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いじめと集団

あんたはいじめってことについて考えることがあるかい?

当たり前のように「いじめ」ってものは悪であるという認識は浸透しているけれど、いっこうにいじめがなくなったって話は聞かない。

っていうか、そもそも「悪」という枠にあてはめられた事柄でなくなったことってぱっと思いつかないよな。

政治と金の問題だってなくなりゃしないし、家庭内暴力の話だって毎日のように流れてくる。
まあ、それを言ったら「善」という枠にあてはめられた事柄もなくなっちゃいないのかもしんないけれどさ。

やっぱりヒトが生き物である以上は危機回避の本能が働いて「悪」ってものの存在を目ざとく見つけちまうってのもあるのかもしれないな。

そう考えると物事を善悪でとらえることそのものにはあんまり意味がないのかもしれないとも思えてくる。

ただ、その考えに至ったとしても俺は「いじめ」がなくなってほしいと思っていることには変わりがない。

それはなんでなんだろう?

今回はいじめに対する俺の感情を言葉にしてみる回だ。

ちっと俺の言葉遊びに付き合ってくれよな。

善悪の存在意義

まず最初に整理しておきたいのは「善悪」って言葉からって思ったんだ。

この善悪ってのはホントに俺たちにとって分ちがたい価値観として心の根っこの方に刷り込まれていると思う。

特に日本のように神道の基準での価値判断が根付いている環境で育った俺らは、諸外国のヒトに比べてその刷り込まれっぷりが強めに出ている気もする。

そう考えると、やっぱり教祖や経典がない宗教って結構すごいんだよな。
なにしろ「正義」が「お天道様」というめちゃくちゃ実態を伴ったものでありながら、その「正義」の解釈方法がヒトの数だけ存在する。

なので、神道を前提にした宗教戦争ってのはあんまり聞いたことがない。

仏教なら比叡山延暦寺だとかの武装した僧侶の歴史は聞いたことがあるけれどね。

この周囲にある無数の正義に見張られている。
それが俺たちの根っこに根付いている「善悪」という価値観を生み出しているって思うんだよな。

いじめの存在意義

で、いじめ。

いじめってのも究極的に言えばこの周囲にある無数の正義ってのが生み出した現象であるような気もするんだ。

ホントは一人ひとり違う善悪を抱えていながら、その孤独にヒトは耐えられるようには出来ていない。

何しろヒトという生き物は同族と協力するという特殊能力をもって今の状況まで生き抜いてきた存在だもんな。

で、その特殊能力を生かすためには虚構が必要になる。

それは価値ある何かという物語で、目の前には実態がないことが多い。
宗教しかり、貨幣の価値しかり、国という概念しかりだ。

この虚構の一つに「あいつなんか嫌だ」ってのが取り上げられたとき。
それがいじめにつながっていくんだろうって思うんだよな。

つまりいじめってのは徒党を組むための方便ってわけだ。

それでもいじめを認めたくない俺

そう考え始めると、「そりゃいじめはなくせないわ」って思うんだけれどね。
それでも、それでもさ。
嫌なんだよ。いじめ。

俺たちが力を手に入れて、自分たちの生活を安定させるためにいじめが機能している面があるってのが真実だとしても、逆にその安定ってホントに意味があるのか?って言いだし始めたくなっちまう。

そんな言葉ですら、新たないじめのタネになりかねないのにね。

今という世の中は流通する情報量がドンドコ増え続けているせいもあって、価値観がドンドコ細分化されて行っている。

多様性が認められるという言いかたも出来るかもだけれど、言い換えれば「俺とあんたは違う」という分断がそこかしこに生まれているって意味にもとれる。

そういう意味では、いじめのタネは昔に比べて無数に増えていく。
そして、その無数の価値観は俺たちをどんどん分断してく。

分断といじめ。

この必然にどんな決着を俺は望んでいるんだろう?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが価値観と言う壁を目の前にしたときに、どうやってその壁の先の誰かと手を握れるんだろうな?

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