見出し画像

「思考を揺るがしてごらん」

ヨーグルの得意科目は英語だったらしい。
高校時代にはすでに洋書を読むぐらい、彼は英語が好きだったようだ。
小説家は国語が得意だとばかり思っていたので、ちょっと意外だった。

大学でドイツ語を学び、フランス語とラテン語を独学で学んだ彼は「日本語以外の言語を学ぶのは、小説を書くのにとても役立つ」と私によく言う。

確かに小説家って語学に堪能なイメージがある。

ヨーグルの知人小説家の中には帰国子女や語学の先生も多い。
私の唯一の小説を書く友人も高校の英語教師だ。
村上春樹は小説のほかに翻訳本も出しているし、夏目漱石や森鴎外といった文豪も英語やドイツ語に堪能だ。

先日、ヨーグルに「凛子はもう一度、英語か中国語を学び直すつもりはないの?」ときかれた。
「ないよ」と即答した私に、彼は残念そうな顔をする。

「今からでも勉強してみたら?」
「私、もう40歳半ばよ。今から語学の勉強なんて無理だよ」
「大丈夫だ。学生時代に基礎は頭に入れておいたから始めたら思い出すだろう。それに凛子はとても頭がいい」

不思議だったので、きいてみた。

「ねぇ、どうしてそんなに私に語学の勉強をすすめるの?」
「凛子は、もう何かを強制的に学べる環境にはいないだろ?だから自分から学んでいかなきゃいけない」

ちょっとショック(笑)
まぁ、確かに彼の言う通りだ。
専業主婦になって20年。お勤めだと新しい仕事を与えられたり、新しい環境に放り投げられたりで否応なく刺激されるんだろうけど、専業主婦はそういう機会が少ない。
毎日が同じことの繰り返しだ。幸いにも私はそれが心地よかったけど。

「異質なものを学んで、自分の思考を揺るがしてごらん。それは小説を書くうえで欠かせないことだ」

う~ん。確かに私は異質なものを学ぶ環境にはいないわね。

「興味のあることや好きなものだけを学んで、それを小説に書くという方法もある。でも、そうするとどうしても世界が均一になって、たこつぼ状態に陥る。世界が広がらない」

彼の言いたいことはよくわかる。

現在、私の娘は中学生だ。彼女の勉強は多岐にわたる。
英語を学び、国語や社会の文系科目、数学と理科の理系科目に音楽や美術の芸術系科目、体育があり技術家庭があり……。
そしてクラスメートと小さな社会を成立させるため、問題を話し合ったりルールを決めたりしている。

本人が興味あることを好きなだけ勉強させるほうがいいと考える人もいるだろう。でも、私は娘の現在の環境はとても大切だと思う。

もし娘に「好きなものを好きなだけ勉強しなさい」と言ったら、迷わず大好きな数学ばかり勉強するだろう。ものすごいスピードで数学の勉強を進めていくと思う。
それはそれでいいかもしれない。
でも、同時に危険なことだとも思う。

栄養バランスを考えていろいろ食べるように、頭脳も同じことが言えるんじゃないかな。
脳が著しい発達を遂げる10代の今に「いろんなことを好き嫌い関係なく取り込んでいく」ことはとても大事なことだと思う。

なぜなら、それはヨーグルの言う「世界を広げること」だからだ。

ヨーグルの言いたいことはわかった。
でも、どうしてそれが私に「語学」をすすめることにつながったのか。
今度はその疑問をぶつけてみる。

これがとても面白い理由だったんですが、なんか上手く書けない(恥)
ヨーグルの説明はわかりやすいし、理解もできたし、納得もできたのに……。
ヨーグルのことを書くと、こういうことが度々起こる。彼の言葉はインプットできるのに、それを自分の言葉でアウトプットすることができないのだ。
実は理解しているようで、していないってことなんだろうか。

ヨーグルの話をきいていたら、ある映画を思い出した。

「それ昔、一緒に観た映画でも言ってたよね?『メッセージ』とかいうやつ」

テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」を映画化したもので、数年前、ヨーグルにすすめられて一緒に観た。
地球上に降りたった宇宙船の謎の知的生命体と意思疎通をはかるため、言語学者の主人公がその知的生命体の言葉を解読しようとするSF映画だ。

ヨーグルに笑われた。

「あぁ、サピア=ウォーフの仮説のことだね。そこまでおおげさには言わないけど、そういうことかな」

この人は自分の好きなものを極めて、それを武器に書いてきた人だと思っていたが、実はそうではないのだろう。
異質なものをどんどん取り込み学び続け、少しずつ世界を広げながら書き続けてきたんだと思う。

「ラテン語なんて死んだ言語、なんで勉強してんの?」ときいた私に「ラテン語は死んでないよ」と彼が笑っていたことを思い出す。

彼の本棚には多種多様な本が並んでいる。
そこに、私は彼の世界を垣間見る。

好きなものを題材に小説は書けると思う。
でも、たぶん書き続けることはできない。

彼が小説家であり続けた理由が少しわかった気がした。