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「ずっちのこと」番外篇/本郷のロル・V・シュタイン

台風で延期になっていた第2回『文学としての人文知』を聴きにいくにあたって、久しぶりにマルグリット・デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』(平岡篤頼訳)を手にとった。精神分析の立木康介先生が「まなざしのトポロジー  メルロ=ポンティ、ラカン、デュラス」と題して本郷で講演なさるのだが、その参照テクストに『ロル・V・シュタインの歓喜』が挙がっていたからだ。2016年の立木先生のご著書『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』を読んだとき、わたしは初めて『ロル・V・シュタインの歓喜』を見通せたと感じた。その体験があって、立木先生がデュラスについてお話しになる際は伺うようにしている。

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『ロル・V・シュタインの歓喜』は1964年、わたしが生まれた年にフランスで出版された。原書を一人で読んでいた80年代、参照できたのは1967年刊の白井浩司先生の翻訳だったが、日本語に少し無理があるように感じた。その後、平岡篤頼先生が日仏学院の授業で『ロル・V・シュタインの歓喜』を扱うことになって、先生とわたしたちは1年をかけて読んでいった。平岡版の訳者解説の日付は1996年12月になっているから、授業を受けていたのは95年度の1年間になるだろうか。手元の本には訳者謹呈のしおりが挟まっている。先生は97年のたぶん1月に、「この本ができるのを最も待ち望んでいた一人へ」とおっしゃって、新刊をくださったのだった。

本には多くの不揃いの付箋が貼り付けられたままだ。付箋の上には細かい字で疑問が書かれていて、その一つ一つに何らかの答えが与えられ、それらは紙にじかに書いてしまっている。訳書を読み込んで、どうしてもわからない点を先生にお尋ねしてはお答えをいただくという得難い時間が、今もありありと思い出される。デュラスの文章について、翻訳者である先生の間近にいて存分に質問することができるという特権こそが、わたしにとって何よりも大切だったのである。

今回、先生の「解題」及び「解説ーー《ロル・V・シュタイン》であることの代償」を読みかえしてみて、その少し古風な、内実のある言葉によって書かれた堅牢な文章の一つ一つの要素を、わたしはまだ読み尽くしてはいないことに気がついた。二十数年くらいでは先生の文章に近づけるはずもないのだが、あと二十年かけたとしてもそれは変わるまい。今更ながら畏敬の念を新たにする。

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本日、本郷でいただいたプリントには、『ロル・V・シュタインの歓喜』からの引用が二箇所載っていて、いずれも立木先生が訳されていた。それらを平岡訳と突き合わせて読んでみる。立木版『ロル・V・シュタインの歓喜』が生まれたなら素晴らしいだろう、と夢想する。







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