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境界から半歩踏み出す~瀬戸花まりのこと

瀬戸花まりについて考えることが作品について考える上での大きな刺戟となったのはいつ頃からだったか、少なくとも彼女を舞台テクストにおいてほんとうの意味で「発見」したといえるのはやはり『白鷺の城』だったのだろうなとあらためて思う(広い意味で発見したといえるのは2016年のスカイステージ特番『2017へ夢の掛け橋、みんなで歌ってよいお年をスペシャル!!』で、猫耳をつけて宙組の下級生男役たちを従えひとしきり大暴れしたあとひな壇に戻って「見学モード」に入っていた彼女の耳に外し忘れたと思しき猫耳を認めた刹那心臓が(トゥンク……)と大きく波打ったのだった)(次にカメラに映ったときは見当たらなかったのでやっぱり外し忘れたのだろう)。

『白鷺の城』の中ほど、彼女は白拍子として舞台に現れ、銀橋に立ち、そこで文字通り小さく跳躍をした。ぴょこんぴょこんと跳ねたのだ。なんてかわいい! ……のみならず、それは決定的な瞬間だった。銀橋といういわば厚みを具えた線、広さを伴う境界を一瞬跳び越え、しかし越えてしまうことなく内側に留まったのだ。この所作、佇まいこそが瀬戸花まりなのである。たとえば『FLYING SAPA』のアンカーウーマン。はるか背後にその声の起源を持つ権力の代理人としての紫藤りゅう=スポークスパーソンに対し、瀬戸花まり=アンカーウーマンは集約された声をその起点として再度外部へと押しひらくという役割を持つ。彼女は門である。閉ざされることで内側に形成された領域を、ひらくことによって外部と接続する、内側とも外側ともつかぬ境界に貼り付いた厚みのない概念でありながら、物質としては断乎として内側に属する、そういうものとしてアンカーウーマンは存在していた。

あるいは『シャーロック・ホームズ』で瀬戸花まり=ヴィクトリア女王が担っていたのは、実在した人物として個人的趣味と妥当性のすり合わせによる選好のもと「公的に」シャーロック・ホームズに依頼をすることで歴史世界とフィクション世界とのあいだを架橋することであり、またゴールデン・ジュビリーという公的な場で、衆目環視のなか「行きなさい、シャーロック・ホームズ!」と一女王としての振る舞いでもって予定されたそのひとたびの死地であるところのスイス・マイリンゲンへと、すなわちフィクション世界へとふたたびホームズを送り出すことだった。そしてその身振りは『NEVER SAY GOODBYE』の占い師アニータへと引き継がれていく。神妙な節回しに乗せて真風涼帆=ジョルジュが三つの目を持つだのすでに心から愛せる存在に出逢っているだのと告げる彼女は占い師のつねとして物語を鳥瞰する者としての位置付けを与えられている。それでいながら彼女はあくまで世界の内側に留まりつづけ、ついには潤花=キャサリンを物語の外側に逃がす役割を自ら請け負うのだ。

そういうわけで、アニータはタカラジェンヌとしての瀬戸花まりを締めくくる役として申し分のないものではなかろうか、とひとまず大劇場公演が終わった段階で思うのだった。(いちばん思い入れのある役をひとつ挙げるとするなら『アナスタシア』のドーニャになるが……。腰を曲げ寒さにかじかんだ手をこすり合わせながら屋台の影から現れるその姿を、固く両足で大地を踏みしめながら歌うその声を、忌々しげに歪められたその顔を、吐き捨てられたその言葉を、髪に留められたあのコサージュを、纏われたあの色彩を)

(思えば響くだけで背筋がシャっと伸びるあの開演前の注意喚起アナウンス宙組ヴァージョンも彼女の声によるものだった。『FLYING SAPA』における彼女の配役には明らかにそのことが織り込まれていたのだと確信する。上田久美子先生ニクい奴)


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