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子どもたちの未来のための狂気

あんたも子どもたちの教育ってテーマについて考えることがあるかい?

よく子どもたちの教育を成功させるために必要なのは父親の財力と母親の狂気だなんて言葉を聞くよな。

残念ながら俺自身には財力が伴っていないので母親の狂気ってやつに期待したいところだが、俺の目から見ると妻は狂気を伴うほど息子の教育ってやつに入れ込んでいるようには見えない。

ありゃりゃ、こりゃ我が息子は凡人一直線だな。
まあ、俺自身が凡人なんだからそりゃそうだって話かもしれないけどさ。

で、ちょっと考える。
狂気ってなんだ?

今回はヒトが抱える狂気ってやつについて考えてみる回だ。

ちっとおっかないテーマだけれども、付き合ってくれよな。

自分が抱えている狂気を探る

子どもたちの教育に対して「狂気」が必要だって話はよく聞くわけだけれども、その狂気ってのは何だ?

子どもたちが何らかの学びを得ていかないと、世界で生き残っていけないよって意見はわかる。
そりゃそうだ。
何らかの力を持っていないとこの世界で生き残っていくのはメチャクチャ難易度が高いもんな。

では、その学びを「学校」から得るべきというのはどうだろうか?

多分今の世界の変化スピードの早さから考えると、学校ってシステムから得られる知識では到底追いつけないって現実があると思う。
とは言え、学校というシステムが世の中からなくなるとは思っていない。

なぜか?

学校というプロセスを経たという経歴そのものに対しての価値が依然としてあるからだよな。
言い換えるなら、全く会ったこともないヒトの価値を判断するために学歴以外の判断基準を持てないでしょって現実があるってことかも知れない。

つまり親の狂気とはこの学歴という虚構に対してどれだけ心酔できているのかって話になるのかも知れないね。

俺たちが本当に子どもたちに持ってもらいたいもの

学歴でしかヒトがヒトを測る基準を持てないってのが基本だとして、俺たちはそのわかりやすいモノサシを子どもたちに持ってもらえれば満足なんだろうか?

まあ、考えにくいけれど自分の息子がマサチューセッツ工科大学を卒業したってステータスを持ったとしたら、そりゃあスゲー!!ってなると思う。

ただ、その先にどういう大人になってほしいからその「スゲー」を手に入れて欲しいのかってのが本質だよな。

メチャクチャ抽象的な表現をしてもいいなら、俺は息子に「立派な大人」になってほしいと思うんだよな。

これが俺のもっている狂気ってわけだ。

「立派な大人」って何か?

じゃあ、その立派な大人ってのは何なのか?

前にこんなnoteを書いてみている。

このときの俺は「世の中に真剣に向き合う大人」が立派な大人だと書いている。
その言葉そのものは今もあまり変わっていない気がするね。

今回はこの言葉をもう少し先に進めてみよう。
何のために世の中に真剣に向き合うのか?

今の俺の感覚はこうだ。
「世の中の幸せの絶対量を増やすため」だ。

俺たちがガキンチョの頃は今よりももうちっと世の中がシンプルだった。
幸せな家庭像ってのはワリカシ同じようなイメージで共有されていて、家電三種の神器なんてものを目指して家庭環境も作り込まれていた。

結果として俺たちは同じ目標に向かってひたすら努力するだけで良かった。

より良い学歴。
より良い就職先。
より良い役職。

本当に一直線上に俺たちは価値観を共有できていたように思うんだ。

ところが、ニーズの多様性が細分化され続けている現代において、子どもたちは「同じ頑張り方」でしのいでいけば良いってわけじゃなくなりつつある。

学歴があれば就職できるってシンプルな話でも無くなっているし、就職しても同じ企業で働き続けるってのは今となっては夢幻のごとくなりってやつだ。

仮に就職先で出世したとして、それが俺の言う「世の中の幸せの絶対量を増やす」ことにつながるのかって言われると、ちっとばかり自信がない。

じゃあ、子どもたちにどうなって欲しいのか?

多分だけれども「話を聞ける大人」になって欲しいってことなんだろうな。

世の中に無限に存在するニーズ。
それを聞いて分類して形にする。
それこそが「幸せの絶対量」を増やすことになると思うんだよ。

そして「話を聞く」ために必要なもの。
それが相手と同じ情報を経験しているってことなんだと思うんだ。

どこかの誰かの経験。
それを想像する力。

それが俺が子どもたちに求めているものなのかも知れないな。

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちには何が必要になると思う?

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