感性の多様性
あんたは色んなコンテンツを深読みするような楽しみ方をしているかい?
俺の場合、結構な頻度で「この作品のテーマは?」とか「この作品から俺はどういうことを受け取っているのか?」とか色々と考える癖がついている気がする。
ガキンチョの頃から宇宙戦艦ヤマトを見ちゃ~「このときのデスラーはどんな気持ちだったんだろう?」とか考えるタイプの子どもだった。
#きっと嫌な子どもって言われるタイプ
でもマンガのチョイスは必ずしも深読みを推奨するようなものには限っていなかった。
今回はガキンチョの頃に読んでいた作品をガキンチョの俺がどう楽しんでいたのかってのを振り返ってみようって回だ。
まあ、はるか昔の話にちっと付き合ってくれよな。
ジャンプ黄金世代
まあ、多分ヒトによってどの時代がそれかって意見は分かれるとは思うんだけれども、俺のガキンチョの頃のジャンプは神がかっていたと思うんだ。
キン肉マンに北斗の拳、奇面組にキャプテン翼。
Drスランプにキャッツアイと未だにキャラクターが世の中に生き残っているような作品が目白押しだ。
ってか、この時代を子どもとして過ごしていた俺たちが世の中回している世代になっているんだから自然っちゃ~自然なのかもしれない。
あり?でもこの時代のジャンプ作品って、俺自身は作品を深読みして楽しんだって記憶はない。
純粋に「オモロイ」って思って読んでただけって印象が強いんだよな。
北斗の拳を無理り深読みしようとしてみる
深読みしてなかったのは俺がガキンチョだったからなんだろうか?
じゃあ、試しに今「北斗の拳」を深読みするってのができるんだろうか?
確かに男の友情や男女の愛情などテーマは深さを内包しているとは思うんだ。
でもさ、俺らが北斗の拳をどうやって楽しんでいたのかって考えるとそう言うテーマとは別の部分だったと思うんだ。
シンプルに「ラオウ強えぇ!!」で楽しんでいたわけだ。
強い敵がいて、その敵を乗り越えていく主人公がいる。
それだけで俺たちはその世界観に熱狂していたわけだ。
楽しみ方としては水戸黄門のそれに近いものがあったのかもしれない。
いわゆる勧善懲悪、予定調和の楽しさってやつだ。
小学生にとっての娯楽
そう考えてみると宇宙戦艦ヤマトもデスラーの気持ちに思いをはせながらも、同時に「波動砲スゲー」って楽しみもあったと思う。
こう言うシンプルに「スゲー」って思う娯楽を楽しんだ経験ってもしかしたら小学生にとっては大切なことなのかもしれない。
だってその「スゲー」が「なりたい自分」ってものにつながっていくのは普通に想像できるもんな。
もちろん大人になっても波動砲は作れないし、かめはめ波だって撃てない。
ただ、そう言う「ただ昇りつめていく」って仮想体験は俺たちが大人になってからも意味を持っていたんじゃないかって思わないかい?
その意味では少年ジャンプは俺たちにとってサイコーの娯楽でありながら、人生のバイブルでもあったってことなのかもしれない。
今の子どものバイブル
じゃあ、今の子どもにとってのバイブルって何になるのか?
こいつが俺たちの時代と圧倒的に違うところだと思うんだけれども、コンテンツの量がえげつない。
時代を共有していても、同じものを「あれオモロかったよねぇ」と語り合うことは今の子どもたちには難しい気がするんだよな。
俺たちのように誰でも見ていた「北斗の拳」は今の時代にはないってわけだ。
この状況は何を生み出すんだろう?
昨日、あれ見た?オモロかったよなぁって語り合えない小学生。
月曜日の朝に「全員集合」について語り合えない小学生。
いや、「ひょうきん族」でも良いんだけれどさ。
それって俺たちが全く経験していない世界なんだよな。
ヒトによって小学生の頃から「進撃の巨人」で描かれる状況を深読みするやつもいれば、「ケロロ軍曹」の笑いに興じるやつもいるんだと思う。
感性の多様性ってやつが出現しているわけだ。
こいつはなかなかにムズい。
なんつってもそのことを経験していない俺たちが大人として子どもを導かにゃならん。
おそらく子どもたちに「こう言う楽しみ方があるよ」って言うことが精一杯ってところなんだろう。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは子どもたちに感性の多様性にどう対応していけばいいと伝えれば良いんだろうか?
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