRAND MIRAGE!』の二本立てにいまは心の底から参ってんですわ。

『鴛鴦歌合戦』『GRAND MIRAGE!』は柚香光というスターの特性も含めて、劇場での舞台生観劇でないとちょっとわかりにくい、ともすれば誤解さえされかねないのではないかといらぬ懸念をおぼえてしまうという点でも近年もっとも「正しい」(オーセンティシティという意味で)二本立てだなあと思った。

作品の舞台は花咲藩の城下町、三年ぶりに歌合戦が開催されるという瓦版屋の報せから作品は始まる。歌合戦とはいったい何なのかどういう目的で開かれるのかなぜ三年ぶりなのか等々その仔細は最後までよくわからないが(最後のはまあアレのナニによる休演の被害がもっとも顕著だったのはやっぱり花組なんだよなあ、という事実に思いを馳せてしまうのだが、とりあえず劇中事実としては)、ただ普段から歌合戦の予感に町中がうっすら浸され、ふんわり浮き足立つ様子が、長屋の裏から響く町のアイドルおとみちゃんのお尻を追いかける取り巻きたち大名行列の呑気で高らかな歌声と、それを遠巻きに聞く志村狂斎のつぶやきによりうかがい知ることが出来る。

で、宝塚大劇場での観劇後、ふとした気まぐれでいつもは通らない細径をうねうね通り抜けて遠回りに宝塚駅へ向かうさなか、この方々で歌が飛び交い、"歌合戦"の予感に住人たちがつねに浮き足立つ街ってつまりは宝塚の街だよね、ということにはっと思い到ったのだった。実際には宝塚大劇場は欠かせない町のランドマークではあるものの住人の多くにとっては風景の一部でしかなく、劇場がそこにあろうとなかろうと各人の生活は他の土地と変わりなく営まれるのみなのだから、それは理想化された夢の街としての宝塚にほかならないし、劇中にあっても政治の不在であったり、お世継ぎ問題の悩みであったり、差別や貧困であったり、誘拐や詐欺等の各種犯罪であったり、「登場人物は善人ばかり」と役者たちからは言われはするものの終盤の大立ち回りでは真剣が持ち出されもするわけで、そもそもその大立ち回りの発端は権力者による町娘の拉致の企てだったりするのだから決して穏やかではない。だが瓦版売りと鶯嬢たちが歌うように歌合戦は老若男女参加は自由なのだし、また礼三郎がお春ちゃんに示唆するように歌のもとでは何人も平等なのだ。それって国民劇としての宝塚の理念そのものじゃないか。そしてその根城としての宝塚大劇場にとって、"国民"とは宝塚を観た国民とまだ宝塚を観ていない国民の二種類しかいないのだ。

結局歌合戦は中止となり、歌合戦中止の報もまた歌で公示される。開催の報せと同じメロディを、歌詞を変え、歌唱パートを瓦版売りと鶯嬢の間で入れ替えっこして、物語を鉤括弧に括るように対比させて歌っていてかわいらしい(発声練習ア・ア・ア・ア・アーがだいすき)。そこでふと宇月颯がGANMI×宝塚歌劇 OG DANCE LIVE 『2STEP』の宣伝番組で言っていたことを思い出した、正確な言いまわしはわすれたけど、宝塚にとってダンス=舞踊は歌や芝居と等価の一技能ではなく、それらのベースにあるものなんだということを退団後にあらためて思い知ったのだ、と。

いつの頃からか「タカラジェンヌである前に一舞台人」であるという自負が具体的にタカラジェンヌの口にのぼることは珍しいことではなくなったが、それでもなお彼女たちが一舞台人である前にタカラジェンヌであると思えるのは、彼女たちを基礎付ける営みとしてダンス=舞踊があるからではないか。「清く正しく美しく」というおなじみのスローガンは各自の営みにおける宝塚という空間の重力のあり方を端的に表現したものではないのか。そして花咲藩が宝塚の街であるのなら、そう見立てるのなら、プロローグと大団円(祝言)を切り分ける鉤括弧としてのふたつの歌に挟まれた劇中=作品時空において飛び交う歌とは、歌でありながら窮極的には"ダンス=舞踊"のことにほかなるまい。『鴛鴦歌合戦』はそういう意味で宝塚についての作品だと思ったのだ。

かつて"小柳奈穂子先生をメタフィクションのひと、とまで言い切ってしまうのはいささか躊躇いをおぼえる”と書いたけど、『うたかたの恋』での的確な潤色を経て今作の見事な翻案ぶりに到りもうそんな躊躇なぞどうでもよくなってしまったし(もちろんその前に『幕末太陽傳』という完璧なるお城を建設済みであることを忘れてはいけない)、むしろ一面では「宝塚のチャーリー・カウフマン」ではないかとさえ思いはじめてきたし実際そう口に出してしまった。『鴛鴦歌合戦』『めぐり会いは再び next generation-真夜中の依頼人-』『幕末太陽傳』も、それぞれ少しずつ違った意味で「脳内タカラヅカ」であり、「小柳奈穂子の頭ん中」だと思っている。

終盤、お春ちゃんが破壊したのは麦焦がしの壺であると同時に「麦焦がしの壺」が価値のある骨董品であることを証立てする"物語"であろう。『元禄バロックロック』でクロノスケはキラの目を欺き時計を投げたふりをして投げなかったが、お春ちゃんはしっかりとみんなの見ているところで壺を割った。割らなければならなかった。成金嫌いの礼三郎を引き止めるため……のみならず、礼三郎もまたひとたび地面に投げ打ってしまえばただの土くれとなる"物語"などに囚われることなく、自分勝手に幸せになってしまっていいのだ、ということを伝えるために。時間の檻に閉じ込められていたキラをクロノスケが解放したように、今度はお春ちゃんが礼三郎を"物語"から解放したのだ。

これは何度言っても言いすぎじゃない。『鴛鴦歌合戦』は星風まどかが柚香光を救う時空SFなのである。『鴛鴦歌合戦』は星風まどかが柚香光を救うことによって時空SFとなったのだ。そしてかつてクロノスケがキラから掠め取った懐中時計は、今作で鴛鴦の香合へと形を変え、星風まどかの手を経たあとふたたび柚香光の手に戻り、最終的に永久輝せあへと継承された。もちろんここで思い出すべきは『幕末太陽傳』で早霧せいなが拾い、修理をして望海風斗の手ににいったん返るも、再会の約束ともにふたたび早霧せいなに託される高杉晋作の懐中時計だろう(ついでにいえば佐平次は真彩希帆の負債までをも引き受ける。本当に巧み!)。立場が人を作る、だが本人がそれに逆らえば成るものも成らない、定めを受け入れることこそ生きる道だ、と礼三郎は峰沢丹波守に言った。

そういえば前にこんなことも書いていたが……。

星風まどかの転生ヒロインみ……というか相手役を流転する時間の中に繋ぎ止めるその出自不明の重力(アーニャは宣言することで自らをアナスタシアだと証しだてるにすぎない)を花組で再解釈したらデジャヴと約束になる、というのは何とも腑に落ちる話。畢竟時計は柚香光に手渡された”重力”なのだろう。

https://twitter.com/rakanka/status/1471090477764349955

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