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盗まれた結末〜『めぐり会いは再び next generation-真夜中の依頼人-』感想

なんというか、前々作くらいはたしかスカステで観たんだったかなあ面白かったと思うけど……くらいの認識しかなかった人間としてまず思ったのは、漢字表記の組み合わせパタン多くね??? ということで、まあ「めぐり/巡り、会い/逢い/あい、ふたたび/再び」だからたかだか12パタンではあるのだけど、所詮は後知恵というか、ひとたびパタン多っ……と認識してしまったら後の祭り、けっきょくいまだSNSなり私信なりで自信をもって表記するには到らず、なんならIMEによって提示された過去の入力履歴に基づく変換候補を見てもどうにも座りの悪さを感じ、ほぼかならず公式サイトという権威にすがって答え合わせをせずにはいられない体たらくではあった(「めぐり逢いふたたび」だと杉良太郎だしね! しかし散々言われていると思うが小品とはいえ大先輩であり偉大なる先達でありれっきとした星組大スターであるところの柚希礼音夢咲ねねコンビによる人気シリーズを二作まとめて「三作目という本編」に到るための前奏曲プレリュードだったことにしてしまうとは、礼真琴様のスター力(ぢから)は本当に凄まじい。もちろんその凄まじさは劇場で拝見するたびに骨身に染むほど味わわされているわけだけど。礼さんが舞台に出てくるたびに体内時計が逆巻き、脳細胞を含む体内のあらゆる細胞がたちまち若返りはじめ、いつだって生まれたての赤子が目蓋をひらき世界で初めて眩しいものにまみえたかのような心持ちで客席に座っている)。

それはともかく、小柳奈穂子先生をメタフィクションのひと、とまで言い切ってしまうのはいささか躊躇いをおぼえるけれども(https://twitter.com/rakanka/status/1121247267745230849)、少なくとも道具立てはわりとすなおにというか、わかりやすくメタフィクションだなあとは思ったのだった。ルーチェの私的な物語(悔恨の記憶)からはじまるこの作品は、レオニードによって発起される「めぐり会いは再び」作戦と、オンブルによって企まれる王位簒奪の陰謀というふたつのテクストを軸に、体裁としてはセシルによってまさに書かれつつある物語として進行する。そして『真夜中の依頼人』というタイトルが付されたその原稿は最終的にはフォーマルハウトの手に渡り、やがて旅芸人一座によって上演されるであろうことが示唆されるのだが、そもそもすでに劇中では旅芸人一座がいたるところに顔を見せ、物語進行の媒介役として物語の枠組みを出たり入ったりしながら、アンジェリークの生まれにまつわる私的な物語さえ再現=上演してみせるのだから、なるほど、ということはセシルの書いた「セシルによって書かれつつある物語」を旅芸人一座が上演しているのがこの作品なのかめでたしめでたし……と済ませてしまうわけにはいかないのがこの作品の妙ではある。なぜならこの作品はテクスト間のイニシアティヴ闘争の物語でもあるからだ。ストーリーの進行と同時的にセシルによって書かれつつあるメタ物語もまたその軛を逃れ得ない。

(ユリウスが探偵事務所を抜け出しひとり夜闇に包まれるルーチェを追う銀橋~上手花道での、天寿光希の退団と礼真琴の星組での履歴を存分に滲ませたやり取りに、変装したレオニードが幽閉されているアンジェリークを訪う舞台下手での応酬がクロスフェードのごとく割り込んでくる一幕は、まさにストーリーのふたつの起源であるところの「ルーチェの私的な物語」と「アンジェリークの私的な物語」が舞台上でわかりやすくイニシアティヴ闘争を繰り広げる場面のようにも見える。レオニードとアンジェリークがストーリー進行上大事な話をしているのはわかるけど、ユリウスとルーチェが何をしでかすかわからないので目が離せない、嗚呼せめてわれが昆虫のごとき複眼持ちであったなら……という懊悩、煩悶。一つの大きな空間に部分と全体が明確なグラデーションをもってシームレスに広がっているのではなく、前景と後景が重ね合わされきれいに層を形成しているのでもなく、中心と周縁に隔てられ、そのどちらもが等しく中心化/周縁化され、相互補完的ではなく相互に邪魔をしながら、片方を見ているともう片方を見ることができないという葛藤にただただ観客は引き裂かれるほかない。きわめてコミック的というか、それぞれに中心化された二つの場面が画面の中央で押し合いへし合い、ときには砂埃や絆創膏の漫符を振り撒きながら場面どうしがつかみ合いの喧嘩をしてカットの主導権を争う……みたいな古のアニメ表現を想起させる妙味がある)

書きかけの原稿を「手近にあった紙」扱いされるという、オンブル一味による血も涙もない所業。アンジェリークを誘拐しおおせて「めぐり会いは再び」作戦を骨抜きにしたオンブル一味が、本来の目的=恫喝を達成する際にもののついでと言わんばかりにセシルの「書かれつつある原稿」を蹂躙することで、メタ物語の語り手としてのセシルとそのテクストの品位をとことんまで零落せしめ、みずからの優位性を高らかに宣言してみせたのだ。実際のところセシルは締切もろくに守れない駄目作家ぶりを披露するばかりで、無用の長物と思われた発明品が事件解決に奏功するアニスとは違って劇中あまり活躍の芽もなく、『真夜中の依頼人』を旅芸人一座のために書き上げたとて開き直りと泣き落としにより前作の報酬を袖にされるという有り様。そして不在でありつつそれゆえに舞台に遍在していた大怪盗ダアトは、最後までその尻尾を掴ませることなく聖杯を盗みさることでこの作品の結末さえも盗み去ってしまう=テクスト間のイニシアティヴ闘争に、闘争に参加することなく勝利するのだった。

結末の次に来る最初の一行としての作品タイトルに再度目を向けるならば、next generationを謳う以上この作品の主題が"継承"であることは疑いえないし、その傳でいうならこのテクストの中心はやはりアンジェリーク王女とその父コーラス王の関係性にあるのだろう。しかしながら肝腎のコーラス王が何を考えているかはよくわからない。継承、というか継承可能性に伴う不安に追い立てられて王女を人目から隠し、今度は情勢の不安定さに不安をおぼえて婿探しをはじめる……そのように第三者によって語られるし、コーラス王もまた後に同じように語りはするのだが。臆病で愛情あふれるコーラス王にとって拒むべきは継承可能性ではなく、継承可能性によって生じる悪しきこと(王女に降りかかる災難)だった。継承によって手渡されるであろう未来、そこには手渡される者にとって善いものも悪いものも含まれる、なにが善いのかあらかじめわかるものではないし、そもそも善いものだけ選り分けて手渡すことなどできない。ならばいっそ継承可能性ごと遠ざけてしまえば、未来などという不確定性を手渡す必要がなくなるではないか!

アンジェリークが「自分で身を護れるよう訓練してきた」と言いながら手にとった短刀の切っ先は、物理的には宰相オンブルに向けられていたが(息子の人格を無視して継承を強いるオンブルの姿は、コーラス王の陰画であると同時に、アンジェリークから未来=継承可能性を取り上げることで別の未来=花婿を押しつけるコーラス王の振る舞いの写し絵でもあったろう)本当の意味ではコーラス王の首元にこそ突きつけられていたのだ。そしてアンジェリークはちゃんとひとりで王に対峙し、未来を、可能性を奪い返した。「子供の話を聞くべきだ」とルーチェは言い、「お父様の力になりたい」とアンジェリークは言う。これもまた徹底して言語(をめぐる)闘争なのだった。

そうしてアンジェリークは掟の中に留まることを宣言し、ルーチェも跪きその手に口付けることによってそれに応える。だがここに至ってもなお思う、ひょっとしたらアンジェリークが王になるのだと信じているのは他ならぬアンジェリーク本人だけではないのか⋯⋯。だが今まで見てきたのは(銀橋でユリウスが謳うような)ルーチェが王になる決心をするに到る物語では断じてなかったはずだ。王子と呼ばれた少年が本物の王女様と結ばれて本物の王子様になってハッピーエンド。だがそれは果たしてアンジェリークの、舞空瞳の物語なのだろうか? その疑念を高く知らしめるかのように結末は姿の見えぬ大怪盗ダアトによって盗まれ、王位継承の物語は強引に宙吊りにされてしまうのだ。

ところで宙吊りといえば劇中序盤で探偵事務所チームによって口にされ、また歌われもする「モラトリアム」とはすなわち宙吊り期間のことである。彼ら探偵事務所チームはメタ物語の語り手セシルを擁することで先取り的に作品構造に言及するという特権を賦与されていたというわけだ。なんともはや。

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