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自分が表現しないこと
あんたは日々の発信の中で心がけていることがあるかい?
このあいだ、フォローさせてもらっている石山さんの記事でこの記事を読ませてもらったんだ。
この記事に書いてもらっていることで、俺に刺さった話があったんだよ。
どんなことを書かないかにヒトの矜持が現れる。
そんなことを書いてくれていたんだ。
これさ。
確かに俺は意識的に発信するときに避けている内容とかあるわけよ。
で、それが「矜持」なんていう高尚なものなのか?って問われると悲しいことにちっと違う気もする。
どっちかって言うと「逃避」だな。
でも良いんだよ「矜持」ってことにしとこうぜ。
今回は何を発信しないのかを整理してみる回だ。
ちっと俺たちの「矜持」を掘り起こしてみようぜ。
感情だけで誰かを否定すること
俺の場合、「感情的に誰かを否定する」ってのがたまらなく嫌いなんだよね。
まあ、俺もヒトだから誰かのことを感情的に嫌悪するってことはあるわけよ。
でもそれを発信に乗せるのはあんまり意味を感じないのよ。
いや、表現方法によっては何かしらの意味を持たせることは可能だと思うけれど、俺にはそのテクは無いって感じているんだよね。
なんつーんだろうな。
感情を誰かと共有するのってめちゃくちゃ難易度高くないか?
例えばさ。
なんか、えらいヒトが子どもに性暴力を働いたとか言うニュースを見たときに感じる感情ってのがある。
「ううん、キモい」ってシンプルに思ったとする。
たぶん、この負の感情そのものは共有することは出来ると思う。
ただ、「そのえらいヒトがなんでそんなことをしちまったのか?」ってことに対する感情ってのが俺の場合まじるんだよね。
そこに意識を向けると、もはや感情じゃなくて思考の路線になってくる。
そうなんだよな。
俺の場合は、感情をストレートに表現するテクが無いので、一旦理屈に落とし込まないと「誰かに何かを伝える」ってのが出来ないんだよな。
表面だけで考えない
感情だけで書かないってのとほとんど同じかも知らんけれど、出来るだけ物事の表面だけをなぞるようなことは書かないようにしているように気を付けている。
いや、俺の解釈能力や考える力が足らんくて、結果として表面をなぞるだけになっちまうことは結構あるとは思うんだけれどね。
考えるってことって、俺にとって俺のアイデンティティだと思ってるんよ。一応は。
もちろん正解に至れないことなんて普通にあるし、俺が正解だと思ったことをあんたに押し付けることもしたくはない。
それでもさ。
「こんなことを考えるやつがいる」ってのがあんたに伝わったならさ。
それこそが、俺が求めているものそのものなんだと思うんだよね。
そのために必要なもの。
それは一旦考えたことをもう一回考えてみる。
それしかないんじゃないかとも思っているんだよな。
さっき書いた、性暴力をふるってしまった教師のヒトの話もさ。
シンプルに感じれば問答無用でダメなやつじゃんか。
そんなんは罪をおかした本人ですら認識しているはずなんだよな。
でも性暴力は起きてしまった。
なぜか?
そこをだよ。
俺もあんたも考える、もしくは想像するってことで産み出される価値ってのがある気がしないか?
本心からその加害者は「悪いことをしていない」って思っていたのかもしれない。じゃあ、その悪意の定義が俺たちと食い違ってしまったのはなぜなのか?
加害者がが「悪いことをしている」と感じながら罪を重ねていた。
ならその罪を実行に移すというきっかけは何だったのか?
ことが起きてしまった状態で、良心の呵責に苛まれていないのか?
被害者のメンタルはどうやってケアしていくのが正解なのか?
もうさ。
いくらでも出てくるんだよ。
回答のない疑問ってのがよ。
何?そんな辛いことをなんで考えるんだって?
だってよ。
かわいそうじゃんか。
罪をおかしたヒトも罪の犠牲になったヒトも、その悲劇を理解することもできない周囲のヒトも。
そして、その事に無関心を装っている俺たちも。
なあ、あんたはどうだい?
俺たちは何を発信し、何を発信しないようにしているんだろうな?
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