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古井睿子インタビューから古井由吉「遺稿」へ

二月に八十二歳で亡くなった古井由吉の最後の作品「遺稿」が新潮五月号に載っている。未完に終わったことが無念に思われてなかなか目を通す気持ちになれなかったが、六月になって『古井由吉 文学の奇蹟』(河出書房新社)が出て、末尾に掲載されている古井睿子インタビュー「夫・古井由吉の最後の日々」を読んだことで、これに続けてようやく「遺稿」を開いた。

「夫・古井由吉の最後の日々」

古井の妻・睿子さんが、夫の最後の四か月余り(主として二〇一九年十月の尿路感染症による緊急入院から二〇二〇年二月十八日夜の逝去まで)の見取りの日々をじつに淡々と語る。

十月の尿路感染症は抗生物質により良くなって退院するが、このときの検査でがんの「骨転移」が判明。十一月に再入院して、抗がん剤による治療を始めるものの、程なく緩和ケアに移行。古井は帰宅を強く望み、退院。残りの三か月近くを自宅で過ごす。毎日できていたことが次第にできなくなり(散歩をする、コーヒーを淹れる、トイレに行く)、抵抗していたものを受け入れ(介護ベッド)、気力も失われてついに「遺稿」の続きを書くことを断念するに至る。

十一月五日の入院前に三十枚は書いてあり、退院してからもう十枚書くつもりのようでしたが、結局それが書けませんでした。書けないということを早めにご連絡しないとご迷惑をかけると思いましたが、本人は連絡しようとしませんでした。彼が「新潮」の原稿についてきちんと話したのは、もうぎりぎりの二月十六日でした。(p.239)

古井が残りの十枚を書くことができないと認めたのは死の二日前ということになる。

「未完の原稿三十枚が原稿用紙に清書してある。タイトルが無いが、遺稿として「新潮」に渡すこと、誤字訂正などはすべて「新潮」にお任せする」ということでした。(p.239)

と続く。

インタビューの中には、この三十枚が清書された時期までは書かれていない。

「遺稿」「夫・古井由吉の最後の日々」に記された時間経過をすり合わせてみれば、そのあたりがわかるかもしれない。

その点を気にしながら「遺稿」を読んだ。

「遺稿」の時間の流れ

「九月も中旬、二百二十日にかかる頃に、台風がやって来た。」(p.8冒頭)

「十月の三日の夜」(p.12下段)の緊急入院・翌日「腎盂炎とひとまず診断」(p.13上段)

「十月の中旬に、また台風」(p.14 上段)

「翌日も月曜日だが休日」・その翌日退院(=十月十五日)/

「十月のなかばを過ぎても、雨もよいの曇天が続く。」(p.15上段)

「千葉県を中心に大雨が降り」「あちこちで洪水となった。犠牲者も十人ほど出た。十月も二十五日になっていた。」(p.15下段)

この洪水の「翌日の夕刊で家ごと水につかった空中写真を見せられ」(=十月二十六日)、そのさらに「翌日になってから」(=十月二十七日)千葉の知人宅に電話をしている。(p.16上段)

*以下、「遺稿」の時間を引き継ぐ部分を、「夫・古井由吉の最後の日々」で見ていく

「夫・古井由吉の最後の日々」の時間の流れ

検査の結果「肝細胞がんからの転移の確率が高いということになり」(十月二十九日)、「十一月五日に入院して翌六日から」抗がん剤「レンビマ」の投与が始まる。

痛みの訴えがあり、痛み止めが倍量になる。「十一日、「レンビマ」中止。

以後「緩和ケア」となり、「十五日から痛み止めに医療用麻薬になるお薬」が処方されるようになる。このことが医師から本人に説明されるのは「十九日」。

古井が「治療ができないなら早く家に帰りたい」と言う。

「二十一日夜からせん妄状態」、「自分で帰る」と「パジャマ姿で杖をついて廊下に出て歩き出し」たりしたため、「二十三日に外泊という形で退院」している。

それから古井は亡くなるまでの三か月近くを自宅で過ごすことになる。

*自宅での三か月*

この間、「車椅子で散歩しようと誘っても」応じず、「家の外に出たのは輸血のため病院に行ったとき、二回だけ」だったという。

ソファーで過ごすことが多くなって、「ただ座っていたり、読書したり、疲れて横になったりして」いたようだ。

「椅子が硬いと言って、書斎の机で読むとか書くとかすることは稀でした。」

インタビュアーの「お仕事はなさっていましたか。」との質問に、睿子さんは「もう書く気力は無かったと思います。」と答えている。

***

「遺稿」の三十枚が清書されたのは、「遺稿」及び「夫・古井由吉の最後の日々」の内容を照らし合わせると、まずは十月二十七日から十一月五日の入院までの間と考えられるだろう。

しかし、「原稿についてきちんと話をした」のが二月十六日だったのなら、治療を諦め外泊という形で家に戻った十一月二十三日からの三か月近くのどこかでーー書斎の机に向かうのは稀で、もう書く気力も無くなってからーー、「遺稿」三十枚を清書することはなかったろうか。

そんな想像をしてみるが、「遺稿」の書き手の意識は、まだこれからも生き続ける希望のある人のものだ。

「遺稿」に、尿路感染症の苦痛がなくなり退院を待ちわびる古井が、夜半近くに手洗いに立って、看護婦から「いま台風の眼に入っている」と知らされて、病院の窓から上空を眺めるくだりがある。

部屋にもどって窓からのぞけば、上空をあまねく覆って動かぬ暗雲のもとで、地表がほの白く、みずからかすかな光を放つように、遠くまで見渡せる。その全体の静まりのほかはどこと摑みどころもない風景だが、惹きこまれて眺めた。時間もしばし停まっているように感じられた。長年、時間に追い立てられるような、追い立てられるでもないのにその先を走ろうとするような、そんなふうにしてきたあげくに、ようやく、時間の停滞に消耗させられずに折り合っている自身を見た。あるいは寿命の境に入ったしるしかとも疑ったが、自己感は乱れず、子供の腰掛けのような小さな木の椅子にいつまでも坐りこんでいた。(p.14下段)

「あるいは寿命の境に入ったしるしかとも疑ったが、自己感は乱れず」と書いた古井は、このときはまだ、作品を書き終えるまでの時間があると信じていたのではないか。

退院後の古井は最終頁において、嵐の夜の光景を「一個の生涯の静まりのように自足して眺めた」自己と対比する形で、歴史の記憶(父祖の地の西美濃の水害とその治水工事の犠牲者たち)を次々と呼び込んでいく。

江戸期の西美濃の治水工事のために大勢の地元の民と、幕府から普請を負わされて遠征して来た薩摩の武士が犠牲になり、堤防の破れた責任を取って割腹した指導者も五十人にも及び、薩摩武士の遺霊が末長く西美濃の地に祭られたと知らされた時には、土地について生きるとはこういうまがまがしいものも負うことかと、私のような都会の人のうちにも、重い感動があった。(p.16下段)

そして最後の、段落を改めて書かれた一行が立ちあらわれる。

 自分が何処の何者であるかは、先祖たちに起こった厄災を我身内に負うことではないのか。

この一行に続く十枚が書けないということ、そのことを古井は死の二日前まで誰にも伝えようとしなかった。

末尾に(未完)と記され、その後に三行あけて、小さな級数で編集部によって添えられたことばを抜粋する。

著者が原稿用紙三十枚に清書した本作には、最後まで推敲を続けた跡が残されていました。

遺稿とは「未発表のまま死後に残された原稿」をさす。この作品は清書されて発表が決まっていたとはいえ、時間切れとなり推敲の途中で手放さざるをえなかったものだ。

そのような作者の執着があるとき、作品は「遺稿」と呼ばれるのだろう。

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